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12月、司馬虓が司馬顒一派の[[豫州]]刺史[[劉喬]]に敗れて[[河北]]に逃れてくると、彼は側近の司馬[[劉琨]]を王浚の下へと赴かせ、援助を要請した。王浚はこれに応じて突騎八百を分け与え、司馬虓はこれにより勢いを盛り返し、劉喬の軍勢を散亡させた。 |
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さらに王浚は祁弘に烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略を援護させた。祁弘は討伐軍の先鋒として主体的な役割を果たし、司馬顒の軍勢を尽く返り討ちにし、長安攻略と恵帝奪還を成し遂げた。だが、ここでも配下の鮮卑兵は略奪暴行を行い、2万人余りの民衆が犠牲となったという。 |
さらに王浚は祁弘に烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略を援護させた。祁弘は討伐軍の先鋒として主体的な役割を果たし、司馬顒の軍勢を尽く返り討ちにし、長安攻略と恵帝奪還を成し遂げた。だが、ここでも配下の鮮卑兵は略奪暴行を行い、2万人余りの民衆が犠牲となったという。 |
2020年8月24日 (月) 09:24時点における版
王 浚(おう しゅん、252年 - 314年)は、中国西晋末から五胡十六国時代の将軍・政治家。字は彭祖。并州太原郡晋陽県(現在の山西省太原市晋源区)の人。父は西晋の驃騎将軍王沈、母は趙氏。妻は崔毖[1]の姉妹。また、華芳(華歆の曾孫)を妻としたという墓誌も伝わっており、墓誌によると先に文粲、衛琇と結婚したが死別したという[2]。幽州で地盤を確立し、前趙の石勒を阻んだが、晩年には晋朝を蔑ろにして自ら皇帝即位を目論んだ。
生涯
幽州に出鎮
西晋の重臣王沈の子として生まれたが、母の趙氏は出自が賤しかったので、当初は私生児として扱われて認知されなかった。
266年、王沈がこの世を去ると、彼に子がいなかったことから親族により後継ぎに立てられた。こうして父の爵位を継いで博陵公に封じられ、駙馬都尉に任じられた。
280年、封国である博陵に赴任した。282年、洛陽に入朝して員外散騎侍郎に任じられた。291年、員外常侍に転任し、やがて越騎校尉・右軍将軍に移った。
後に河間郡太守にも任じられたが、郡公は二千石の官位に就いてはならないという規則があったので、東中郎将に移って許昌に出鎮した。
299年12月、恵帝の皇后賈南風らの画策により皇太子司馬遹は許昌の宮殿に幽閉され、300年3月には賈南風の内意を受けた宦官孫慮により殴殺された。この時、王浚は賈南風の謀略に関与し、殺害の手助けをしたという。
その後、寧北将軍・青州刺史に任じられたが、しばらくして寧朔将軍・持節・都督幽州諸軍事に転任となり、薊城に出鎮した。
301年1月、趙王司馬倫が恵帝を廃して位を簒奪すると、3月に三王(斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒)が司馬倫討伐を掲げて決起した。この時、王浚は兵を擁したままどちらにも与せず、三王からの檄文も遮って幽州の将兵が義兵に参加しないようにした。司馬穎はこれを大いに不満に思い、王浚の下へ討伐軍を派遣しようと考えたが、幽州にまで出兵する余裕が無かった。4月、司馬倫が殺害されると、王浚は安北将軍に昇進した。
