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[[北魏]]の[[隴西郡]][[太守]]の梁去斤の子として生まれた。[[孝昌]]年間、[[爾朱天光]]の下で[[関中]]の乱を討ち、1年のうちに20余戦して、功績により子都督に任ぜられ、隴城郷男の爵位を受けた。[[531年]]、[[都督]]に進んだ。後に[[侯莫陳悦]]に属して[[南秦州]]の乱を討った。仮節・[[衛将軍]]・左光禄大夫となり、隴城県男に進んだ。まもなく行[[天水郡]]事をつとめ、行[[趙平郡]]事に転じた。爾朱天光に再び召されて幕下に入った。爾朱天光が[[韓陵の戦い|韓陵]]で敗れると、[[賀抜岳]]に召されて幕僚となった。
[[北魏]]の[[隴西郡]][[太守]]の梁去斤の子として生まれた。[[孝昌]]年間、[[爾朱天光]]の下で[[関中]]の乱を討ち、1年のうちに20余戦して、功績により子都督に任ぜられ、隴城郷男の爵位を受けた。[[531年]]、[[都督]]に進んだ。後に[[侯莫陳悦]]に属して[[南秦州]]の乱を討った。仮節・[[衛将軍]]・左光禄大夫となり、隴城県男に進んだ。まもなく行[[天水郡]]事をつとめ、行[[趙平郡]]事に転じた。爾朱天光に再び召されて幕下に入った。爾朱天光が[[韓陵の戦い|韓陵]]で敗れると、[[賀抜岳]]に召されて幕僚となった。


[[534年]]、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、梁台は諸将と合議して[[宇文泰]]を後継者に立てた。宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、天水郡太守に任ぜられた。[[535年]]、趙平郡太守に任ぜられた。太僕の石猛とともに両山の[[匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]]を破り、[[平涼郡]]太守に転じた。莫折後熾が乱を起こし、行[[涇州]]事の[[史寧]]がこれを討って勝てずにいると、梁台は攻取の策を論じた。史寧がこれに従うと、莫折後熾を破ることができた。また梁台は[[于謹]]とともに劉平伏を討った。前後の功績により、[[潁州 (安徽省)|潁州]]刺史となり、賀蘭氏の姓を受けた。[[玉壁の戦い (542年)|玉壁]]の援軍に向かい、[[ボウ山の戦い|邙山の戦い]]にも参加した、帥都督に任ぜられた。[[549年]]、[[南夏州]]刺史に任ぜられ、通直散騎常侍・南夏州大中正を加えられた。[[553年]]、使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、[[侍中]]を加えられた。
[[534年]]、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、梁台は諸将と合議して[[宇文泰]]を後継者に立てた。宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、天水郡太守に任ぜられた。[[535年]]、趙平郡太守に任ぜられた。太僕の石猛とともに両山の[[匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]]を破り、[[平涼郡]]太守に転じた。莫折後熾が乱を起こし、行[[涇州]]事の[[史寧]]がこれを討って勝てずにいると、梁台は攻取の策を論じた。史寧がこれに従うと、莫折後熾を破ることができた。また梁台は[[于謹]]とともに劉平伏を討った。前後の功績により、[[潁州 (安徽省)|潁州]]刺史となり、賀蘭氏の姓を受けた。[[玉壁の戦い (542年)|玉壁]]の援軍に向かい、[[邙山の戦い]]にも参加した、帥都督に任ぜられた。[[549年]]、[[南夏州]]刺史に任ぜられ、通直散騎常侍・南夏州大中正を加えられた。[[553年]]、使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、[[侍中]]を加えられた。


[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、梁台の爵位は中部県公に進んだ。[[武成 (北周)|武成]]年間、[[賀蘭祥]]の下で洮陽を攻撃し、先頭に立って功績を挙げ、綏安県侯の別封を受けた。
[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、梁台の爵位は中部県公に進んだ。[[武成 (北周)|武成]]年間、[[賀蘭祥]]の下で洮陽を攻撃し、先頭に立って功績を挙げ、綏安県侯の別封を受けた。

2020年8月17日 (月) 05:05時点における最新版

梁 台(りょう だい、生没年不詳)は、中国西魏北周軍人は洛都。本貫清化郡長池県

経歴

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北魏隴西郡太守の梁去斤の子として生まれた。孝昌年間、爾朱天光の下で関中の乱を討ち、1年のうちに20余戦して、功績により子都督に任ぜられ、隴城郷男の爵位を受けた。531年都督に進んだ。後に侯莫陳悦に属して南秦州の乱を討った。仮節・衛将軍・左光禄大夫となり、隴城県男に進んだ。まもなく行天水郡事をつとめ、行趙平郡事に転じた。爾朱天光に再び召されて幕下に入った。爾朱天光が韓陵で敗れると、賀抜岳に召されて幕僚となった。

534年、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、梁台は諸将と合議して宇文泰を後継者に立てた。宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、天水郡太守に任ぜられた。535年、趙平郡太守に任ぜられた。太僕の石猛とともに両山の匈奴屠各種を破り、平涼郡太守に転じた。莫折後熾が乱を起こし、行涇州事の史寧がこれを討って勝てずにいると、梁台は攻取の策を論じた。史寧がこれに従うと、莫折後熾を破ることができた。また梁台は于謹とともに劉平伏を討った。前後の功績により、潁州刺史となり、賀蘭氏の姓を受けた。玉壁の援軍に向かい、邙山の戦いにも参加した、帥都督に任ぜられた。549年南夏州刺史に任ぜられ、通直散騎常侍・南夏州大中正を加えられた。553年、使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中を加えられた。

557年、北周の孝閔帝が即位すると、梁台の爵位は中部県公に進んだ。武成年間、賀蘭祥の下で洮陽を攻撃し、先頭に立って功績を挙げ、綏安県侯の別封を受けた。

564年大将軍に任ぜられた。北周の軍が洛陽を包囲したが、長らく落とすことができなかった。北斉の援軍がやってきたので、斉公宇文憲がこれを防いだ。数人の者が北斉軍に捕らえられたのを見て、梁台は単騎で突入して、捕らえられた者たちを奪還した。565年敷州刺史に任ぜられた。梁台は年が60を過ぎても、鎧を着て馬にまたがることができ、騎射して的を外さなかったといわれる。後に病没した。

子に梁元慶があった。

伝記資料

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