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[[323年]]、[[臨淮郡|臨淮]]内史に転任となった。
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[[324年]]5月、王敦が再び反乱を起こすと、尚書令[[チ鑒|郗鑒]]は朝議において、蘇峻・劉遐を招集して建康を救わせるべきだと主張した。詔により、蘇峻は建康に赴いて護衛をするよう命じられた。この時、王敦もまた蘇峻の兄を派遣すると「傍観しているだけで貴人となることが出来るのに、どうして自ら死に向かおうとするのか」と諭させたが、蘇峻はこれに従わずに皇帝軍に味方した。
[[324年]]5月、王敦が再び反乱を起こすと、尚書令[[郗鑒]]は朝議において、蘇峻・劉遐を招集して建康を救わせるべきだと主張した。詔により、蘇峻は建康に赴いて護衛をするよう命じられた。この時、王敦もまた蘇峻の兄を派遣すると「傍観しているだけで貴人となることが出来るのに、どうして自ら死に向かおうとするのか」と諭させたが、蘇峻はこれに従わずに皇帝軍に味方した。


7月、精鋭1万を率いて劉遐らと共に建康に入り、以前の司徒府に屯営した。帝は夜に謁見するとその労をねぎらうと共に、都の将兵を分け与えた。この時、蘇峻軍は遠路を急行した事から兵士は疲弊していたので、王敦配下の[[沈充]]・[[銭鳳]]らは「北軍はやって来たばかりで攻戦には堪えられないであろう。これを撃てば必ず勝てる。もしこれに猶予を与えれば、後でこれを崩すのは難しいぞ」と語り合い、その夜に竹格渚より淮河を渡って皇帝軍を攻めた。護軍将軍[[応詹]]・建威将軍[[趙胤]]らは迎え撃つも不利となり、沈充らは宣陽門まで到達した。さらに防御柵を突破して侵攻したが、蘇峻は配下の将軍[[韓晃]]を率いて南塘へ進むと、劉遐と共にこれを横撃して大破し、水死者3千人を出した。さらに[[庾亮]]に従って沈充を追撃すると、再びこれを破った。
7月、精鋭1万を率いて劉遐らと共に建康に入り、以前の司徒府に屯営した。帝は夜に謁見するとその労をねぎらうと共に、都の将兵を分け与えた。この時、蘇峻軍は遠路を急行した事から兵士は疲弊していたので、王敦配下の[[沈充]]・[[銭鳳]]らは「北軍はやって来たばかりで攻戦には堪えられないであろう。これを撃てば必ず勝てる。もしこれに猶予を与えれば、後でこれを崩すのは難しいぞ」と語り合い、その夜に竹格渚より淮河を渡って皇帝軍を攻めた。護軍将軍[[応詹]]・建威将軍[[趙胤]]らは迎え撃つも不利となり、沈充らは宣陽門まで到達した。さらに防御柵を突破して侵攻したが、蘇峻は配下の将軍[[韓晃]]を率いて南塘へ進むと、劉遐と共にこれを横撃して大破し、水死者3千人を出した。さらに[[庾亮]]に従って沈充を追撃すると、再びこれを破った。

2020年8月17日 (月) 05:20時点における版

蘇 峻(そ しゅん、? - 328年)は、中国東晋の武将。子高長広郡挺県の出身。父は西晋の安楽相蘇模。弟に蘇逸、子に蘇碩がいる。また、兄が少なくとも1人いる。

経歴

流民を糾合

若くして書生となり、才学を有していたことから郡に仕えて主簿に任じられた。18歳の時には孝廉に挙げられた。

当時、永嘉の乱によって中原一帯は胡人の跋扈する地となっており、騒乱の中で民衆の虐殺や餓死が頻発していた。こうした中、多数の流民が発生し、彼らの多くは各地で砦を築き、自衛のために集団で武装していた(いわゆる塢壁)。蘇峻もまた数千家をまとめ上げて掖県において砦を築いており、当時こうした豪族が多数いた中でも最強と謳われていた。

