コンテンツにスキップ

「房亮」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 綋繒譙褧を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (譙郡) - log
タグ: 手動差し戻し
 
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
北魏の[[ショウ郡|譙郡]][[太守]]の房法延の子として生まれた。[[太和 (北魏)|太和]]年間、秀才に選抜され、奉朝請となった。秘書郎に任じられ、員外散騎侍郎を兼ねた。[[492年]](太和16年)、中書侍郎[[宋弁]]の副使として[[斉 (南朝)|南朝斉]]への使者をつとめた。帰国すると、尚書二千石郎中・済州中正に任じられた。員外常侍を兼ね、[[高句麗]]への使者に立ったが、高句麗王は病にかこつけて会おうとしなかった。房亮は任務に失敗したため、官爵を剥奪されて郎中を代行した。後に[[済北郡]][[太守]]となり、[[平原郡 (山東省)|平原郡]]太守に転じ、清廉で厳格な統治で知られた。[[508年]]([[永平 (北魏)|永平]]元年)、京兆王[[元愉]]が[[冀州]]で反乱を起こすと、平原郡は冀州と境を接していたため、元愉は房亮のもとに使者を派遣して反乱に加担するよう説かせた。房亮はその使者を斬って、兵を発して防備させた。このため元愉は部将の張霊和を派遣して平原郡を攻撃させた。房亮は城を出て迎え撃ち、張霊和を破った。まもなく服喪のため官を退いた。服喪を終えると、[[左将軍]]・[[汲郡]]太守に任じられた。[[前将軍]]・[[東荊州]][[刺史]]に転じた。平東将軍・[[滄州]]刺史に転じ、入朝して[[光禄大夫]]となり、安東将軍の位を加えられた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、死去した。享年は71。撫軍将軍・[[斉州]]刺史の位を追贈された。
北魏の[[譙郡]][[太守]]の房法延の子として生まれた。[[太和 (北魏)|太和]]年間、秀才に選抜され、奉朝請となった。秘書郎に任じられ、員外散騎侍郎を兼ねた。[[492年]](太和16年)、中書侍郎[[宋弁]]の副使として[[斉 (南朝)|南朝斉]]への使者をつとめた。帰国すると、尚書二千石郎中・済州中正に任じられた。員外常侍を兼ね、[[高句麗]]への使者に立ったが、高句麗王は病にかこつけて会おうとしなかった。房亮は任務に失敗したため、官爵を剥奪されて郎中を代行した。後に[[済北郡]][[太守]]となり、[[平原郡 (山東省)|平原郡]]太守に転じ、清廉で厳格な統治で知られた。[[508年]]([[永平 (北魏)|永平]]元年)、京兆王[[元愉]]が[[冀州]]で反乱を起こすと、平原郡は冀州と境を接していたため、元愉は房亮のもとに使者を派遣して反乱に加担するよう説かせた。房亮はその使者を斬って、兵を発して防備させた。このため元愉は部将の張霊和を派遣して平原郡を攻撃させた。房亮は城を出て迎え撃ち、張霊和を破った。まもなく服喪のため官を退いた。服喪を終えると、[[左将軍]]・[[汲郡]]太守に任じられた。[[前将軍]]・[[東荊州]][[刺史]]に転じた。平東将軍・[[滄州]]刺史に転じ、入朝して[[光禄大夫]]となり、安東将軍の位を加えられた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、死去した。享年は71。撫軍将軍・[[斉州]]刺史の位を追贈された。


子の房柬は、字を元約といい、光禄大夫となった。
子の房柬は、字を元約といい、光禄大夫となった。

2020年8月20日 (木) 00:28時点における最新版

房 亮(ぼう りょう、459年 - 529年)は、北魏政治家軍人は景高。本貫東清河郡繹幕県

経歴[編集]

北魏の譙郡太守の房法延の子として生まれた。太和年間、秀才に選抜され、奉朝請となった。秘書郎に任じられ、員外散騎侍郎を兼ねた。492年(太和16年)、中書侍郎宋弁の副使として南朝斉への使者をつとめた。帰国すると、尚書二千石郎中・済州中正に任じられた。員外常侍を兼ね、高句麗への使者に立ったが、高句麗王は病にかこつけて会おうとしなかった。房亮は任務に失敗したため、官爵を剥奪されて郎中を代行した。後に済北郡太守となり、平原郡太守に転じ、清廉で厳格な統治で知られた。508年永平元年)、京兆王元愉冀州で反乱を起こすと、平原郡は冀州と境を接していたため、元愉は房亮のもとに使者を派遣して反乱に加担するよう説かせた。房亮はその使者を斬って、兵を発して防備させた。このため元愉は部将の張霊和を派遣して平原郡を攻撃させた。房亮は城を出て迎え撃ち、張霊和を破った。まもなく服喪のため官を退いた。服喪を終えると、左将軍汲郡太守に任じられた。前将軍東荊州刺史に転じた。平東将軍・滄州刺史に転じ、入朝して光禄大夫となり、安東将軍の位を加えられた。529年永安2年)、死去した。享年は71。撫軍将軍・斉州刺史の位を追贈された。

子の房柬は、字を元約といい、光禄大夫となった。

伝記資料[編集]