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「劉伯姫」の版間の差分

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'''劉 伯姫'''(りゅう はくき、生没年不詳)は、[[中国]]の[[後漢]]初代皇帝[[光武帝]](劉秀)の妹。[[荊州]]南陽郡蔡陽県([[湖北省]][[棗陽市]])の人。後漢建国の功臣[[李通 (次元)|李通]]の妻。兄の即位後に'''寧平[[公主|長公主]]'''(または寧平公主)に封じられた。父は[[劉欽 (南頓県令)|劉欽]]。母は樊嫺都。姉に劉黄、[[劉元]]、兄に[[劉エン (伯升)|劉縯]]、[[劉仲 (新)|劉仲]]、劉秀がいる。子は[[李音]]、[[李雄]]だが、いずれも伯姫の子かは不明である。以下、本記事では「伯姫」とする。
'''劉 伯姫'''(りゅう はくき、生没年不詳)は、[[中国]]の[[後漢]]初代皇帝[[光武帝]](劉秀)の妹。[[荊州]]南陽郡蔡陽県([[湖北省]][[棗陽市]])の人。後漢建国の功臣[[李通 (次元)|李通]]の妻。兄の即位後に'''寧平[[公主|長公主]]'''(または寧平公主)に封じられた。父は[[劉欽 (南頓県令)|劉欽]]。母は樊嫺都。姉に劉黄、[[劉元]]、兄に[[劉縯]]、[[劉仲 (新)|劉仲]]、劉秀がいる。子は[[李音]]、[[李雄]]だが、いずれも伯姫の子かは不明である。以下、本記事では「伯姫」とする。


== 事跡 ==
== 事跡 ==

2020年8月22日 (土) 22:16時点における版

劉伯姫
続柄 光武帝

全名 劉伯姫
称号 寧平長公主
身位 長公主
配偶者 李通
子女 李音
李雄
父親 劉欽
母親 樊嫻都
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劉 伯姫(りゅう はくき、生没年不詳)は、中国後漢初代皇帝光武帝(劉秀)の妹。荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。後漢建国の功臣李通の妻。兄の即位後に寧平長公主(または寧平公主)に封じられた。父は劉欽。母は樊嫺都。姉に劉黄、劉元、兄に劉縯劉仲、劉秀がいる。子は李音李雄だが、いずれも伯姫の子かは不明である。以下、本記事では「伯姫」とする。

事跡

地皇3年(22年)末の小長安聚(南陽郡育陽県)の戦いで、兄劉縯らの軍が新軍に大敗した際、伯姫は劉秀に救われ、共に騎乗して逃走する。途中、2人は姉の劉元とその3人の娘を見つけたが、劉元が足手纏いを恐れて救助を断り、劉元とその娘たちは新軍の犠牲となってしまった。

更始2年(24年)2月、李通が更始帝(劉玄)から西平王[1]に封じられ、荊州の鎮撫を命じられると、伯姫は李通の妻となった。翌建武1年(25年)6月、劉秀が光武帝として即位し、洛陽を京師とすると、陰麗華が侍中傅俊によって迎えられ、姉の黄と共に伯姫も諸々の宮人と洛陽に至る。李通も召されて劉秀の下に参じている[2]。建武2年(26年)、伯姫は寧平長公主に封じられた。

その後の伯姫の事跡は定かではないが、特にそれ以上の史書の記述が見当たらないため、政界に関与しなかった可能性が高い。夫の李通も、光武帝の義弟という身分を得たものの、常に謙虚で慎み深く、権力からは遠ざかる意思が強かった。

参考文献

  • 後漢書』列伝4斉武王縯伝
  • 同列伝5李通伝、鄧晨
  • 同本紀10上光烈陰皇后伝

  1. ^ 西平は豫州汝南郡にある。
  2. ^ 李通と伯姫が同一行動を取ったかは記載されていない。

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