当時、八王の乱の最中にあり、朝廷内では政争が繰り返され、四方では盗賊らが跋扈していた。303年12月、王浚は自身の安全を考えて夷狄(異民族)と修好を深めることにし、娘の一人を段部の大人段務勿塵に、もう一人を宇文部の宗族宇文素延[3]にそれぞれ嫁がせ、幽州での地盤確立に努めた。
八王の乱を鎮圧
303年7月より、司馬顒・司馬穎は結託して洛陽へ軍を繰り出し、朝廷の第一人者であった長沙王司馬乂を排斥せんとしており、304年1月には洛陽を陥落させて司馬乂を殺害した。これを聞いた王浚は司馬穎らの横暴に大いに憤り、これを討伐しようと考えるようになった。司馬穎もまた司馬倫討伐の一件を恨んでおり、隙を見て王浚を除かんとしていた。
304年7月、司馬穎は上表して腹心である右司馬和演を幽州刺史に任じ、彼に密かに命を下して王浚を暗殺させ、その兵を吸収しようと目論んだ。和演は赴任するや烏桓単于の審登と結託して謀略を巡らし、王浚へ薊城の南にある清泉水で遊覧しようと持ち掛けた。和演と王浚はそれぞれ別の道から出発し、和演は合流した際に暗殺計画を実行に移そうとしていた。だが、突然の暴風雨に見舞われて兵器が使えなくなり、止む無く実行せずに帰還した。審登はこの事を知ると、和演が失敗したのは天が王浚を助けたのではないかと考え、寝返って王浚に和演の謀略を全て話した。これを知った王浚は密かに審登と共に軍備を整え、并州刺史・東嬴公司馬騰とも結託して兵を繰りだし、和演の居城を包囲した。和演は白旗を携えて王浚の下を詣でて降伏したが、王浚はこれを斬り捨てた。これにより、自ら幽州全域を領有するようになった。
その後、恵帝を手中に収めていた司馬穎は詔と称して王浚に召喚を命じたが、王浚はこれに従わなかった。さらに大いに武具・兵器を整備すると、段部の大人段務勿塵・烏桓の大人羯朱・東嬴公司馬騰と共に挙兵し、胡人・漢人合わせて2万人を率いて司馬穎の本拠地である鄴へ侵攻した。これを受け、司馬穎は北中郎将王斌と石超に迎撃を命じた。
8月、王浚は司馬騰と軍を合わせて王斌を撃ち、これを大破した。さらに平棘へ侵攻し、主簿祁弘を前鋒として石超を撃ち破ると、勝ちに乗じて進撃を続けた。司馬穎は大いに恐れて鄴を放棄し、恵帝を伴って洛陽へ遁走した。王浚は鄴に入城すると、羯朱に司馬穎追撃を命じて朝歌まで進軍させたが、間に合わなかった。この時、配下の将兵は鄴城内で大々的に略奪を行い、多数の民衆が命を落としたという。また、薊城へ帰還する際、鮮卑の兵は婦女を多数誘拐したが、王浚は婦女を匿う者は切り捨てると宣言したので、実に八千人余りが殺されて易水に沈められた。
やがて幽州に帰還すると、その業績により声望はますます盛んとなった。
11月、司馬顒配下の張方は恵帝を無理やり洛陽から連れ出し、司馬顒の本拠地である長安へ連れ去った。305年7月、王浚は范陽王司馬虓と共に東海王司馬越を盟主に奉じ、恵帝奪還と司馬顒打倒を掲げて挙兵した。
12月、司馬虓が司馬顒一派の豫州刺史劉喬に敗れて河北に逃れてくると、彼は側近の司馬劉琨を王浚の下へと赴かせ、援助を要請した。王浚はこれに応じて突騎八百を分け与え、司馬虓はこれにより勢いを盛り返し、劉喬の軍勢を散亡させた。
さらに王浚は祁弘に烏桓突騎を与えて司馬越軍の先鋒とし、長安攻略を援護させた。祁弘は討伐軍の先鋒として主体的な役割を果たし、司馬顒の軍勢を尽く返り討ちにし、長安攻略と恵帝奪還を成し遂げた。だが、ここでも配下の鮮卑兵は略奪暴行を行い、2万人余りの民衆が犠牲となったという。
306年3月、妖賊の劉柏根が数万の衆を擁して東莱郡惤県で挙兵し、惤公と自称した。劉柏根は淄河に沿って侵攻し、都督青州諸軍事司馬略らを撃ち破ったが、王浚は討伐軍を派遣して敵軍を撃ち破り、劉柏根の首級を挙げた。
