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[[鄭先護]]の子として生まれた。若い頃から功名心が強く、騎射を得意とし、胆力は人に優れた。爾朱氏の滅亡後、南朝[[梁 (南朝)|梁]]から北魏に帰順した。通直散騎侍郎を初任とした。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、鄭偉は郷里に帰り、仕官しようとしなかった。[[537年]]、[[西魏]]の[[独孤信]]が[[洛陽]]を奪うと、鄭偉は親族たちを説得して西魏につくことを決め、[[陳留郡]]で蜂起した。1万人あまりを集めて梁州を攻め落とし、[[東魏]]の刺史の鹿永吉と鎮城の令狐徳を捕らえ、また陳留郡太守の趙季和を捕らえた。鄭偉が西魏に帰順したため、近隣で西魏に降るものが相次いだ。鄭偉は[[長安]]に入ると、龍驤将軍・北徐州刺史に任ぜられ、武陽県伯に封ぜられた。
[[鄭先護]]の子として生まれた。若い頃から功名心が強く、騎射を得意とし、胆力は人に優れた。爾朱氏の滅亡後、南朝[[梁 (南朝)|梁]]から北魏に帰順した。通直散騎侍郎を初任とした。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[関中]]に入ると、鄭偉は郷里に帰り、仕官しようとしなかった。[[537年]]、[[西魏]]の[[独孤信]]が[[洛陽]]を奪うと、鄭偉は親族たちを説得して西魏につくことを決め、[[陳留郡]]で蜂起した。1万人あまりを集めて梁州を攻め落とし、[[東魏]]の刺史の鹿永吉と鎮城の令狐徳を捕らえ、また陳留郡太守の趙季和を捕らえた。鄭偉が西魏に帰順したため、近隣で西魏に降るものが相次いだ。鄭偉は[[長安]]に入ると、龍驤将軍・北徐州刺史に任ぜられ、武陽県伯に封ぜられた。


[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、また玉壁の包囲を解く援軍に参加して、いずれも鄭偉は先頭に立って敵陣を落とした。[[侯景]]が西魏に帰順すると、鄭偉は[[宇文泰]]の命により応接にあたった。後に侯景が叛くと、鄭偉は軍を収容して帰還した。前後の功績により、中軍将軍・滎陽郡太守に任ぜられ、散騎常侍・大都督の位を加えられ、爵位は襄城郡公に進んだ。車騎大将軍・開府儀同三司を加官された。
[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]に参加し、また玉壁の包囲を解く援軍に参加して、いずれも鄭偉は先頭に立って敵陣を落とした。[[侯景]]が西魏に帰順すると、鄭偉は[[宇文泰]]の命により応接にあたった。後に侯景が叛くと、鄭偉は軍を収容して帰還した。前後の功績により、中軍将軍・滎陽郡太守に任ぜられ、散騎常侍・大都督の位を加えられ、爵位は襄城郡公に進んだ。車騎大将軍・開府儀同三司を加官された。


[[555年]]、鄭偉の位は[[大将軍]]に進み、江陵防主・都督十五州諸軍事に任ぜられた。鄭偉の性格は乱暴で、規則を守らず、よく殺戮をおこなった。朝廷はかれの功績を考慮して黙認していたが、江陵において副防主の杞賓王を勝手に殺した罪により、官爵を剥奪された。[[561年]]、官爵をもどされ、そのまま宜州刺史に任ぜられた。[[571年]]、華州刺史に転じた。地方官としての鄭偉の統治は、権威と暴力を背景にしたもので、官吏や民衆はあえて禁を犯すものがなく、盗賊も跡を絶った。仁政とは言えなかったが、治安の回復を賞賛する者もみられた。この年のうちに華州で死去した。享年は57。本官に加えて少傅・都督司豫洛相冀五州諸軍事・司州刺史の位を追贈された。[[諡]]は粛といった。
[[555年]]、鄭偉の位は[[大将軍]]に進み、江陵防主・都督十五州諸軍事に任ぜられた。鄭偉の性格は乱暴で、規則を守らず、よく殺戮をおこなった。朝廷はかれの功績を考慮して黙認していたが、江陵において副防主の杞賓王を勝手に殺した罪により、官爵を剥奪された。[[561年]]、官爵をもどされ、そのまま宜州刺史に任ぜられた。[[571年]]、華州刺史に転じた。地方官としての鄭偉の統治は、権威と暴力を背景にしたもので、官吏や民衆はあえて禁を犯すものがなく、盗賊も跡を絶った。仁政とは言えなかったが、治安の回復を賞賛する者もみられた。この年のうちに華州で死去した。享年は57。本官に加えて少傅・都督司豫洛相冀五州諸軍事・司州刺史の位を追贈された。[[諡]]は粛といった。

2020年8月17日 (月) 05:10時点における版

鄭 偉(てい い、515年 - 571年)は、北魏から北周にかけての軍人官僚。小名は闍提。は子直。本貫滎陽郡開封県

経歴

鄭先護の子として生まれた。若い頃から功名心が強く、騎射を得意とし、胆力は人に優れた。爾朱氏の滅亡後、南朝から北魏に帰順した。通直散騎侍郎を初任とした。孝武帝関中に入ると、鄭偉は郷里に帰り、仕官しようとしなかった。537年西魏独孤信洛陽を奪うと、鄭偉は親族たちを説得して西魏につくことを決め、陳留郡で蜂起した。1万人あまりを集めて梁州を攻め落とし、東魏の刺史の鹿永吉と鎮城の令狐徳を捕らえ、また陳留郡太守の趙季和を捕らえた。鄭偉が西魏に帰順したため、近隣で西魏に降るものが相次いだ。鄭偉は長安に入ると、龍驤将軍・北徐州刺史に任ぜられ、武陽県伯に封ぜられた。

河橋の戦いに参加し、また玉壁の包囲を解く援軍に参加して、いずれも鄭偉は先頭に立って敵陣を落とした。侯景が西魏に帰順すると、鄭偉は宇文泰の命により応接にあたった。後に侯景が叛くと、鄭偉は軍を収容して帰還した。前後の功績により、中軍将軍・滎陽郡太守に任ぜられ、散騎常侍・大都督の位を加えられ、爵位は襄城郡公に進んだ。車騎大将軍・開府儀同三司を加官された。

555年、鄭偉の位は大将軍に進み、江陵防主・都督十五州諸軍事に任ぜられた。鄭偉の性格は乱暴で、規則を守らず、よく殺戮をおこなった。朝廷はかれの功績を考慮して黙認していたが、江陵において副防主の杞賓王を勝手に殺した罪により、官爵を剥奪された。561年、官爵をもどされ、そのまま宜州刺史に任ぜられた。571年、華州刺史に転じた。地方官としての鄭偉の統治は、権威と暴力を背景にしたもので、官吏や民衆はあえて禁を犯すものがなく、盗賊も跡を絶った。仁政とは言えなかったが、治安の回復を賞賛する者もみられた。この年のうちに華州で死去した。享年は57。本官に加えて少傅・都督司豫洛相冀五州諸軍事・司州刺史の位を追贈された。は粛といった。

鄭偉は生来吃音であった。若い頃、野で鹿を追いかけたことがあった。見失って牧童に鹿の行方を訊ねた。牧童は答えたが、その言葉もやはり吃音であった。鄭偉は怒って、自分の吃音をからかったものといい、牧童を射殺したという。

子の鄭大仕が後を嗣いだ。

伝記資料