彼は長史である徐瑋を諸々の集落に派遣し、檄を伝えて自らの徳を示すと共に、野に晒されていた遺骨を収めて埋葬した。これにより、遠近問わず多くの人々がその恩義に感じ入り、彼を盟主として推戴した。その後は主に海辺の山中で狩猟を行い、生計を立てていた。その噂は建康に勢力を構える司馬睿(後の東晋元帝)にも聞こえるところとなり、仮の安集将軍に任じられた。

東晋に帰順

318年青州全域を実効支配していた青州刺史曹嶷の上表により、蘇峻は掖県令に任じられたが、彼は病気を理由に受けなかった。曹嶷は蘇峻の勢力が強大である事を妬み、またいずれ患いを為すであろうと危惧し、討伐の兵を挙げた。蘇峻はこれを恐れ、自らの従えていた数百家を伴って海路より南へと渡り、東晋へ向かった。広陵まで到達すると、朝廷は遠方から到来した事を喜び、鷹揚将軍に任じた。

12月、彭城内史周撫沛国内史周黙を殺害し、彭城ごと後趙に降伏した。泰山郡太守徐龕徐州刺史蔡豹下邳内史劉遐らが周撫討伐に向かうと、詔により蘇峻は劉遐らの援護を命じられた。319年2月、討伐軍は寒山に進軍すると周撫を撃破し、これを敗走させた。蘇峻はこの戦いで功績を挙げた事により、淮陵内史に任じられた。

後に蘭陵相に転任となった。

322年1月、大将軍王敦が反乱を起こすと、詔により蘇峻はこれの討伐を命じられた。だが、彼は征伐の吉凶について占った所、不吉であった事からわざと進軍を遅らせた。3月、討伐軍が王敦に敗れると、蘇峻は軍を退いて盱眙に鎮した。

かつて淮陵の役人であった徐深艾毅は幾度も蘇峻を内史とするよう要請し、詔により認められて再び淮陵内史に任じられ、さらに奮威将軍を加えられた。

323年臨淮内史に転任となった。

324年5月、王敦が再び反乱を起こすと、尚書令郗鑒は朝議において、蘇峻・劉遐を招集して建康を救わせるべきだと主張した。詔により、蘇峻は建康に赴いて護衛をするよう命じられた。この時、王敦もまた蘇峻の兄を派遣すると「傍観しているだけで貴人となることが出来るのに、どうして自ら死に向かおうとするのか」と諭させたが、蘇峻はこれに従わずに皇帝軍に味方した。

7月、精鋭1万を率いて劉遐らと共に建康に入り、以前の司徒府に屯営した。帝は夜に謁見するとその労をねぎらうと共に、都の将兵を分け与えた。この時、蘇峻軍は遠路を急行した事から兵士は疲弊していたので、王敦配下の沈充銭鳳らは「北軍はやって来たばかりで攻戦には堪えられないであろう。これを撃てば必ず勝てる。もしこれに猶予を与えれば、後でこれを崩すのは難しいぞ」と語り合い、その夜に竹格渚より淮河を渡って皇帝軍を攻めた。護軍将軍応詹・建威将軍趙胤らは迎え撃つも不利となり、沈充らは宣陽門まで到達した。さらに防御柵を突破して侵攻したが、蘇峻は配下の将軍韓晃を率いて南塘へ進むと、劉遐と共にこれを横撃して大破し、水死者3千人を出した。さらに庾亮に従って沈充を追撃すると、再びこれを破った。

10月、乱が鎮まると、功績により使持節・冠軍将軍・歴陽内史に昇進し、散騎常侍を加えられた。邵陵公に封じられ、食邑千八百戸を与えられた。

反乱の萌芽

蘇峻は元々貧しい家柄でありながら、争乱に乗じて衆を纏め上げ、晋朝に帰順して以降は立功の志を有するようになった。こうして国に対する功を立てるに至り、その威望は否応なく高まった。鋭卒1万人を有し、精巧なる兵器を蓄えるまでになり、朝廷は長江の外に彼を置いた。