8月、王浚は功績により驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事・領幽州刺史に任じられ、博陵に加えて燕国を封国として与えられた。
11月、懐帝が即位すると、司空・領烏桓校尉に昇進した。王浚は上表して段務勿塵を遼西公に封じ[3]、段部の傍系である大飄滑と弟の渇末別部大屠瓫らをみな親晋王に封じた。
石勒との闘い
当時、匈奴攣鞮部の劉淵が并州において大規模な反乱を起こしており、304年10月に漢(後の前趙)を建国していた。
308年2月、漢の輔漢将軍石勒が常山へ襲来したが、王浚は段部の段文鴦を派遣してこれを返り討ちにし、南陽へ敗走させた。
309年9月、石勒が再び常山に襲来し、中山・博陵・高陽の各県へ諸将を派遣して数万人を降伏させた。王浚は主簿祁弘と段部の大人段務勿塵らに10万を超える騎兵を指揮させ、石勒の討伐に乗り出した。祁弘は石勒と飛龍山(現在の河北省石家荘市元氏県の北西)で一戦を交え、1万以上の兵を討ち取る大勝を挙げ、石勒を黎陽まで退却させた。11月、石勒は信都へと軍を転進させ、冀州刺史王斌を討ち取った。これに乗じ、王浚は冀州刺史の地位も代行するようになった。
310年4月、王浚は漢の征北大将軍・冀州刺史劉霊討伐の為、祁弘を出撃させた。祁弘は広宗において劉霊軍と交戦し、これに勝利して劉霊の首級を挙げた。
10月、西晋の并州刺史劉琨は同盟を結んでいた拓跋部の大人拓跋猗盧を、大単于・代公に封じるよう朝廷へ上表した。だが、代郡は幽州に属していたので、王浚は代郡を開け渡すのを拒絶し、兵を繰りだして拓跋猗盧を攻撃したが、返り討ちに遭った。これ以来、王浚と劉琨は敵対するようになった。
同月、司空に昇進し、段務勿塵もまた大単于に任じられた。
311年5月、詔により大司馬に任じられ、侍中・大都督・冀幽二州諸軍事を加えられたが、その使者が派遣される前に前趙の攻勢により洛陽は陥落した。
7月、王浚は祭壇を築いて上天へ告祭を行い、皇太子(名は記されておらず、誰なのかは不明)を自らの独断で立てた。また、朝廷より詔を受けて承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)の権限を与えられたと称し、天下に布告した。百官や征鎮(将軍)を設置し、司空荀藩を太尉に、光禄大夫荀組を司隷校尉に、大司農華薈を太常に、中書令李絙を河南尹に、琅邪王司馬睿を大将軍に任じた。王浚自らは尚書令を領し、裴憲と自らの娘婿である棗嵩を尚書に任じ、彼らの子を王宮に居住させて持節・領護匈奴中郎将に任じた。また、棗嵩を監司冀并兗四州諸軍事・行安北将軍に任じ、乞活の田徽を兗州刺史に任じ、同じく乞活の李惲を青州刺史に任じた。こうして威令を大々的に打ち立てると、これ以降自らの独断で征伐を行うようになった。
当時、劉琨の統治する并州は前趙の猛攻に晒されており、その難を避けて王浚の下に帰順する士卒は多かった。これを取り込む事で王浚の勢力は益々強大となっていった。12月、劉琨は宗族の高陽内史劉希に命じ、中山で衆を集めさせた。これにより、幽州の代郡・上谷郡・広寧郡の民3万人が劉琨に帰順した。王浚はこれを聞くと激怒し、燕国相胡矩に諸軍を統率させ、遼西公段疾陸眷と共に劉希を攻撃させた。胡矩らは劉希を討ち取り、三郡の民を連れ戻したが、これにより両者の溝は益々深まった。
同月、王浚は舅の崔毖を東夷校尉に任じて遼東に赴任させ、その影響力を東にも広げようとした。
