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「于義」の版間の差分

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[[宣帝 (北周)|宣帝]]が即位すると、政治が日増しに乱れたので、于義は上疏して諫めた。宣帝は于義の上表を見て、「于義が朝廷を誹謗している」と言った。御正大夫の[[顔之儀]]が「いにしえの賢王は誹謗の木を立て、敢諫の鼓を置いて、なお意見が聞こえないことを恐れたものです。于義の言を罪としてはいけません」と述べると、宣帝は納得した。
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[[楊堅]]が[[宰相]]となり、[[王謙]]が乱を起こすと、楊堅はこれを撃つ将軍を誰にするか[[高ケイ|高熲]]に諮問した。高熲は「于義を[[元帥]]とするのがよろしいでしょう」と答え、楊堅ははじめこれを承認していた。しかし[[劉ボウ (隋)|劉昉]]が「[[梁睿]]の位と声望が高いので、于義の下に置いてはいけません」と進言したので、楊堅は取りやめた。そこで梁睿を元帥とし、于義を行軍総管とした。王謙の部将の達奚惎が兵を率いて開遠に拠ったので、于義は左軍を率いてこれを撃破した。まもなく潼州総管となり、上柱国の位を受けた。ときに兄の[[于翼]]が[[太尉]]となり、弟の于智や兄の子の[[于仲文]]も上柱国となって、于氏は貴戚と称された。一年あまりして、于義は病のため免職され、[[長安]]に帰った。数カ月後、50歳で死去した。豫州刺史の位を追贈され、[[諡]]を剛といった。
[[楊堅]]が[[宰相]]となり、[[王謙]]が乱を起こすと、楊堅はこれを撃つ将軍を誰にするか[[高熲]]に諮問した。高熲は「于義を[[元帥]]とするのがよろしいでしょう」と答え、楊堅ははじめこれを承認していた。しかし[[劉ボウ (隋)|劉昉]]が「[[梁睿]]の位と声望が高いので、于義の下に置いてはいけません」と進言したので、楊堅は取りやめた。そこで梁睿を元帥とし、于義を行軍総管とした。王謙の部将の達奚惎が兵を率いて開遠に拠ったので、于義は左軍を率いてこれを撃破した。まもなく潼州総管となり、上柱国の位を受けた。ときに兄の[[于翼]]が[[太尉]]となり、弟の于智や兄の子の[[于仲文]]も上柱国となって、于氏は貴戚と称された。一年あまりして、于義は病のため免職され、[[長安]]に帰った。数カ月後、50歳で死去した。豫州刺史の位を追贈され、[[諡]]を剛といった。


子の[[于宣道]]・[[于宣敏]]は、ともに名を知られた。
子の[[于宣道]]・[[于宣敏]]は、ともに名を知られた。

2020年8月17日 (月) 14:17時点における版

于 義(う ぎ、生没年不詳)は、中国北周からにかけての政治家軍人は慈恭。本貫河南郡洛陽県

経歴

于謹の子として生まれた。西魏大統末年、父の功績により平昌県伯の爵位を受けた。直閤将軍を初任とした。後に広都県公に改封された。北周が建国されると、安武太守に累進した。郡民の張善安と王叔児が財産をめぐって争訟したとき、于義は「太守の徳が薄く、任にたえないことが原因で、その罪ではない」と言って、自分の家財を取って請求の倍をふたりに与え、諭して去らせた。張善安らはおのおの恥じて他州に移貫した。于義は建平郡公に進んだ。北周の明帝武帝の代に、西兗州瓜州邵州の刺史を歴任した。たびたび征戦に従って、位は開府儀同三司に進んだ。

宣帝が即位すると、政治が日増しに乱れたので、于義は上疏して諫めた。宣帝は于義の上表を見て、「于義が朝廷を誹謗している」と言った。御正大夫の顔之儀が「いにしえの賢王は誹謗の木を立て、敢諫の鼓を置いて、なお意見が聞こえないことを恐れたものです。于義の言を罪としてはいけません」と述べると、宣帝は納得した。

楊堅宰相となり、王謙が乱を起こすと、楊堅はこれを撃つ将軍を誰にするか高熲に諮問した。高熲は「于義を元帥とするのがよろしいでしょう」と答え、楊堅ははじめこれを承認していた。しかし劉昉が「梁睿の位と声望が高いので、于義の下に置いてはいけません」と進言したので、楊堅は取りやめた。そこで梁睿を元帥とし、于義を行軍総管とした。王謙の部将の達奚惎が兵を率いて開遠に拠ったので、于義は左軍を率いてこれを撃破した。まもなく潼州総管となり、上柱国の位を受けた。ときに兄の于翼太尉となり、弟の于智や兄の子の于仲文も上柱国となって、于氏は貴戚と称された。一年あまりして、于義は病のため免職され、長安に帰った。数カ月後、50歳で死去した。豫州刺史の位を追贈され、を剛といった。

子の于宣道于宣敏は、ともに名を知られた。

伝記資料