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「公孫淵」の版間の差分

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翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた<ref>「公孫淵伝」注に引く『漢晋春秋』によると、公孫淵が勝てば援軍として振る舞い、負ければ遼東の地を略奪して帰還する計画だった。実際には公孫淵の救援に間に合わなかったため、遼東で略奪してから引き揚げている。</ref>。また、公孫淵は[[鮮卑]]の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。
翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた<ref>「公孫淵伝」注に引く『漢晋春秋』によると、公孫淵が勝てば援軍として振る舞い、負ければ遼東の地を略奪して帰還する計画だった。実際には公孫淵の救援に間に合わなかったため、遼東で略奪してから引き揚げている。</ref>。また、公孫淵は[[鮮卑]]の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。


この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、[[相国]]に任じた{{仮リンク|王建 (三国)|label=王建|zh|王建 (三國)}}と[[御史大夫]]に任じた[[柳甫]]を使者に立て、その旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは[[ヒツの戦い#事前の経緯|楚と鄭の故事]]<!--春秋時代に、晋と楚への両属を楚に咎められて鄭が攻められた際、襄公の降服ぶりが見事だったことを、魏と呉に両属している今の燕と引き比べたものか。-->を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。このため公孫淵は次に[[衛演]]を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「降伏も出来ぬ者は無様に死ね。人質など無用である」とこれを追い払った。
この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、[[相国]]に任じた{{仮リンク|王建 (三国)|label=王建|zh|王建 (三國)}}と[[御史大夫]]に任じた[[柳甫]]を使者に立て、その旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは[[の戦い#事前の経緯|楚と鄭の故事]]<!--春秋時代に、晋と楚への両属を楚に咎められて鄭が攻められた際、襄公の降服ぶりが見事だったことを、魏と呉に両属している今の燕と引き比べたものか。-->を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。このため公孫淵は次に[[衛演]]を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「降伏も出来ぬ者は無様に死ね。人質など無用である」とこれを追い払った。


同年8月23日、公孫淵と子の[[公孫脩]]をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ[[京観]](高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の[[洛陽市|洛陽]]に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄[[公孫晃]]の一族も[[賜死|死を賜る]]ことになり、[[公孫氏 (遼東)|遼東公孫氏]]は滅亡することになった。なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。
同年8月23日、公孫淵と子の[[公孫脩]]をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ[[京観]](高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の[[洛陽市|洛陽]]に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄[[公孫晃]]の一族も[[賜死|死を賜る]]ことになり、[[公孫氏 (遼東)|遼東公孫氏]]は滅亡することになった。なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。

2020年8月17日 (月) 04:18時点における版

公孫淵
王朝
在位期間 237年 - 238年
都城 襄平
姓・諱
文懿
生年 不詳
没年 紹漢2年8月26日
238年8月23日
公孫康
年号 紹漢 : 237年 - 238年

公孫 淵(こうそん えん、拼音: Gōngsūn Yuān)は、中国三国時代の武将。文懿[1]遼東の地で自立し王を称した。

代に編纂された史書『三国志』では、晋の祖である司馬懿避諱により、字が省略されている。また、代に編纂された史書『晋書』宣帝紀と『北史』では、唐の高祖李淵の避諱により字の公孫文懿で記されている。

生涯

父の公孫康が死去した時はまだ幼少であったため、叔父の公孫恭が遼東太守となった。やがて公孫淵が成人すると、公孫恭を太和2年(228年)に脅迫して、遼東太守の座を奪った。この時、明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。

その後、公孫淵は魏の他にとも通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に封じられた。しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張弥許晏賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。

燕王を称す

しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招いた。 景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。賈範綸直らに諫められたが、聞かずに処刑した。また文武百官を置き、年号紹漢とした。領土は帯方郡楽浪郡であった。

翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた[2]。また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。

この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、相国に任じた王建中国語版御史大夫に任じた柳甫を使者に立て、その旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは楚と鄭の故事を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。このため公孫淵は次に衛演を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「降伏も出来ぬ者は無様に死ね。人質など無用である」とこれを追い払った。

同年8月23日、公孫淵と子の公孫脩をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の洛陽に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡することになった。なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。

倭との関係

遼東公孫氏の滅亡が、邪馬台国卑弥呼が魏の帯方郡に遣使することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。

なお、『魏志倭人伝』においていわゆる倭国の乱から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えているが、この期間は公孫氏が遼東で自立していた時期と重なるため、根拠に挙げられている。卑弥呼の帯方郡への遣使は、ちょうど公孫氏滅亡の直前である景初2年6月であると魏志倭人伝に記述されている。しかしこれについては、帯方郡など遼東での戦乱最中時(まだ公孫氏はまだ滅んでいない)の遣使は困難であるとして、翌年の景初3年ではないかという説[3]が主流である。ただし、邪馬台国が遣使2人で朝貢物の奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇したのは、公孫氏からいち早く魏に乗り換えた事の功績を認めたからだという観点から、公孫氏滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説[4]もある。

日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の子孫と称している。

逸話

・公孫淵父子が司馬懿によって討ち取られる前、淵の家にはたびたび異変が起こった。冠をかぶり赤い着物を着た犬が屋根に上ったかと思うと米を蒸す土鍋の中で子供が蒸し殺されていたりした。また淵の領地である襄平の北の市街に肉が現れた。長さも周囲もそれぞれ数尺、頭、目、口、唇がついていて手も足もないのに揺れ動く。そこで易者に占ってもらったところ「形はあるが完全ではない。体はあるが声はしない。これは国家滅亡の前兆ですぞ。」とのことであった[5]

配下

注釈

  1. ^ 『晋書』第1 宣帝帝紀および『北史』より。
  2. ^ 「公孫淵伝」注に引く『漢晋春秋』によると、公孫淵が勝てば援軍として振る舞い、負ければ遼東の地を略奪して帰還する計画だった。実際には公孫淵の救援に間に合わなかったため、遼東で略奪してから引き揚げている。
  3. ^ 梁書』では「至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺使朝貢」、『北史』倭国伝では「魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢」と公孫淵が殺された後の景初3年としている。また、『日本書紀』では神功皇后39年に干支年の太歳己未と分注に明帝景初3年6月とする。江戸時代の松下見林も景初3年とした。
  4. ^ 古田武彦『『邪馬台国』はなかった』1971年。 
  5. ^ 干宝著 竹田晃訳『捜神記』(初版)平凡社、1992年1月、189頁。ISBN 9784582763225