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「陸雲公」の版間の差分

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寧遠長史・琅邪彭城二郡丞の陸完([[陸襄]]の兄)の子として生まれた。5歳で『[[論語]]』や『[[詩経|毛詩]]』を暗誦し、9歳で『[[漢書]]』を読んでほぼ記憶していたといわれる。[[陸スイ|陸倕]]と[[劉顕 (南朝梁)|劉顕]]が10の質問をしたことがあったが、雲公は完璧な回答をしたので、劉顕はこれに感嘆した。成長すると、学問を好んで才知にすぐれた。[[揚州 (古代)|揚州]]により[[秀才 (科挙)|秀才]]に挙げられ、武陵王[[蕭紀]]の下で宣恵行参軍をつとめた。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]の麾下に転じて平西行参軍となった。
寧遠長史・琅邪彭城二郡丞の陸完([[陸襄]]の兄)の子として生まれた。5歳で『[[論語]]』や『[[詩経|毛詩]]』を暗誦し、9歳で『[[漢書]]』を読んでほぼ記憶していたといわれる。[[陸スイ|陸倕]]と[[劉顕 (南朝梁)|劉顕]]が10の質問をしたことがあったが、雲公は完璧な回答をしたので、劉顕はこれに感嘆した。成長すると、学問を好んで才知にすぐれた。[[揚州 (古代)|揚州]]により[[秀才 (科挙)|秀才]]に挙げられ、武陵王[[蕭紀]]の下で宣恵行参軍をつとめた。湘東王[[元帝 (南朝梁)|蕭繹]]の麾下に転じて平西行参軍となった。


雲公は「太伯廟碑」を作ったことがあり、[[呉興郡]][[太守]]の[[張サン|張纘]]が帰任途中にこれを読んで感心して、「今の[[蔡ヨウ|蔡伯喈]]なり」と評した。張纘が[[建康 (都城)|建康]]で官吏の推挙を担当すると、雲公のことを[[蕭衍|武帝]]に言上したため、雲公は召還されて尚書儀曹郎を兼ねた。ほどなく正式に尚書儀曹郎となり、寿光省に入って宿直し、本官のまま知著作郎事をつとめた。まもなく著作郎に任じられた。さらに著作を管掌したまま、中書郎と黄門郎を歴任した。
雲公は「太伯廟碑」を作ったことがあり、[[呉興郡]][[太守]]の[[張サン|張纘]]が帰任途中にこれを読んで感心して、「今の[[蔡|蔡伯喈]]なり」と評した。張纘が[[建康 (都城)|建康]]で官吏の推挙を担当すると、雲公のことを[[蕭衍|武帝]]に言上したため、雲公は召還されて尚書儀曹郎を兼ねた。ほどなく正式に尚書儀曹郎となり、寿光省に入って宿直し、本官のまま知著作郎事をつとめた。まもなく著作郎に任じられた。さらに著作を管掌したまま、中書郎と黄門郎を歴任した。


雲公は[[囲碁]]を得意とし、夜半に武帝のそばで碁を打ったことがあったが、このとき[[ろうそく]]の火が冠に当たっていたため、武帝は「燭が卿の貂を焼いているぞ」といって笑った。武帝は雲公を[[侍中]]に任用しようしていたため、この戯言のあったものである。武帝は天淵池に鯿魚舟を作り、休暇の日にこの舟を浮かべて遊んでいたが、朝廷からは[[劉之リン|劉之遴]]・[[到漑]]・[[朱イ|朱异]]と雲公が同伴に与った。[[547年]]([[太清]]元年)、雲公は死去した。享年は37。文集が当時に通行した。
雲公は[[囲碁]]を得意とし、夜半に武帝のそばで碁を打ったことがあったが、このとき[[ろうそく]]の火が冠に当たっていたため、武帝は「燭が卿の貂を焼いているぞ」といって笑った。武帝は雲公を[[侍中]]に任用しようしていたため、この戯言のあったものである。武帝は天淵池に鯿魚舟を作り、休暇の日にこの舟を浮かべて遊んでいたが、朝廷からは[[劉之リン|劉之遴]]・[[到漑]]・[[朱イ|朱异]]と雲公が同伴に与った。[[547年]]([[太清]]元年)、雲公は死去した。享年は37。文集が当時に通行した。

2020年8月17日 (月) 07:40時点における版

陸雲公(りく うんこう、511年 - 547年)は、南朝梁官僚文人は子龍。本貫呉郡呉県

経歴

寧遠長史・琅邪彭城二郡丞の陸完(陸襄の兄)の子として生まれた。5歳で『論語』や『毛詩』を暗誦し、9歳で『漢書』を読んでほぼ記憶していたといわれる。陸倕劉顕が10の質問をしたことがあったが、雲公は完璧な回答をしたので、劉顕はこれに感嘆した。成長すると、学問を好んで才知にすぐれた。揚州により秀才に挙げられ、武陵王蕭紀の下で宣恵行参軍をつとめた。湘東王蕭繹の麾下に転じて平西行参軍となった。

雲公は「太伯廟碑」を作ったことがあり、呉興郡太守張纘が帰任途中にこれを読んで感心して、「今の蔡伯喈なり」と評した。張纘が建康で官吏の推挙を担当すると、雲公のことを武帝に言上したため、雲公は召還されて尚書儀曹郎を兼ねた。ほどなく正式に尚書儀曹郎となり、寿光省に入って宿直し、本官のまま知著作郎事をつとめた。まもなく著作郎に任じられた。さらに著作を管掌したまま、中書郎と黄門郎を歴任した。

雲公は囲碁を得意とし、夜半に武帝のそばで碁を打ったことがあったが、このときろうそくの火が冠に当たっていたため、武帝は「燭が卿の貂を焼いているぞ」といって笑った。武帝は雲公を侍中に任用しようしていたため、この戯言のあったものである。武帝は天淵池に鯿魚舟を作り、休暇の日にこの舟を浮かべて遊んでいたが、朝廷からは劉之遴到漑朱异と雲公が同伴に与った。547年太清元年)、雲公は死去した。享年は37。文集が当時に通行した。

伝記資料