312年7月、石勒が襄国へ進出してこれを本拠地とし、幽州攻略を窺うようになった。王浚は石勒へ備える為、苑郷において数万の勢力を擁していた游綸・張豺に官位を授けて傘下に引き入れ、石勒に対抗させた。
12月、石勒は夔安・支雄ら7将を苑郷攻略の為に出撃させ、彼らは瞬く間に城の外壁を撃ち破った。王浚はこれを好機とし、督護王昌・中山郡太守阮豹らに諸軍を統率させて手薄となった襄国攻略を命じた。さらに、段部の段疾陸眷・段末波・段匹磾・段文鴦らもまた、5万余りの兵を率いて王昌と共に襄国へ進撃した。
この時、襄国城では堀の改修作業が終了していなかったため、石勒は城から離れた場所に幾重にも防御柵を築かせ、進路を遮断して守りを固めた。王浚軍が渚陽まで至ると、石勒は諸将を繰り出して続け様に決戦を挑んだが、王昌らは全て撃破した。勢いづいた王浚軍は北壁の近くに布陣し、攻城具を大いに製造して一気呵成に城を攻め落とさんとした。だが、石勒は予め孔萇に命じて北城に突門を造らせており、王浚軍が攻勢を開始するや各突門に配していた伏兵を出撃させた。段末波はこれを撃退して城門へと侵入したが、深入りしすぎたために石勒軍に生け捕られた。同様に急襲を受けていた段疾陸眷らは段末波の敗北を知ると戦意喪失し、散り散りに逃げ去った。孔萇はこの勝利に乗じて追撃を掛け、王浚軍は散々に撃ち破られ、道中には屍が30里余りに渡って転がった。段疾陸眷は敗残兵を収集し、渚陽まで退却した。石勒は彼らの下へ使者を立てて講和を求めると、段疾陸眷はこれに応じ、鎧馬250匹、金銀各々1簏を贈ると共に段末波の弟3人を人質に差し出し、段末波との交換も求めた。石勒はこれに応じ、石虎を渚陽へ派遣して段部との盟約を交わさせ、さらに石虎と段疾陸眷の間に兄弟の契りを結ばせた。これにより、段疾陸眷らは渚陽を引き払って退却し、王昌もまた単独で交戦を続ける事は出来ず、薊に引き上げた。石勒は段末波と父子の誓いを交わし、使持節・安北将軍に任じて北平公に封じてから、遼西へと帰還させた。段末波は石勒の厚恩に感じ入り、帰路の途中、日毎に南へ向かって3度拝礼したという。これ以後、段疾陸眷や段末波は王浚の石勒討伐に加担しなくなり、段部は内部分裂を起こすようになった。これにより王浚の威勢は次第に衰えていく事となった。
同月、苑郷を守っていた游綸・張豺もまた王浚の敗北を知り、石勒に帰順した。さらに石勒は兵を派遣して信都を攻め、冀州刺史王象を討ち取った。王浚は邵挙に冀州刺史を代行させ、信都の守りを固めさせた。
同年、祁弘を石勒討伐に向かわせたが、広宗まで進軍した際に深い霧に見舞われた。祁弘は止む無く引き揚げようとしたが、石勒と遭遇してしまい、敗れて殺された。
313年4月、石勒が安平郡広宗県に進出し、上白城を守る乞活(流民集団)の李惲を撃ち破り、その首級を挙げた。これを受け、王浚は同じく乞活の薄盛を後任の青州刺史に任じた。
同月、王浚は石勒討伐を目論み、棗嵩に諸軍を率いさせて易水に駐屯させ、さらに段疾陸眷を招集して共同で襄国を攻めようとした。だが、段疾陸眷はかねてより王浚の命に従わない事が多くあり、次第に王浚に誅殺されることを憂慮するようになっていた。また石勒からも手厚い賄賂を受け取った事から、遂に召集には応じなかった。王浚は激怒し、拓跋猗盧に大金を送って段疾陸眷討伐を求め、さらに慕容部の大人慕容廆にも共同で動かすよう求めた。拓跋猗盧は拓跋六脩を派遣し、慕容廆は慕容翰を派遣した。慕容翰は徒河・新城を攻略して陽楽に至ったが、拓跋六脩は段部に返り討ちにあった。その為、慕容翰もまた徒河まで退却した。
