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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[九真郡]]太守の劉超の子として生まれた。はじめ宋の駙馬都尉・奉朝請となり、湘東王[[明帝 (南朝宋)|劉彧]]に仕えて湘東国常侍となった。劉休は学問を好んで記憶力も良かったが、その才能が劉彧に知られることはなかった。祖父の南郷侯の封を嗣いだ。[[454年]]([[孝建]]元年)、友人の謝儼が劉義宣の乱に参加して敗れると、劉休は謝儼を匿ったため、7年のあいだ獄に繋がれた。[[464年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]8年)、[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]が死去すると、ようやく出獄した。弟の劉欽に従って羅県令となった。[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、晋安王[[劉子クン|劉子勛]]が[[皇帝]]を称して諸州が呼応すると、劉休は明帝(劉彧)の勝利を予想して、反乱の誘いには加担しなかった。
[[九真郡]]太守の劉超の子として生まれた。はじめ宋の駙馬都尉・奉朝請となり、湘東王[[明帝 (南朝宋)|劉彧]]に仕えて湘東国常侍となった。劉休は学問を好んで記憶力も良かったが、その才能が劉彧に知られることはなかった。祖父の南郷侯の封を嗣いだ。[[454年]]([[孝建]]元年)、友人の謝儼が劉義宣の乱に参加して敗れると、劉休は謝儼を匿ったため、7年のあいだ獄に繋がれた。[[464年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]8年)、[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]が死去すると、ようやく出獄した。弟の劉欽に従って羅県令となった。[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、晋安王[[劉子勛]]が[[皇帝]]を称して諸州が呼応すると、劉休は明帝(劉彧)の勝利を予想して、反乱の誘いには加担しなかった。


数年後、呉喜が輔師府録事参軍となると、劉休は推薦を受けて明帝の側近に仕えた。劉休の妻の王氏は嫉妬深いことで知られたが、明帝がその噂を聞くと、劉休の妾を王氏に与え、20回杖で打たせた。また明帝は劉休の自宅の後ろに小店を開かせ、王氏に箒や[[サイカチ]]を売らせて辱めた。まもなく劉休は員外郎に任じられ、輔国司馬・中書通事舎人・南城県令を兼ねた。舎人・県令のまま、尚書中兵郎・給事中に任じられた。安成王撫軍参軍となり、都水使者・南康国相をつとめた。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて正員郎となり、邵陵王南中郎録事・建威将軍・[[新蔡郡]]太守をつとめた。左軍府に転じ、鎮蛮護軍の位を加えられた。諮議・司馬に転じ、寧朔将軍に進んだ。[[尋陽郡]]太守に転じた。後に長史となった。[[477年]]([[昇明]]元年)、[[沈攸之]]の乱が起こると、[[武帝 (南朝斉)|蕭賾]]が晋熙王と邵陵王の軍府を統轄して盆城に駐屯したため、劉休は軍費を献上した。[[478年]](昇明2年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、劉休は邵陵王安南長史に任じられ、黄門郎・寧朔将軍・前軍長史となった。[[479年]](昇明3年)、斉国が建てられると、劉休は散騎常侍の位を受けた。
数年後、呉喜が輔師府録事参軍となると、劉休は推薦を受けて明帝の側近に仕えた。劉休の妻の王氏は嫉妬深いことで知られたが、明帝がその噂を聞くと、劉休の妾を王氏に与え、20回杖で打たせた。また明帝は劉休の自宅の後ろに小店を開かせ、王氏に箒や[[サイカチ]]を売らせて辱めた。まもなく劉休は員外郎に任じられ、輔国司馬・中書通事舎人・南城県令を兼ねた。舎人・県令のまま、尚書中兵郎・給事中に任じられた。安成王撫軍参軍となり、都水使者・南康国相をつとめた。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて正員郎となり、邵陵王南中郎録事・建威将軍・[[新蔡郡]]太守をつとめた。左軍府に転じ、鎮蛮護軍の位を加えられた。諮議・司馬に転じ、寧朔将軍に進んだ。[[尋陽郡]]太守に転じた。後に長史となった。[[477年]]([[昇明]]元年)、[[沈攸之]]の乱が起こると、[[武帝 (南朝斉)|蕭賾]]が晋熙王と邵陵王の軍府を統轄して盆城に駐屯したため、劉休は軍費を献上した。[[478年]](昇明2年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、劉休は邵陵王安南長史に任じられ、黄門郎・寧朔将軍・前軍長史となった。[[479年]](昇明3年)、斉国が建てられると、劉休は散騎常侍の位を受けた。

2020年8月24日 (月) 09:44時点における版

劉休(りゅう きゅう、429年 - 482年)は、南朝宋からにかけての官僚。は弘明。本貫沛国相県

経歴

九真郡太守の劉超の子として生まれた。はじめ宋の駙馬都尉・奉朝請となり、湘東王劉彧に仕えて湘東国常侍となった。劉休は学問を好んで記憶力も良かったが、その才能が劉彧に知られることはなかった。祖父の南郷侯の封を嗣いだ。454年孝建元年)、友人の謝儼が劉義宣の乱に参加して敗れると、劉休は謝儼を匿ったため、7年のあいだ獄に繋がれた。464年大明8年)、孝武帝が死去すると、ようやく出獄した。弟の劉欽に従って羅県令となった。466年泰始2年)、晋安王劉子勛皇帝を称して諸州が呼応すると、劉休は明帝(劉彧)の勝利を予想して、反乱の誘いには加担しなかった。

数年後、呉喜が輔師府録事参軍となると、劉休は推薦を受けて明帝の側近に仕えた。劉休の妻の王氏は嫉妬深いことで知られたが、明帝がその噂を聞くと、劉休の妾を王氏に与え、20回杖で打たせた。また明帝は劉休の自宅の後ろに小店を開かせ、王氏に箒やサイカチを売らせて辱めた。まもなく劉休は員外郎に任じられ、輔国司馬・中書通事舎人・南城県令を兼ねた。舎人・県令のまま、尚書中兵郎・給事中に任じられた。安成王撫軍参軍となり、都水使者・南康国相をつとめた。建康に召還されて正員郎となり、邵陵王南中郎録事・建威将軍・新蔡郡太守をつとめた。左軍府に転じ、鎮蛮護軍の位を加えられた。諮議・司馬に転じ、寧朔将軍に進んだ。尋陽郡太守に転じた。後に長史となった。477年昇明元年)、沈攸之の乱が起こると、蕭賾が晋熙王と邵陵王の軍府を統轄して盆城に駐屯したため、劉休は軍費を献上した。478年(昇明2年)、沈攸之の乱が鎮圧されると、劉休は邵陵王安南長史に任じられ、黄門郎・寧朔将軍・前軍長史となった。479年(昇明3年)、斉国が建てられると、劉休は散騎常侍の位を受けた。

同年(建元元年)、蕭道成が皇帝に即位すると、劉休は御史中丞となった。ほどなく引退を願い出たが、許されなかった。482年(建元4年)、豫章郡内史として出向し、冠軍将軍の号を受けた。まもなく死去した。享年は54。

伝記資料