だが、蘇峻は次第に驕溢し、朝廷の志を軽んじるようになり、その兵力を頼みとして異心を抱くようになった。亡命者を慰撫して迎え入れ、死を逃れる為にやって来た罪人を匿ってやり、その勢力は日を追う毎に盛んとなった。県より食糧の供給を絶え間なく受けていたが、それが少しでも意に沿わないものであれば、好き勝手に暴言を吐いたという。

325年7月、明帝が崩御して成帝が即位したが、彼は幼年であったので政務の一切は宰相の庾亮に委ねられた。彼はこの時から蘇峻の異心を疑っており、彼が陶侃の兵を吸収することを恐れていたという。

326年10月、南頓王司馬宗は明帝の側近として重用されていたが、明帝の死後は庾亮により遠ざけられたので恨みを抱いていた。だが、彼は蘇峻ともかねてより親交が篤かった事から、庾亮もまたこれを警戒して排斥せんと目論んでおり、先んじて兵を繰り出してこれを誅殺した。司馬宗の側近卞闡は蘇峻の下へ逃走すると、庾亮は蘇峻に卞闡を建康に送るよう命じたが、蘇峻は命令に従わずにこれを匿った。

11月、後趙汲郡内史石聡寿春に侵攻し、逡遒・阜陵へ進んで5千人余りを殺掠した。建康は大いに震撼し、司徒王導江寧へ派遣してその襲来に備えた。蘇峻は配下の韓晃を派遣して石聡を攻撃させ、これを撤退させた。

挙兵決行

327年10月、庾亮は蘇峻が禍乱を為すことを恐れ、彼を中央に召喚しようとした。だが、蘇峻はこれを聞くと、司馬何仍を庾亮のもとへ派遣して「外において賊を討ち、遠近を命に従わせる事が我が任であります。内において輔佐を為すというのは実に堪えざる所です」と訴えたが、認められなかった。詔により大司農・散騎常侍・特進となって中央に赴くよう命じられ、その勢力については弟の蘇逸が代わって率いるように命じられた。また、庾亮は北中郎将郭黙を後将軍・領屯騎校尉に任じ、司徒右長史庾冰を呉国内史に任じ、いずれも兵を与えて蘇峻の反乱に備えさせた。

蘇峻は以前より朝廷が自らを害しようとしているのではないかと疑っており、上表して「昔、明皇帝は自ら臣の手を執り、臣に北の胡寇を討つよう命じられました。今、中原は未だ鎮まっておらず、国家のために用いられるわけにはまいりません。願わくば青州の辺境の一郡の任を授けていただき、鷹犬として用いていただきますよう」と請うたが、これも認められなかった。その為、蘇峻は厳重に備えた上で赴こうとしたが、なかなか決心出来なかった。すると参軍任譲は進み出て「将軍は荒郡(辺境の郡)に処する事を求めてさえ許されなかったのですぞ。事の趨勢がこのようであるのですから、恐らく生還する道はないでしょう。兵を従えて守りを固められるのがよいかと」と勧めた。阜陵県令匡術もまた蘇峻に反乱を勧めたので、蘇峻は遂に従うのをやめた。

朝廷は使者を派遣して説得に当たらせたが、蘇峻は「台下(閣下)は我が反乱を起こそうとしていると言っているのに、どうして生きられる事が出来ましょうか。我は山頂より廷尉を望む事は出来ても、廷尉に山頂より望まれるのは御免こうむるものです。かつて国は累卵の危機にありましたが、我がこれを救ったのですぞ。狡兎が既に死したならば、猟犬を煮てしまうというのはまさにこの事でしょう。ただこの謀をなした者に死をもたらずのみです」と答えた。

蘇峻は豫州刺史祖約が朝廷と対立していると知り、参軍徐会を派遣して祖約へ同盟を持ちかけ、共に庾亮を討とうと要請すると、祖約はこの申し出に大喜びした。これにより両者は同盟を結んだ。

