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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[唐]]の出身。[[開元]]24年 / [[天平]]8年([[736年]])第10次[[遣唐使]]と共に日本入り<ref name="nihonjinmei" />。同年8月に遣唐副使<ref name="yano2016">{{Cite journal|和書|url=http://jairo.nii.ac.jp/0181/00002647|title=遣唐使と来日「唐人」-皇甫東朝を中心として-|author=[[矢野建一]]|magazine=専修大学東アジア世界史研究センタ一年報|volume=6|date=2012-3|accessdate=2016-10-8}}</ref>の[[中臣名代]]に引率されて「唐人三人、波斯人([[ペルシア人]])一人」が[[聖武天皇]]に謁見しているが<ref>『続日本紀』天平8年8月庚午条</ref>、東朝はこの唐人に含まれるか。同年11月に皇甫東朝と波斯人の[[李密翳]]らに[[位階]]が授けられた<ref>『続日本紀』天平8年11月戊寅条</ref>。<!--中臣名代は天平6年(734年)に唐から帰国の途に就いた第10次[[遣唐使]](大使は[[多治比広成]])の副使である<ref name="yano2016" />が、名代の乗船は嵐に遭って唐に戻され、船の修理と再出航を余儀なくされたため、無事に帰国できた広成一行<ref group="注釈">[[吉備真備]]や[[玄昉]]らは、広成一行に同行して帰国した。</ref>から大きく遅れて帰国したものである。なお、この第10次遣唐使の帰国には多くの外国人が同行しており、皇甫東朝や李密翳のほか、インド出身の僧侶[[菩提僊那]]、唐の僧侶で伝戒師を委嘱された道璿、[[チャンパ王国|林邑]]出身の僧侶で林邑楽を伝えた[[仏哲]]{{refnest|group="注釈"|仏哲は名代一行に加わって来日した<ref name="yano2016" />。}}、のちに[[音博士]]となる唐出身の[[袁晋卿]]らが来日を果たしている<ref name="yano2016" />{{refnest|group="注釈"|なお、唐出身の工人でのちに貴族になった[[李元環]]も、渡来時期は明確でないものの第10次遣唐使に随行したものと推測されている<ref name="yano2016" />。}}。-->皇甫東朝の日本入りについて、日本における[[戒壇|授戒制度]]の整備を図った[[普照]]や[[道璿]]といった[[僧侶]]によって、[[仏教]][[儀礼]]に欠かせない楽の専門家として誘われたのではないかという推測がある([[矢野建一]])<ref name="yano2016" />。


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[[天平神護]]2年([[766年]])[[孝謙天皇|称徳天皇]]が発願して主催した[[法華寺]]の舎利会で唐楽を奏した<!--{{refnest|group="注釈"|この時には袁晋卿や李元環も演奏に従事している<ref name="yano2016" />。}}-->ことが功績とされ、同じく演奏にあたった[[皇甫昇女]]と共に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]した<ref name="nihonjinmei" /><ref name="yano2016" /><ref>『続日本紀』天平神護2年10月癸卯条</ref>{{refnest|group="注釈"|唐出身の女性が従五位下に叙せられた事例としては他に、遣唐留学生[[大春日浄足]]の妻[[李自然]]の例がある<ref name="yano2016" />。}}。なお、皇甫東朝と皇甫昇女の関係については、夫婦、親娘、きょうだい(兄妹もしくは姉弟)、あるいは同姓であるだけで血縁関係はないと諸説があるが、はっきりしない{{refnest|group="注釈"|矢野建一は、当時の日本・唐いずれにおいても夫婦が同姓であることは考えられないことから夫婦説を当たらないものとし、また東朝と昇女が同時に従五位下に昇進したことから、年齢も近く同じ経歴をたどったものであろうとしている<ref name="yano2016" />。}}。[[神護景雲]]元年([[767年]])に[[雅楽寮|雅楽員外助]]兼[[園池司|花苑司正]]に任じられた。唐楽や舞といった、宮廷儀礼を支える技能を指導する役割が期待されたものと見られる<ref name="yano2016" />。神護景雲3年([[769年]])に従五位上に昇る。

2020年8月25日 (火) 01:10時点における版

皇甫東朝
各種表記
繁体字 皇甫東朝
簡体字 皇甫东朝
拼音 Huángfǔ Dōngcháo(Dōngzhāo)
和名表記: こうほ とうちょう
発音転記: フアンフー・フォンチャオ
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皇甫 東朝(こうほ とうちょう[1]、生没年不詳[1])は、奈良時代貴族はなし。官位従五位上越中介唐楽の演奏家として、称徳天皇に重用された[2]

