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「劉章 (斉王)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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[[46年]](建武22年)、死去した<ref name="koubuge"/>。[[諡]]は哀王といった。子の劉石が後を嗣いで、斉王として立った。
[[46年]](建武22年)、死去した<ref name="koubuge"/>。[[諡]]は哀王といった。子の劉石が後を嗣いで、斉王として立った。

2020年8月22日 (土) 22:18時点における版

劉章(りゅう しょう、生年不詳 - 46年)は、後漢皇族。斉哀王。

経歴

劉縯の長男として生まれた。幼くして父を失い、叔父の光武帝に養育された。光武帝はかれに吏事に親しませようと、試みに平陰県令を代行させたり、梁郡太守に任じたりした。26年建武2年)、劉章は太原王に封じられた。37年(建武13年)、斉公に降封された[1]43年(建武19年)、斉王に封じられた[1]

46年(建武22年)、死去した[1]は哀王といった。子の劉石が後を嗣いで、斉王として立った。

子女

  • 劉石(後嗣、斉煬王)
  • 劉張(下博侯)

脚注

  1. ^ a b c 後漢書』光武帝紀下

伝記資料

  • 『後漢書』巻14 列伝第4