11月、蘇峻は庾亮を除くことを名目として東晋に反乱を起こすと(蘇峻の乱)、祖約は配下の沛国内史祖渙淮南郡太守許柳に兵を与えて蘇峻と合流させた。

建康を陥とす

12月、蘇峻は配下の韓晃・張健らを派遣して姑孰を襲撃すると、これを攻め落として食料を略奪した。彭城王司馬雄・章武王司馬休もまた反乱を起こすと、蘇峻に呼応した。

建康では戒厳令が敷かれ、庾亮は仮節・都督征討諸軍事に任じられ、左衛将軍趙胤は歴陽郡太守に任じられた。また、左将軍司馬流は兵を率いて慈湖に拠り、蘇峻の侵攻を阻んだ。以前の射声校尉劉超は左衛将軍に、侍中褚翜は征討諸軍事に任じられた。また庾亮は弟の庾翼に白衣(小役人)数百人を与え、石頭を防備させた。

宣城内史桓彝は建康救援のために蕪湖まで進んだが、韓晃がこれを撃破し、さらに宣城へ侵攻した。桓彝が軍を後退させて広徳を守ると、韓晃は宣城の諸県で大々的に略奪を為してから軍を戻した。

328年1月、温嶠は建康救援の軍を挙げ、尋陽まで進出した。韓晃は慈湖に迫り、于湖県令陶馥・振威将軍司馬流らと交戦すると、いずれも撃ち破って殺害した。蘇峻自らは祖渙・許柳を始め1万の兵を率い、風に乗じて横江を渡ると、牛渚を越えて陵口へ侵攻し、皇帝軍を幾度も破った。

2月、蘇峻は蒋陵の覆舟山に拠点を構えた。詔により卞壼は都督大桁東諸軍事に任じられ、侍中鍾雅・郭黙・趙胤らを率いて西陵において蘇峻を阻んだが、蘇峻はこれに大勝して千人以上を死傷させた。さらに青渓柵を攻めると、卞壼は諸軍を統率して迎え撃ったが、蘇峻はこれも突破した。遂には城内に兵を繰り出すと、風に乗じて火を放ち、建康にある台・省や諸々の陣営・役所は瞬く間に尽く焼け落ちてしまった。この混乱の中で卞壼は戦死し、さらに雲龍門を守っていた丹楊尹羊曼・黄門侍郎周導廬江郡太守陶瞻らもまた戦死した。庾亮は兵を率いて宣陽門内にいたが、士卒はみな武具を捨てて逃走してしまったので、弟の庾懌庾條・庾翼や郭黙・趙胤らと共に尋陽へと逃れた。百官もまた逃散してしまい、宮殿や役所は静まり返ってしまった。その後、庾亮は尋陽へ到達すると、温嶠の庇護下に入った。

蘇峻は宮殿を陥れると、侍中褚翜は「蘇冠軍は至尊(皇帝)に来観しにきたのであろう。どうして軍人が侵逼する様な真似をするのか!」と叱りつけたので、蘇峻の兵は敢えて上殿しなかった。ただ、それ以外については兵を放って大々的に掠奪を行ない、後宮を侵逼して宮女や太后直属の侍女を全て連れ去るなど、残酷無道を極めた。また蘇峻は百官らを駆り立て、光禄勲王彬らをみな鞭打ちながら蒋山を登らせた。士女らは衣服まで奪われたので、や草をちぎって体を隠したが、草が手に入らぬ者は地に座り込んで土で体を覆う有様であり、人々が悲しみ叫ぶ声で内外が震動したという。

