コンテンツにスキップ

「常善」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[北魏]]の伏波将軍の[[常安成]]の子として生まれた。[[528年]]、[[爾朱栄]]に従って[[洛陽]]に入り、威烈将軍・都督に任ぜられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝の位を加えられ、房城県男に封ぜられた。[[534年]]、[[宇文泰]]の下で[[侯莫陳悦]]を討ち、天水郡守に任ぜられた。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、常善は武衛将軍に任ぜられ、爵位は武始県伯に進んだ。[[535年]]、西魏が建国されると、平東将軍の位を加えられ、爵位は侯に進んだ。宇文泰の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪回し、[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦って、いずれも戦功を挙げた。使持節・[[衛将軍]]に任ぜられ、仮の驃騎大将軍・秦州刺史となった。[[538年]]、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、大都督を加えられ、爵位は公に進み、涇州刺史に任ぜられた。[[柔然]]の侵入を受けると、常善は部下を率いて柔然を撃破した。車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に転じ、西安州刺史として出向した。蔚州刺史に転じた。[[555年]]、爵位は永陽郡公に進んだ。
[[北魏]]の伏波将軍の[[常安成]]の子として生まれた。[[528年]]、[[爾朱栄]]に従って[[洛陽]]に入り、威烈将軍・都督に任ぜられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝の位を加えられ、房城県男に封ぜられた。[[534年]]、[[宇文泰]]の下で[[侯莫陳悦]]を討ち、天水郡守に任ぜられた。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、常善は武衛将軍に任ぜられ、爵位は武始県伯に進んだ。[[535年]]、西魏が建国されると、平東将軍の位を加えられ、爵位は侯に進んだ。宇文泰の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪回し、[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦って、いずれも戦功を挙げた。使持節・[[衛将軍]]に任ぜられ、仮の驃騎大将軍・秦州刺史となった。[[538年]]、[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、大都督を加えられ、爵位は公に進み、涇州刺史に任ぜられた。[[柔然]]の侵入を受けると、常善は部下を率いて柔然を撃破した。車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に転じ、西安州刺史として出向した。蔚州刺史に転じた。[[555年]]、爵位は永陽郡公に進んだ。


[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]・寧州総管に任ぜられた。[[562年]]、入朝して小司徒となった。[[564年]]、[[突厥]]が兵を出し、隋公[[楊忠]]とともに[[北斉]]を攻撃すると、常善は突厥との応接にあたった。[[565年]]夏、64歳で死去した。使持節・柱国大将軍・大都督・延夏塩恒燕五州諸軍事・延州刺史の位を追贈された。
[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]・寧州総管に任ぜられた。[[562年]]、入朝して小司徒となった。[[564年]]、[[突厥]]が兵を出し、隋公[[楊忠]]とともに[[北斉]]を攻撃すると、常善は突厥との応接にあたった。[[565年]]夏、64歳で死去した。使持節・柱国大将軍・大都督・延夏塩恒燕五州諸軍事・延州刺史の位を追贈された。

2020年8月17日 (月) 05:08時点における最新版

常 善(じょう ぜん、502年 - 565年)は、中国西魏北周軍人本貫高陽郡

経歴[編集]

北魏の伏波将軍の常安成の子として生まれた。528年爾朱栄に従って洛陽に入り、威烈将軍・都督に任ぜられ、龍驤将軍・中散大夫・直寝の位を加えられ、房城県男に封ぜられた。534年宇文泰の下で侯莫陳悦を討ち、天水郡守に任ぜられた。孝武帝関中に入ると、常善は武衛将軍に任ぜられ、爵位は武始県伯に進んだ。535年、西魏が建国されると、平東将軍の位を加えられ、爵位は侯に進んだ。宇文泰の下で竇泰を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑で戦って、いずれも戦功を挙げた。使持節・衛将軍に任ぜられ、仮の驃騎大将軍・秦州刺史となった。538年河橋の戦いに参加し、大都督を加えられ、爵位は公に進み、涇州刺史に任ぜられた。柔然の侵入を受けると、常善は部下を率いて柔然を撃破した。車騎大将軍・儀同三司となり、驃騎大将軍・開府儀同三司に転じ、西安州刺史として出向した。蔚州刺史に転じた。555年、爵位は永陽郡公に進んだ。

557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍・寧州総管に任ぜられた。562年、入朝して小司徒となった。564年突厥が兵を出し、隋公楊忠とともに北斉を攻撃すると、常善は突厥との応接にあたった。565年夏、64歳で死去した。使持節・柱国大将軍・大都督・延夏塩恒燕五州諸軍事・延州刺史の位を追贈された。

子の常昇和が後を嗣いだ。

伝記資料[編集]