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== 経歴 ==
== 経歴 ==
梁の鄱陽王[[蕭恢]]の子として生まれた。幼くして聡明で、経書や史書に通じた。[[535年]]([[大同 (梁)|大同]]元年)、豊城県侯に封じられた。給事中に任じられ、太子洗馬に転じた。まもなく殿省に宿直に入り、太子中舎人となった。持節・仁威将軍・[[ショウ州 (中国)|譙州]][[刺史]]として出向した。[[侯景の乱]]が起こると、[[548年]]([[太清]]2年)にひとたび捕らえられたが、逃亡して[[荊州区|江陵]]にたどりついた。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]のもとで[[侍中]]の位を受けた。侯景の乱が平定されると、[[太宰]]・太常卿を兼ねた。[[553年]]([[承聖]]2年)、使持節・平西将軍・[[臨川郡]]内史となった。陸納が湘川に拠って交通を遮断すると、蕭泰は平南将軍・[[桂陽郡]]内史に転じた。桂陽郡に到着しないうちに、[[西魏]]の[[于謹]]が江陵を落としたため、蕭泰は兄の蕭循(蕭脩)に従って[[郢州]]にあった。蕭循が死去すると、蕭泰は郢州刺史となった。湘州刺史の[[王琳 (軍人)|王琳]]が水軍を率いて襲撃してきたため、蕭泰は郢州を王琳に引き渡した。[[陳霸先]]が政権を握ると、蕭泰は侍中として召されたが、疑って赴かず、[[北斉]]に亡命した。車騎大将軍・散騎常侍の位を受けた。まもなく永州刺史として出向した。
梁の鄱陽王[[蕭恢]]の子として生まれた。幼くして聡明で、経書や史書に通じた。[[535年]]([[大同 (梁)|大同]]元年)、豊城県侯に封じられた。給事中に任じられ、太子洗馬に転じた。まもなく殿省に宿直に入り、太子中舎人となった。持節・仁威将軍・[[譙州]][[刺史]]として出向した。[[侯景の乱]]が起こると、[[548年]]([[太清]]2年)にひとたび捕らえられたが、逃亡して[[荊州区|江陵]]にたどりついた。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]のもとで[[侍中]]の位を受けた。侯景の乱が平定されると、[[太宰]]・太常卿を兼ねた。[[553年]]([[承聖]]2年)、使持節・平西将軍・[[臨川郡]]内史となった。陸納が湘川に拠って交通を遮断すると、蕭泰は平南将軍・[[桂陽郡]]内史に転じた。桂陽郡に到着しないうちに、[[西魏]]の[[于謹]]が江陵を落としたため、蕭泰は兄の蕭循(蕭脩)に従って[[郢州]]にあった。蕭循が死去すると、蕭泰は郢州刺史となった。湘州刺史の[[王琳 (軍人)|王琳]]が水軍を率いて襲撃してきたため、蕭泰は郢州を王琳に引き渡した。[[陳霸先]]が政権を握ると、蕭泰は侍中として召されたが、疑って赴かず、[[北斉]]に亡命した。車騎大将軍・散騎常侍の位を受けた。まもなく永州刺史として出向した。


[[564年]]([[保定]]4年)、[[北周]]の[[宇文護]]が東征してくると、蕭泰は[[豫州]]刺史の王士良が降ったのを知って、北周に降伏した。[[565年]](保定5年)、使持節・驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]の位を受け、義興郡公に封じられた。[[567年]]([[天和 (北周)|天和]]2年)、[[蔡州]]刺史に任じられた。[[568年]](天和3年)、蔡州で死去した。本官に加えて并洛永三州刺史の位を追贈された。
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2020年8月20日 (木) 00:36時点における版

蕭 泰(しょう たい、生年不詳 - 568年)は、南朝梁皇族は世怡。

経歴

梁の鄱陽王蕭恢の子として生まれた。幼くして聡明で、経書や史書に通じた。535年大同元年)、豊城県侯に封じられた。給事中に任じられ、太子洗馬に転じた。まもなく殿省に宿直に入り、太子中舎人となった。持節・仁威将軍・譙州刺史として出向した。侯景の乱が起こると、548年太清2年)にひとたび捕らえられたが、逃亡して江陵にたどりついた。元帝のもとで侍中の位を受けた。侯景の乱が平定されると、太宰・太常卿を兼ねた。553年承聖2年)、使持節・平西将軍・臨川郡内史となった。陸納が湘川に拠って交通を遮断すると、蕭泰は平南将軍・桂陽郡内史に転じた。桂陽郡に到着しないうちに、西魏于謹が江陵を落としたため、蕭泰は兄の蕭循(蕭脩)に従って郢州にあった。蕭循が死去すると、蕭泰は郢州刺史となった。湘州刺史の王琳が水軍を率いて襲撃してきたため、蕭泰は郢州を王琳に引き渡した。陳霸先が政権を握ると、蕭泰は侍中として召されたが、疑って赴かず、北斉に亡命した。車騎大将軍・散騎常侍の位を受けた。まもなく永州刺史として出向した。

564年保定4年)、北周宇文護が東征してくると、蕭泰は豫州刺史の王士良が降ったのを知って、北周に降伏した。565年(保定5年)、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司の位を受け、義興郡公に封じられた。567年天和2年)、蔡州刺史に任じられた。568年(天和3年)、蔡州で死去した。本官に加えて并洛永三州刺史の位を追贈された。

子の蕭子宝が後を嗣ぎ、の吏部侍郎に上ったが、後に処刑された。

伝記資料