当時、官署には布20万匹・金銀5千斤・銭億万・絹数万匹及びこれに相当する様々な物資の備蓄があったが、蘇峻はこれらを全て使い果たした。その為、太官は焼け焦げた数石の米を御膳として帝に供するほかなかった。また、蘇峻は詔を詐称して大赦を下したが、庾亮兄弟はその対象外とした。王導は徳望を有していた事から官位はそのままで自らの側に使えさせ、祖約を侍中・太尉・尚書令に任じ、自らは驃騎領軍将軍・録尚書事を名乗り、許柳を丹楊尹に任じ、前将軍馬雄に左衛将軍を加え、祖渙を驍騎将軍に任じた。弋陽王司馬羕は蘇峻の下を詣でると、その功績について詳述した事から、蘇峻は西陽王・太宰・録尚書事に復帰させてやり、その子である司馬播もまた元々の官位に復帰させた。さらには朝廷の重職を入れ替えて自らの親党らをこれに任じ、政事はその尽くを彼らに委ねた。また、韓晃には義興を、張健・管商弘徽らには晋陵をそれぞれ守らせた。

同月、蘇峻は兵を繰り出して呉国内史庾冰を攻めると、庾冰は郡を捨てて会稽へ逃走した。蘇峻は侍中蔡謨を後任の呉国内史に任じると共に、すぐさま懸賞金を掛けて庾冰捕縛を命じたが、逃げられてしまった。

3月、蘇峻は湖州の南に駐屯した。

温嶠・陶侃らの反攻

同月、温嶠・庾亮は水軍7千を率いて蘇峻討伐を宣言すると、陶侃もまたこれに呼応して武昌より出撃した。

5月、陶侃は尋陽まで到達すると、温嶠・庾亮と合流して4万の兵を率いて建康へ進んだ。蘇峻は温嶠らの挙兵を知ると、参軍賈寧の計略に従って姑孰から石頭へ帰還すると共に、兵を分割して各地の討伐軍を防がせ、これらを尽く滅ぼさんとした。また、皇帝を石頭へ戻すと共に、側近の許方らを司馬督・殿中監とし、宿衛兵を領させて皇帝の側近である劉超らを監視させた。さらに倉屋を帝宮とし、帝の前では自らの正当性を示すためにいつも出鱈目な話をした。蘇峻は左光禄大夫陸曄に留台を守らせると共に、近隣住民を尽く後苑に移して懐徳県令匡術に苑城を守らせた。尚書左丞孔坦は蘇峻の下から離れて陶侃軍に逃れた。当時、一連の混乱と饑饉が重なり、米の値段が高騰したという。

これより以前、蘇峻は尚書張闓を派遣して三呉の将兵を統率させていたが、王導は密かに太后の詔と称して三呉の将兵を説得させると、彼らは皇帝救援の義軍を興した。会稽内史王舒は庾冰を行奮武将軍に任じて1万の兵を授けて浙江を西へ渡らせ、呉興郡太守虞潭・呉国内史蔡謨・前義興郡太守顧従らもみな挙兵してこれに呼応した。蘇峻は東方で兵が起こったと知り、管商・張健・弘徽らを派遣してこれを阻ませた。管商らは軍を進めて呉郡へ侵攻し、呉県・海塩・嘉興の各拠点を焼き払い、多数の討伐軍を破った。その後、さらに余杭へ侵攻して城を焼き払ったが、武興へ進むと大敗を喫してしまい、義興に撤退した。その後も両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、膠着状態となった。

同月、陶侃・温嶠の軍は茄子浦まで到達した。この時、蘇峻は米1万斛を祖約の陣営を送り届けると、祖約は司馬桓撫らを派遣してこれを迎え入れた。だが、温嶠軍の前鋒である毛宝は千人の兵を率いて桓撫軍を襲撃し、兵糧を尽く鹵獲して1万人を斬獲したので、祖約軍は飢えに苦しんだ。

郗鑒もまた兵を率いて長江を渡ると、茄子浦において陶侃らと合流した。雍州刺史魏該もまたこれに合流した。

石頭城の攻防

陶侃らは水軍を率いて石頭へ向けて直進し、蔡洲まで到達すると、陶侃は查浦に駐屯し、温嶠は沙門浦に駐屯した。蘇峻は烽火台に登って敵軍の壮観さを望見すると、周囲の者へ「我はもとより、温嶠には衆を集める力があると解っていたのだ」と述べ、顔色を変えたという。

