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2020年8月16日 (日) 22:46時点における版
元 愉(げん ゆ、487年以前 - 508年)は、北魏の皇族。字は宣徳。京兆王であったが、反乱を起こして一時的に北魏の皇帝を称する。西魏の文帝の父。
経歴
孝文帝と袁貴人の子として生まれた。497年(太和21年)8月、京兆王に封じられた。都督・徐州刺史に任じられた。彭城王中軍府長史の盧陽烏を長史に任じて、徐州の事務の委細をゆだねた。宣武帝の初年、護軍将軍となった。中書監に転じた。
弟の広平王元懐とのあいだの対抗意識が強く、贅沢華麗さを競いあって、不法な収奪をおこなった。宣武帝に禁中で取り調べられ、杖罰50を受けて、冀州刺史として出された。
元愉は弟たちに劣る待遇に強い屈辱感と不満を抱き、508年(永平元年)8月に冀州で反乱を起こした。長史の羊霊引と司馬の李遵を殺し、信都の南に壇を築いて皇帝を称した。建平元年を号し、楊奥妃を皇后に立てた。宣武帝は尚書の李平に命じて元愉を討たせた。元愉は出兵して北魏の官軍をはばもうとしたが、連敗して城に籠もった。事が窮まったことを知ると、元愉は楊奥妃と四子らとともに数十騎で城門を出て捕らえられた。鎖に繋がれても、落ち着いて飲食して、恥じたり恐れたりする様子がなかった。洛陽に身柄を送られる途中、野王で死去した。一説に高肇が人を派遣して殺させたという。諸子は洛陽に到着して、みな一命を許された。後に霊太后が元愉の四子を皇族の籍にもどし、元愉を臨洮王に追封した。
息子の元宝炬が西魏の皇帝に擁立されると、元愉に文景帝の諡号が追贈された。
人物
- 兄の宣武帝に愛され、いつも後宮に出入りして、朝に夕に寝所にあり、家人のようであった。宣武帝が日ごと華林に弓遊びに出かけるたびに、元愉は騎従して距離を置かなかった。
- 元愉は宣武帝の皇后于氏の妹を妃としたが、気に入らず会おうとしなかった。徐州にいたときに歌声を聞いて気に入った楊奥妃を妾として納れた。刺史を退任して洛陽に帰ると、楊奥妃を妃に立てたいと考えて、右中郎将の李恃顕を養父とした。楊奥妃は宝月を生んだ。于皇后は楊奥妃を宮中に召し出すと、楊奥妃を殴り倒して、尼にすることを強制した。のちに楊奥妃は元愉のもとに帰されて、元愉はますます彼女を愛した。
- 元愉は文章を好み、よく詩や賦を書いた。ときの才人の宋世景・李神儁・祖瑩・邢晏・王遵業・張始均らを召し出して宴を張り、儒学者の厳懐真ら数十人を賓客に招いて館で礼遇した。得られた穀物や絹は、多くを施して散財した。また仏教を厚く信仰した。
妻子
妻
子女
- いずれも楊奥妃の子女