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== 子女 ==
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*王曇生(吏部尚書・太常卿を歴任し、[[大明 (南朝宋)|大明]]末年に[[呉興郡]]太守となった。[[泰始 (南朝宋)|泰始]]初年に晋安王[[劉子クン|劉子勛]]の乱に参加したが、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の軍に敗れて会稽に逃れ、降伏して許され、中散大夫に終わった)
*王曇生(吏部尚書・太常卿を歴任し、[[大明 (南朝宋)|大明]]末年に[[呉興郡]]太守となった。[[泰始 (南朝宋)|泰始]]初年に晋安王[[劉子勛]]の乱に参加したが、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の軍に敗れて会稽に逃れ、降伏して許され、中散大夫に終わった)
*王普曜(秘書監)
*王普曜(秘書監)
*王羅雲(平西長史)
*王羅雲(平西長史)

2020年8月24日 (月) 09:46時点における版

王 弘之(おう こうし、365年 - 427年)は、東晋から南朝宋にかけての隠者は方平。本貫琅邪郡臨沂県

経歴

上虞県令の王随之(王廙の子の王耆之の子)の子として生まれた。幼くして父を失い、外祖父の何準に養育された。東晋の隆安年間、琅邪王司馬徳文の下で中軍参軍となり、司徒主簿に転じた。烏程県令の任を猟官したが、まもなく病のため上虞県の家に帰った。桓玄が政権を掌握すると、弘之は桓謙の下で衛軍参軍となった。兄の王鎮之安成郡太守となると、弘之は職を辞して同行した。まもなく荊州刺史桓偉に請われて南蛮長史となった。

義熙初年、何無忌に右軍司馬となるよう請われ、劉裕徐州治中従事史として召され、員外散騎常侍とされたが、いずれも就任しなかった。会稽郡上虞県の家に住まい、農耕にいそしみ、上虞江の三石頭に釣り糸を垂らしながら日々を暮らした。422年永初3年)、従兄の王裕之が吏部尚書となると、弘之は郭希林とともに推挙されて、太子庶子として召されたが、また就任しなかった。427年元嘉4年)、通直散騎常侍として召されたが、やはり受けなかった。この年のうちに死去した。享年は63。

子女

  • 王曇生(吏部尚書・太常卿を歴任し、大明末年に呉興郡太守となった。泰始初年に晋安王劉子勛の乱に参加したが、明帝の軍に敗れて会稽に逃れ、降伏して許され、中散大夫に終わった)
  • 王普曜(秘書監)
  • 王羅雲(平西長史)

伝記資料