同月、庾亮は督護王彰を派遣して蘇峻の側近張曜の陣営を攻めたが、張曜は返り討ちにした。

宣城内史桓彝もまた蘇峻討伐を目論んで涇県まで進むと、将軍兪縦に蘭石を守らせた。これを聞いた蘇峻は将軍韓晃に討伐を命じると、韓晃は兪縦を敗って戦死させ、さらに進軍して宣城を守る桓彝を包囲した。

6月、韓晃は城を陥落させると、桓彝を捕らえてこれを殺した。

同月、庾亮は2千の兵を率いて白石を守っており、蘇峻は歩騎1万余りを率いて四面よりこれを攻めたが、攻略できなかった。その一方、王舒・虞潭らが攻めたてると、これを幾度も返り討ちにした。その為、陶侃は郗鑒・後将軍郭黙に命じて京口へ後退させると、大業・曲阿・庱亭3つの砦を築かせて蘇峻の軍を分散させようとした。

この時期、祖約もまた配下の祖渙・桓撫を湓口から皖へ侵攻させ、譙国内史桓宣を攻撃させた。陶侃配下の毛宝は救援に向かうと祖渙らはこれを返り討ちにしたが、毛宝は軍勢立て直すと逆に祖渙らを破ったので、桓宣は難を逃れて温嶠と合流した。毛宝はさらに進んで東関にいる祖約軍を攻め立てると、合肥城を攻略し、その後温嶠軍と合流して石頭に戻った。

7月、寿春を守る祖約は後趙の将軍石聡・石堪らに敗れ、歴陽へ逃走した。蘇峻の腹心である路永・匡術・賈寧は祖約の敗戦を聞いて軍全体の崩壊を恐れ、蘇峻には司徒王導を始めとした諸大臣を尽く誅殺し、自らの腹心を代わりに立てるよう勧めた。だが、蘇峻は王導を重んじていたので、これを赦さなかった。これにより路永らは蘇峻に不満を抱くようになり、これを好機と見た王導は参軍袁耽を派遣して路永に寝返りを持ち掛けた。9月、王導は2人の子や路永と共に、隙を見て白石へ逃走した。

あっけない最期

蘇峻は陶侃・温嶠らと長期に渡って対峙していたが、お互いに決定機が見いだせずにいた。ただこの間、蘇峻は諸将を東西の各地へ派遣して攻掠させており、戦をすれば全て勝利を収めていた。これによりその勢いは日を追う事に盛んとなり、討伐軍の兵はみな動揺し、その中には寝返ろうと考える者さえあった。討伐軍にいる朝臣らはみな「峻は狡猾にして勇敢・果断であり、その衆はいずれも驍勇であり、向かうところ敵なしです。天が罪人を討つならば峻は滅亡するでしょうが、人の力をもってして除くことは容易ではありません」と勧めたが、温嶠は「諸君は怯懦である。賊を称賛するというのか!」と怒った。だが、その後も蘇峻は連戦連勝であったので、温嶠もまたこれを深く憚り、食料が乏しくなってきた事もあって撤退を考えるようになった。

陶侃は毛宝を派遣して句容・湖熟に集積していた蘇峻の糧食を焼き払わせた。これにより、蘇峻は軍糧が欠乏してしまったので、陶侃らは撤退を中止して交戦を継続した。

同月、張健・韓晃らは大業へ急攻してこれを包囲すると、砦内では水が欠乏した事により糞尿を飲むまでになった。守将の郭黙は大いに恐れ、密かに包囲を突破して外へ脱出すると、配下の兵を残して防戦を継続させた。