5月、石勒配下の孔萇が定陵へ侵攻し、王浚が任じた兗州刺史である田徽は敗れて戦死した。これにより、王浚が任じた青州刺史である薄盛は勃海郡太守の劉既を捕らえると、5千戸を引き連れて石勒に帰順した。これにより、山東の郡県は相次いで石勒の手に落ちた。烏桓の審広・漸裳・郝襲もまた王浚に見切りを付け、密かに石勒に使者を派遣して帰順した。これにより王浚の影響力は大いに衰微した。
帝位を狙う
西晋は洛陽を失陥して以降、懐帝は平陽において捕らわれの身となっていたが、313年1月に処刑された。これ以降、次第に王浚は自ら帝位に即こうと企むようになり、後漢時代に流行った『漢に代わる者は当塗高なり』という有名な予言を引用し、父である王沈の字が処道であったことから、これを大義名分とした(『塗』には道という意味がある)。配下の胡矩は強く反対したが、王浚は怒って魏郡太守に任じて遠ざけた。前勃海郡太守劉亮・従子の北海郡太守王搏・司空掾高柔らもまた厳しく諌めると、王浚は怒って尽く誅殺した。また、以前より嫌っていた長史王悌も理由をつけて殺した。燕国出身の霍原は北方における名士であったが、王浚が帝位僭称について相談しても答えなかったので、敵国と通じていたとして殺害し、その首を晒した。これにより士民らは皆恨み、王浚から離反するものが相次いだ。従事韓咸は遼西郡の柳城を統治しており、彼は盛んに慕容廆が良く士民を慰撫していると称賛し、暗に王浚の振る舞いを諫めようとしたが、王浚の逆鱗に触れて殺害された。
12月、石勒は舎人の王子春・董肇に多くの珍宝を持たせて王浚の下へと派遣し、王浚を天子に推戴すると称して上表文を奉った。その内容は『この勒は本来はしがない胡人であり、戎の子孫に過ぎません。晋の綱紀の緩みにより海内(天下)は飢乱に陥り、流民は困苦に喘いで冀州に逃げ込み、その命を守るために密かに互いに結集し合っております。今や晋祚(晋室)は零落し、遠く呉・会稽の地に移ったため、中原から主がいなくなり、蒼生(庶民)は頼みとするものがありません。伏して惟みますに、明公殿下(王浚)は州郷(両者の郷里である并州を指す)において人望を有して貴い身分にあります。四海(国内)を纏め上げて帝王となる者が公の他に誰がいましょうか!この勒が身命を投げ打って義兵を興し、暴乱を誅しているのは、正に明公のためであります。伏して願いますのは、殿下が天に応じて時に順じ、皇阼(皇帝位)に登られることであります。勒が明公を奉戴するのは天地父母を慕うのと同じであり、明公がこの勒のささやかな心を察していただければ、子の如く従うものであります』というものであった。また、王浚の側近である棗嵩にも書を渡すと共に厚く賄賂も贈った。これらは全て王浚の油断を誘うための偽りの申し出であったが、この頃王浚の陣営では士民の多くが彼の下を去っており、段疾陸眷らにも背かれていたため、王浚は石勒の申し出を大いに喜んだ。だが、これが本心かどうか計りかねていたので、王子春らを呼びよせると「石公は当代の英武であり、趙の旧都に割拠しており、鼎峙の勢いを有しているのに、我に称藩しようとしている。これを信んじてもよいものか」と問うと、王子春は「石将軍(石勒)は英才は卓越し、士馬も強盛であり、誠に聖旨(皇帝の考え。皇帝とは王浚の事を指す)される通りであります。謹んで仰ぎますに、明公(王浚)は州郷の貴望であり、何代にも渡る名声があり、藩岳(地方の統治者)として出鎮してはその威声は八表(天下)に広がり、胡越(遠方の地)へ欽風を吹き渡らせ、戎夷すらもその徳を歌っております。どうして区々たる小府(纏まりのない小さな地方政権)で神闕(皇帝)に恭敬を示さぬ者がおりましょうか!