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== 経歴 ==
== 経歴 ==

2020年8月17日 (月) 05:02時点における版

到沆(とう こう、477年 - 506年)は、南朝斉からにかけての官僚文人は茂瀣。本貫彭城郡武原県

経歴

斉の五兵尚書の到撝の子として生まれた。5歳のとき、到撝が屏風に古詩の一部を書き出して、読みを一遍教えると、到沆はそれを暗誦することができた。成長すると学問に励み、文章を得意とし、篆書隷書に巧みであった。また風采や容姿にも優れていた。斉の建武年間、後軍法曹参軍を初任とした。

502年天監元年)、梁の武帝が即位すると、到沆は征虜主簿に転じた。蕭統皇太子となると、到沆はその下で太子洗馬となった。文徳殿に学士省が置かれると、到沆は召し出されて史書の校定にあたった。武帝が華光殿で宴会をおこない、群臣に命じて詩を賦させると、到沆は200字のものを3刻で完成させ、その文はたいへん美しいものであった。504年(天監3年)、殿中曹侍郎となった。従兄の到漑到洽とともに才名で知られ、みな相次いで殿中につとめたため、当時に栄誉とされた。505年(天監4年)、太子中舎人となった。

到沆は自ら他人を攻撃することがなく、他人の長所や短所をあげつらうこともなかったため、任昉范雲と友情を結ぶことができた。丹陽尹丞に転じたが、病のために職務につくことができず、北中郎諮議参軍に転じた。506年(天監5年)、在官のまま死去した。享年は30。かれの著した詩や賦は100篇あまりあった。

伝記資料