生涯

の出身。開元24年 / 天平8年(736年)第10次遣唐使と共に日本入り[1]。同年8月に遣唐副使[3]中臣名代に引率されて「唐人三人、波斯人(ペルシア人)一人」が聖武天皇に謁見しているが[4]、東朝はこの唐人に含まれるか。同年11月に皇甫東朝と波斯人の李密翳らに位階が授けられた[5]。皇甫東朝の日本入りについて、日本における授戒制度の整備を図った普照道璿といった僧侶によって、仏教儀礼に欠かせない楽の専門家として誘われたのではないかという推測がある(矢野建一[3]

天平神護2年(766年称徳天皇が発願して主催した法華寺の舎利会で唐楽を奏したことが功績とされ、同じく演奏にあたった皇甫昇女と共に従五位下叙爵した[1][3][6][注釈 1]。なお、皇甫東朝と皇甫昇女の関係については、夫婦、親娘、きょうだい(兄妹もしくは姉弟)、あるいは同姓であるだけで血縁関係はないと諸説があるが、はっきりしない[注釈 2]神護景雲元年(767年)に雅楽員外助花苑司正に任じられた。唐楽や舞といった、宮廷儀礼を支える技能を指導する役割が期待されたものと見られる[3]。神護景雲3年(769年)に従五位上に昇る。

天平神護元年(765年)に称徳天皇の発願によって創建された西大寺にも関わっていたようであり[2]、2010年には西大寺旧境内の溝[注釈 3]から皇甫東朝の名を墨書した土器が発掘されたことが報告された[2][3][7]。この土器は、2009年に行われた調査で発掘された須恵器(つき)で[7]、半分欠けた杯の裏面に「皇浦(甫)」「東□〔朝ヵ〕」の文字が確認できた[7][注釈 4]。東朝と西大寺の関係を示す文献はないが、矢野建一は「仏教儀礼に不可欠な唐楽の伝授のため東朝が西大寺に通っていたのではないか」と推測している[3]。『続日本紀』には唐からの渡来者(技術者や僧侶などが中心)が60人ほど記載されている[2]が、平城京で活躍した外国出身者の名前が出土遺物で確認されたのは、これが初めてという[2]

称徳天皇死後の宝亀元年(770年)12月に越中介に任じられた[1]。越中介は唐楽とは無関係の職であり、左遷と見なされることもある[2][3]。一方で、東朝赴任の前後には従五位の官人が越中介に任じられていることを挙げ、晩年の東朝が演奏家から官人として歩み始めたとすれば位階相当であって、左遷には当たらないという見方もある(矢野建一)[3]

皇甫東朝と同様の唐出身の貴族である袁晋卿は清村宿禰、李元環は清宗宿禰の賜姓を受けているが、皇甫東朝・皇甫昇女については『続日本紀』に改賜姓記事が現れない[3]。唐の皇甫氏が名族であることから、本人が改姓を肯んじなかったか、日本の朝廷にとって唐の名族を臣下に置く政治的効果を示す措置であったかという推測もあるが、理由は明らかでない[3]

官歴

続日本紀』による。

脚注

注釈

  1. ^ 唐出身の女性が従五位下に叙せられた事例としては他に、遣唐留学生大春日浄足の妻李自然の例がある[3]
  2. ^ 矢野建一は、当時の日本・唐いずれにおいても夫婦が同姓であることは考えられないことから夫婦説を当たらないものとし、また東朝と昇女が同時に従五位下に昇進したことから、年齢も近く同じ経歴をたどったものであろうとしている[3]
  3. ^ 同じ場所からは、神護景雲2年(768年)の年紀のある木簡なども発掘されている[3][7]
  4. ^ 文字の間違いなどから習書の可能性もある[2]

出典

  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 皇甫東朝. コトバンクより2020年7月11日閲覧
  2. ^ a b c d e f g “墨書土器に「皇甫東朝」 - 渡来の「唐楽」貴族【西大寺旧境内で発見】”. 奈良新聞. (2010年4月9日). http://www.nara-np.co.jp/20100409102203.html 2016年10月8日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 矢野建一遣唐使と来日「唐人」-皇甫東朝を中心として-」『専修大学東アジア世界史研究センタ一年報』第6巻、2012年3月、2016年10月8日閲覧 
  4. ^ 『続日本紀』天平8年8月庚午条
  5. ^ 『続日本紀』天平8年11月戊寅条
  6. ^ 『続日本紀』天平神護2年10月癸卯条
  7. ^ a b c d 唐人「皇甫東朝」の名を記した土器” (PDF). 奈良市埋蔵文化財調査センター速報展示資料. 奈良市埋蔵文化財調査センター. 2016年10月8日閲覧。