その昔、陳嬰が辺境を支配しても王とならず、韓信は帝に迫ろうとも帝にならなかったのは、智力だけでは帝王の座を争う事は出来ないと知っていたからです。石将軍と明公を比べるのは、陰精と太陽を、江河と洪海を比べられるようなものです。項籍や子陽(公孫述)の覆車(没落)は遠い過去の事ではなく、石将軍はそれをよく理解しているのです。明公がどうしてこれを怪しみましょうか!古えより、胡人で名臣であった者は実際におりましたが、帝王となったものは未だ一人もおりません。石将軍は帝王となって妬まれる事を善しとせず、だからこそ明公に帝王を譲るのです。顧みてこれを取るには、天人の許す所でなくてはなりません。どうか疑うことなきように」と答えた。この答えに王浚は更に喜びを深くし、王子春らを列侯に封じた。そして、すぐさま石勒の下に使者を派遣し、贈り物を渡して返礼とした。
王浚の承制により側近らはみな昇進を果たしていたが、司馬游統だけは中央から遠ざけられて范陽の統治を命じられていた。游統はこれに怨みを抱き、王浚を見限って石勒に帰順しようと考え、密かに使者を出した。。だが、石勒は使者の首を刎ねると、その首を王浚の下へと送り届けて自らの誠実さを示した。王浚は游統を罪に問わなかったが、ますます石勒の忠誠を信じるようになり、その忠義を疑う事は二度となかった。
314年1月、王子春が王浚の使者と共に襄国へ戻って来た。石勒は予め勇猛な兵や精巧な武具・兵器を見えないよう隠しておくよう命じ、その替わりに弱った兵や空虚な府庫のみを王浚の使者に見せつけた。また、北面してその使者に会い(北を向くのは皇帝に謁見する時の作法)、王浚からの書を受け取った。さらに王浚から贈られた払子を敢えて手に取らず、壁に掛けて朝・夕に拝礼すると、使者へ向けて「我は王公(王浚)と直に会う事は叶いませぬので、王公から賜った物に対して、王公に会うかのように拝しているのです」と語った。そして再び上表文を奉って董肇に渡し、王浚の下へと派遣した。そこには『3月中旬には自ら幽州へ参上し、尊号を奉上しようと思っております』と言う内容が記していた。また、棗嵩へも并州牧・広平公の地位を求める内容の手紙をしたため、本気で王浚に従属する姿勢があることを示した。王浚の使者は薊城に帰還すると「石勒の形勢は寡弱であり、その忠誠に二心は無いでしょう」と王浚へ告げた。これに王浚は大いに喜び、益々石勒への信頼の度を強めると共に、さらに増長して備えを怠るようになった。
最期
314年2月、石勒は軽騎兵を率いて幽州を急襲すべく出陣し、表向きは王浚を奉戴する為と偽った。
3月、石勒軍が易水まで進軍すると、王浚の督護の孫緯は薊城へ急報を知らせると共に、軍を繰り出して防ごうとしたが、石勒に寝返ろうと考えていた游統が反対した事により軍を動かせなかった。石勒到来が薊城にも知れ渡ると、王浚の将士はみな「胡(石勒)とは貪欲であり、そこに信義などありません。必ずや詭計を有しております。どうかこれを迎え撃たせてください」と求めたが、王浚は「石公がここまで来たのは、正に我を奉戴しようとせんがためである。これ以上これを撃つなどと言う者はこの場で斬る!」と怒鳴った為、諸将は口をつぐんだ。王浚は石勒を持て成す為に宴席を設けるよう命じ、その到着を待った。