陶侃は水軍を率いて石頭へ向かうと、庾亮・温嶠・趙胤もまた歩兵1万を率いて白石の南より侵攻し、蘇峻に決戦を挑んだ。蘇峻は8千人を率いてこれを迎え撃つと、さらに蘇峻の子である蘇碩と匡孝は兵を分けて数十騎を率いて趙胤軍へ突撃し、これを撃破した。蘇峻は将士を労いながら趙胤が逃走するのを望見していたが、調子に乗って「孝もよく賊を破ったが、我には及ぶまい!」と述べると、兵の大半を残したままで数騎のみを連れ、追撃を掛けて北へ向かった。そして趙胤軍へ突撃を掛けたが、突破出来なかったので軍を返し、白木陂へと向かおうとした。だが、その馬が躓いた所を趙胤配下の牙門彭世・李千らが矛を投げて蘇峻を落馬させた。蘇峻はこれにより転倒してしまい、敵兵により首を斬られた。その体は切り刻まれ、骨は焼き尽くされた。これにより残兵もまた潰走した。蘇峻の戦死を聞いて討伐軍はみな万歳を唱えた。

その後

同月、蘇峻の司馬任譲らは蘇峻の弟蘇逸を新たな盟主に立てて抗戦を継続した。彼らは蘇峻の遺骸を求めたが得る事が出来ず、蘇碩は庾亮の父母の墓を暴いて棺を割り、その屍を焼き払って恨みを晴らした。

蘇逸は積極的に敵軍とは事を構えずに城の守りを固めた。韓晃は蘇峻の敗死を聞いて兵を率いて石頭へと向かった。管商・弘徽は軍を進めて庱亭塁を攻めたが、督護李閎・軽車長史滕含はこれを返り討ちにして千人を討ち取った。その為、管商は兵を率いて延陵へ逃走したが、李閎は庱亭の諸軍と共にこれを追撃し、数千人を斬獲した。これにより、管商は庾亮のもとへ赴いて降伏し、残った兵はいずれも張健に帰順した。

329年1月、光禄大夫陸曄・尚書左僕射陸玩の説得により、匡術は苑城ごと降伏した。韓晃は蘇逸らと共に匡術を攻めたが、陥れることは出来なかった。

右衛将軍斉超・侍中鍾雅・建康県令管旆らは密かに帝を討伐軍の陣営へ連れ出そうと企んだが、事が露見して蘇逸は任譲を宮殿に入らせて斉超らを捕らえて処刑した。

冠軍将軍趙胤は配下の甘苗を歴陽に派遣して祖約を討たせると、祖約は夜に側近数百人を伴って後趙に亡命し、その配下牽騰は兵を率いて趙胤に降った。

蘇逸・蘇碩・韓晃らは共に台城を攻め、太極東堂・秘閣を焼き払った。

2月、討伐軍の諸将は一斉に石頭を攻めると、建成長史滕含が精鋭を率いて蘇逸軍を大破した。蘇碩は驍勇な数百の兵を率いて淮河を渡ると、討伐軍を迎え撃ったものの、敗戦を喫して戦死した。韓晃らは大いに恐れ、その兵を伴って曲阿にいる張健のもとへ逃れようとしたが、狭隘な門から我先に脱出しようとしたので、互いに踏みつけ合って1万の死者を出した。蘇逸もまた李湯に破れて捕らえられ、車騎門において斬首された。これにより石頭は陥落し、帝は温嶠の軍船へ逃れた。西陽王司馬羕・とその2子の司馬播・司馬充・司馬播の子の司馬崧・彭城王司馬雄もまた誅殺された。

張健は弘徽らが自らに同心しないのではないかと疑い、これを尽く殺害すると、船をもって延陵から呉興の長塘へと向かった。この時、まだ2万戸余りの人と莫大な金銀財宝を携えていた。揚烈将軍王允之は呉興の諸軍と共に張健を攻撃してこれを大破し、男女1万戸余りを捕らえた。張健は馬雄・韓晃らと共に軽軍のみで西の故鄣へ逃走を図ったが、郗鑒は李閎に精鋭を与えてこれを追撃し、平陵山において追いついてこれを攻め立てた。張健らは山中に篭って出てこようとしなかったが、韓晃だけは靫(矢を携帯するための筒状の容器)を2つ携えて山を降りると、胡床に座って矢を続けざまに放った。これにより多くの兵を殺傷したが、矢が尽きたところで斬り殺された。張健らは降伏したが、みな梟首された。

こうして反乱は完全に鎮圧された。

参考文献

脚注