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[[賀抜岳]]が[[関中]]の兵を総べると、趙善は迎えられて、長史となった。[[534年]]、賀抜岳が[[侯莫陳悦]]に殺害されると、趙善は諸将とともに[[宇文泰]]を後継者として推挙し、侯莫陳悦の討伐に従った。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が関中に入ると、趙善は都官尚書に任ぜられ、襄城県伯に改封された。まもなく北道行台となり、儀同の[[李虎]]らとともに[[曹泥]]を討って撃破した。車騎大将軍・儀同三司・尚書右僕射に転じ、爵位は公に進んだ。 |
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[[537年]]、左僕射に転じ、[[侍中]]を兼ねた。監著作をつとめ、太子詹事を兼ねた。[[543年]]、[[邙山の戦い]]で西魏軍が敗れると、趙善は[[東魏]]軍に捕らえられた。東魏において死去した。[[572年]]、[[北周]]が[[北斉]]と修好すると、北斉から趙善の柩を返還された。[[大将軍]]・大都督・岐宜寧豳四州諸軍事・[[岐州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は敬といった。 |
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2020年8月17日 (月) 05:06時点における最新版
趙 善(ちょう ぜん、生没年不詳)は、中国の北魏から西魏にかけての軍人。字は僧慶。本貫は天水郡顕親県。趙貴の従祖兄にあたる。
経歴
[編集]北魏の安楽郡太守の趙更の子として生まれた。528年、爾朱天光が肆州刺史となると、趙善は召されてその下で主簿となり、重用された。爾朱天光が邢杲や万俟醜奴を討つと、趙善は長史をつとめた。爾朱天光の軍中の謀議には、つねに参与した。爾朱天光が関右行台となると、趙善は行台左丞となり、都督・征虜将軍の位を加えられた。531年、関隴平定の功績により、驃騎将軍・大行台・散騎常侍の位を受け、山北県伯に封ぜられた。持節・都督東雍州諸軍事・雍州刺史に任ぜられた。爾朱天光が高歓と韓陵で戦うにあたって、趙善はまた長史として従った。爾朱天光が敗死すると、趙善は爾朱天光の遺体を収容して葬る許可を求め、高歓はこれを許した。
賀抜岳が関中の兵を総べると、趙善は迎えられて、長史となった。534年、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、趙善は諸将とともに宇文泰を後継者として推挙し、侯莫陳悦の討伐に従った。孝武帝が関中に入ると、趙善は都官尚書に任ぜられ、襄城県伯に改封された。まもなく北道行台となり、儀同の李虎らとともに曹泥を討って撃破した。車騎大将軍・儀同三司・尚書右僕射に転じ、爵位は公に進んだ。
537年、左僕射に転じ、侍中を兼ねた。監著作をつとめ、太子詹事を兼ねた。543年、邙山の戦いで西魏軍が敗れると、趙善は東魏軍に捕らえられた。東魏において死去した。572年、北周が北斉と修好すると、北斉から趙善の柩を返還された。大将軍・大都督・岐宜寧豳四州諸軍事・岐州刺史の位を追贈された。諡は敬といった。
子女
[編集]- 趙度(字は幼済、車騎大将軍・儀同三司)
- 趙絢(字は会績、驃騎大将軍・開府儀同三司・淅資二州刺史)