石勒は早朝に薊に至ると、門番に命じて開門させた。また、兵が潜んでいるのではないかと疑い、王浚に献上する礼物であると偽ってまず牛や羊数千頭を駆け込ませ、 街道を埋め尽くす事でもし伏兵がいても身動きが取れないようにした。この事態に王浚は初めて不信感を抱き、驚き戸惑って完全に冷静を失った。さらに石勒は入城するや兵を放って略奪を行わせ、ここに至って王浚の側近は兵を繰り出して対処する事を求めたが、彼はそれでも許可を出さなかった。石勒はそのまま庁堂(政務を行う官府)に入殿すると、流石の王浚も恐れて逃亡を図ったが、石勒の配下に捕らえられた。その後、王浚は妻と共に石勒の前に連れて来られると王浚は「胡奴如きが及公(目下の者へ向けて使う一人称)を謀るとは。どうしてこのような凶逆をなすか!」と罵ったが、石勒は記室参軍徐光を介して 「君の位は高く、爵は上公に列せられていた。幽都と言う精強な国に拠り、その勢力は突騎の郷である燕の地を全て跨ぎ、強兵を手中にしていた。しかし、京師(洛陽・長安)が陥落しようとしているにもかかわらず、ただ傍観するだけで天子を救おうともせず、あまつさえ自ら取って代わろうとしていたな。何と凶逆であろうか!また、姦暴(暴虐)なる者に欲しいままにさせ、百姓を虐げ、忠良の士を殺害した。己の欲望のままに行動し、毒を燕の地に蔓延させた。これが誰の罪と思うか!お前を残していても、天のためにはならぬ」と王浚と責め立てさせた。また、民衆が餓えているのにも関わらず、穀物五十万石を溜め込んだまま振給しなかったことも併せて咎めた。
その後、石勒は将軍王洛生に騎兵500を与え、王浚を襄国まで護送させた。その途上、王浚は隙を見て自ら水に身を投じて自殺を図るもあえなく引き上げられた。そして襄国まで連行され、石勒が帰還した後に市場に引きずり出されて首を刎ねられた。最後まで屈することなく死の直前まで大いに罵り続けたという。王浚の精兵1万人もまた処刑され、側近大臣の大半も誅殺されたが、ただ荀綽・裴憲だけは抜擢され、取り立てられた。
王浚には男子はおらず、その家系は途絶える事となった。
377年、東晋の孝武帝は詔を下し、王沈の従孫である王道素を博陵公に封じ、後継とした。王道素が没すると、子の王崇が継いだ。415年には東莞郡公に改封されたが、南朝宋が樹立するに及び、国は除かれた。
後趙の天王后杜珠(第3代皇帝の石虎の皇后)は、初め王浚の家妓であったという。
治世
王浚の政治は苛酷であり、その将軍や官吏にも貪欲にして殘虐な者が多かった。彼らは広く山沢を占有し、田に水を引き入れる為に人墓を潰すような事は常であった。
中原が乱れるようになると、大量の流民が王浚を頼って到来した。だが、王浚の政法は整っておらず、また物資の徴発や労役は甚だ多く、彼らをうまく慰撫できなかった。その為、流民はみな堪えられず、遼西に割拠する慕容廆へ亡命する者が多発したという。また、帝位を目論むようになるにつれ、日増しに驕りたかぶって政務を顧みなくなり、任じられた官僚たちもまた苛酷に振る舞う小人であり、特に棗嵩・朱碩の貪欲・横暴ぶりは甚だ酷かったという。頼みとしていた段部・烏桓にもみな背かれ、更には旱害や蝗害も多発した事でその勢力は衰微し、遂に石勒に併呑される事になったのだという。
逸話
- 313年末、北部の州では謡が流行り、その内容は『府中赫赫、朱丘伯。十嚢・五嚢、入棗郎(府庫の中は朱丘伯(朱碩の字)により盛んとなり、そのうち半分の嚢(財物を入れる袋)が棗郎(王浚の娘婿である棗嵩)の懐に入る)』というものだった。王浚はこの童謡を聞くと棗嵩を呼び出して責め立てたが、罰する事はしなかった。
- また同時期に謡が流行り、その内容は『幽州城門似蔵戸、中有伏屍王彭祖(幽州の城門は蔵戸であり、中には王彭祖(王浚)の屍が収められている)』というものだった。また、狐が役所の門に座ったり、雉が役所の中に入り込んだという奇怪な事が起こったと記されている。いずれも王浚の死を暗示するものと思われる。