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荊州将軍であったが、[[咸豊]]5年([[1855年]])に[[湖広総督]]に昇進し、[[八旗]]軍・[[緑営]]軍を率いて[[曽国藩]]の[[湘軍]]と共に[[太平天国の乱]]鎮圧にあたった。初めは曽国藩を牽制・排除しようとしたため、曽国藩からは「平凡な人物」と評されているが、戦略思考と行政手腕には優れたものがあった。太平天国の乱を鎮圧した後は二等侯太子太保を授けられたが、これは一等侯の曽国藩に次ぐものであった。
荊州将軍であったが、[[咸豊]]5年([[1855年]])に[[湖広総督]]に昇進し、[[八旗]]軍・[[緑営]]軍を率いて[[曽国藩]]の[[湘軍]]と共に[[太平天国の乱]]鎮圧にあたった。初めは曽国藩を牽制・排除しようとしたため、曽国藩からは「平凡な人物」と評されているが、戦略思考と行政手腕には優れたものがあった。太平天国の乱を鎮圧した後は二等侯太子太保を授けられたが、これは一等侯の曽国藩に次ぐものであった。


[[同治]]5年([[1866年]])11月、[[捻軍]]との戦いで功績が上がらないのを湖北巡撫[[曽国セン|曽国荃]](曽国藩の弟)に弾劾され、翌6年([[1867年]])に湖広総督を辞職した。同年に[[直隷総督]]代理に返り咲いたが、翌年の同治7年([[1868年]])に曽国藩に取って代えられた。この政争は清の朝廷で[[漢民族]]の[[総督]]・[[巡撫]]が実権を握り、満州人の勢力が後退するきっかけとなる事件であった。
[[同治]]5年([[1866年]])11月、[[捻軍]]との戦いで功績が上がらないのを湖北巡撫[[曽国荃]](曽国藩の弟)に弾劾され、翌6年([[1867年]])に湖広総督を辞職した。同年に[[直隷総督]]代理に返り咲いたが、翌年の同治7年([[1868年]])に曽国藩に取って代えられた。この政争は清の朝廷で[[漢民族]]の[[総督]]・[[巡撫]]が実権を握り、満州人の勢力が後退するきっかけとなる事件であった。


著作に『蕩平髮逆附記』がある。
著作に『蕩平髮逆附記』がある。

2020年8月26日 (水) 05:16時点における版

官 文(かん ぶん、グワン・ウェン、満洲語ᡤᡠᠸᠠᠨᠸᡝᠨ 転写:guwanwen1798年 - 1871年)は朝の官僚。字は秀峰満州正白旗人で氏族はワンギャ氏(wanggiya hala、王佳氏)。官職は文華殿大学士など。

荊州将軍であったが、咸豊5年(1855年)に湖広総督に昇進し、八旗軍・緑営軍を率いて曽国藩湘軍と共に太平天国の乱鎮圧にあたった。初めは曽国藩を牽制・排除しようとしたため、曽国藩からは「平凡な人物」と評されているが、戦略思考と行政手腕には優れたものがあった。太平天国の乱を鎮圧した後は二等侯太子太保を授けられたが、これは一等侯の曽国藩に次ぐものであった。

同治5年(1866年)11月、捻軍との戦いで功績が上がらないのを湖北巡撫曽国荃(曽国藩の弟)に弾劾され、翌6年(1867年)に湖広総督を辞職した。同年に直隷総督代理に返り咲いたが、翌年の同治7年(1868年)に曽国藩に取って代えられた。この政争は清の朝廷で漢民族総督巡撫が実権を握り、満州人の勢力が後退するきっかけとなる事件であった。

著作に『蕩平髮逆附記』がある。

先代
楊霈
湖広総督
1855年 - 1867年
次代
李鴻章
先代
劉長佑
直隷総督
1867年 - 1868年
次代
曽国藩