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[[北魏]]の[[正光]]年間、隴右地方で叛乱が起こると、[[雍州]][[刺史]]の元猛の召募に応じて、軍導となった。軍功により龍驤将軍・[[霊州]]刺史に累進した。[[高歓]]が信都で起兵すると、金祚は[[爾朱天光]]の下で[[東秦州]]の留守をつとめた。爾朱天光が敗れると、[[侯景]]の説得に応じて高歓に帰順し、車騎大将軍に任じられ、安定県公に封じられた。[[534年]]、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]に従って[[関中]]に入り、[[宇文泰]]の下で[[兗州]]刺史となり、太僕卿・衛尉卿を歴任した。[[西魏]]の東北道大都督・[[晋州]]刺史となり、[[東雍州]]に入った。東魏の[[尉景]]に敗れて降った。[[543年]]、[[邙山の戦い]]では、大都督として従軍して西魏の軍を破った。[[同州|華州]]刺史に任じられた。[[550年]]、[[北斉]]が建国されると、[[開府儀同三司]]の位を加えられ、臨済県子の別封を受けた。死後、[[司空]]の位を追贈された。 |
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== 伝記資料 == |
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2020年8月17日 (月) 05:04時点における版
金 祚(きん そ、生没年不詳)は、中国の東魏の軍人。字は神敬。本貫は安定郡。
経歴
北魏の正光年間、隴右地方で叛乱が起こると、雍州刺史の元猛の召募に応じて、軍導となった。軍功により龍驤将軍・霊州刺史に累進した。高歓が信都で起兵すると、金祚は爾朱天光の下で東秦州の留守をつとめた。爾朱天光が敗れると、侯景の説得に応じて高歓に帰順し、車騎大将軍に任じられ、安定県公に封じられた。534年、孝武帝に従って関中に入り、宇文泰の下で兗州刺史となり、太僕卿・衛尉卿を歴任した。西魏の東北道大都督・晋州刺史となり、東雍州に入った。東魏の尉景に敗れて降った。543年、邙山の戦いでは、大都督として従軍して西魏の軍を破った。華州刺史に任じられた。550年、北斉が建国されると、開府儀同三司の位を加えられ、臨済県子の別封を受けた。死後、司空の位を追贈された。