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内閣大学士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

内閣大学士(ないかくだいがくし、繁体字:內閣大學士、簡体字: 内阁大学士、拼音:Nèigé dàxuéshì、満洲語: ᡩᠣᡵᡤᡳ
ᠶᠠᠮᡠᠨ ‍ᡳ
ᠠᠯᡳ᠍ᡥᠠ
ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᡳ
ᡩᠠ
[1] 転写:dorgi yamun -i aliha bithei da)は、中国朝および朝に存在した官職。殿閣大学士とも呼称され、任官者は中堂という尊称を受けていた。

なお、日本と現代中華圏の内閣制度の呼称はここに由来する。

明朝

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1380年に左丞相胡惟庸失脚を機に宰相の役所であった中書省が廃止され、皇帝親政を望んだ洪武帝は代わりに殿閣大学士を皇帝の秘書役、文華殿大学士皇太子の教育係として設置させたほか、華蓋殿武英殿文淵閣東閣の諸大学士を置いた。当初は単なる相談役で権限はあまりなく、官位も正五品と中堅官僚の待遇と同等に過ぎなかったが、永楽帝が内閣をつくり、翰林院出身者から大学士を選抜して入閣させるようになった。この時期にはまだ相談役とあまり変わらなかったが、その後の洪熙帝期には内閣大学士と尚書(大臣)が兼任されるようになり、公式な場での発言権を持つようになった。

さらに、宣徳帝期には、内閣大学士は票擬を行うようになる。票擬とは皇帝がすべての上奏文に対応するのは無理があるので、それほど重要ではない案件を内閣が検討し、それに対する皇帝の返答の草稿を内閣が作成することである。本来は皇帝がその草稿に目を通して修正するが、草稿がそのまま勅令になることが多く、実質上内閣が皇帝の権限の一部を代行することになり、極めて強い権限を持つようになった。特に、万暦帝のような政治を省みない皇帝のときは、ほとんど皇帝に代わり政治を行っていた。このころから内閣の筆頭閣臣である首輔丞相に例えられるようになり、六部の上に立ち国政を行うとされ、古代の丞相に匹敵する大権を行使するようになった。

もっとも、洪武帝の祖法によって、丞相あるいはそれに準じる役職の設置は事実上タブーとなっていたため、内閣大学士が国政を主導する法的根拠を立てることはできなかった。その任免は皇帝の個人的意向によるところが大きく、皇帝の信任を失えばたちまち辞職に追い込まれるなど、政治的立場はかならずしも強くはなかった。むしろ、政治的立場においては宦官ねいこう(皇帝個人の側近)のそれに近いものにならざるを得なかった。そのため、宦官などの讒言で解任されたり処罰されたりする者や、それを恐れてひたすら皇帝の意向に追従する者もあった[2]

清朝

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にもこの制度は受け継がれ、制度もおおむね明朝のものを踏襲していたが、清朝初期は議政王大臣の会議が政治の実権を握っていたため、当初の内閣は単なる伝達機関に過ぎなかったが、後に明代のように政治の中枢としての機能を持つようになった。しかし雍正帝軍機処を設立すると、皇帝の実権が強化され、諮問機関と位置づけられた軍機処は政治における中枢機関となった。それに伴い、内閣大学士も軍機処の最高責任者である軍機大臣を兼任することが多くなった。

この制度の中では、内閣が名目上官制の頂点とされたため、上奏文の名義や詔書の公布などは(実質的に軍機処が決裁するが)内閣が行うようになった。

主要官制(清朝)

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  • 大学士ᠠᠯᡳ᠍ᡥᠠ
    ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᡳ
    ᡩᠠ
    , aliha bithei da)、満・漢それぞれ定員2名。正一品。
  • 協辦大学士ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠯᠠᠮᡝ
    ᡳᠴᡳ᠍ᡥᡳᠶᠠᡵᠠ
    ᠠᠯᡳ᠍ᡥᠠ
    ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᡳ
    ᡩᠠ
    , aisilame icihiyara aliha bithei da)、満・漢それぞれ定員1名。従一品。
  • 学士ᠠᠰᡥᠠᠨ ᡳ
    ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᡳ
    ᡩᠠ
    , ashan i bithei da)、満洲人6名、漢人4名。従二品。
  • 侍読学士ᠠᡩ᠋ᠠᡥᠠ
    ᡥᡡᠯᠠᡵᠠ
    ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᡳ
    ᡩᠠ
    , adaha hūlara bithei da)、満洲人4名、蒙・漢それぞれ定員2名。従四品。
  • 侍読ᠠᡩ᠋ᠠᡥᠠ
    ᡥᡡᠯᠠᡵᠠ
    ᡥᠠᡶᠠᠨ
    , adaha hūlara hafan)、満洲人10名、蒙古・漢軍八旗・漢人それぞれ定員2名。正六品。
  • 典籍ᡩᠠᡢᠰᡝ
    ᠪᠠᡵᡤᡳᠶᠠᡵᠠ
    ᡥᠠᡶᠠᠨ
    , dangse bargiyara hafan)、満・漢・漢軍八旗それぞれ定員2名。正七品。
  • 中書ᡩᠣᡵᡤᡳ
    ᠪᡳ᠍ᡨ᠌ᡥᡝᠰᡳ
    , dorgi bithesi)、満洲人70名、蒙古16名、漢軍八旗8名、漢人30名。正七品。
  • 貼写中書、満洲人40名、蒙古6名。

明朝の内閣首輔

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本項では、明朝の歴代の内閣首輔(大学士の筆頭にあたる者)の一覧を掲載する。

任期 姓名 任官 離任 西暦
- 黄淮 建文4年8月進 11月降 1402年
1 解縉 建文4年11月進 永楽5年2月罷 1402年 - 1407年
2 胡広 永楽5年2月進 16年5月卒 1407年 - 1418年
3 楊栄 永楽16年5月進 22年8月降 1418年 - 1424年
4 楊士奇 永楽22年8月進 正統9年3月卒 1424年 - 1444年
5 楊溥 正統9年3月進 11年7月卒 1444年 - 1446年
6 曹鼐 正統11年7月進 14年8月卒 1446年 - 1449年
7 陳循 正統14年8月進 天順元年正月罷 1449年 - 1457年
- 高穀 天順元年正月代 2月致仕 1457年
8 徐有貞 天順元年2月進 6月罷 1457年
9 許彬 天順元年6月進 7月罷 1457年
10 李賢 天順元年7月進 成化2年3月丁憂 1457年 - 1466年
11 陳文 成化2年3月進 5月降 1466年
12 李賢 成化2年5月復 12月卒 1466年
13 陳文 成化2年12月進 4年4月卒 1466年 - 1468年
14 彭時 成化4年4月進 11年3月卒 1468年 - 1475年
15 商輅 成化11年3月進 13年6月致仕 1475年 - 1477年
16 万安 成化13年6月進 23年10月罷 1477年 - 1487年
17 劉吉 成化23年10月進 弘治5年8月致仕 1487年 - 1492年
18 徐溥 弘治5年8月進 11年7月致仕 1492年 - 1498年
19 劉健 弘治11年7月進 正徳元年10月致仕 1498年 - 1506年
20 李東陽 正徳元年10月進 7年12月致仕 1506年 - 1512年
21 楊廷和 正徳7年12月進 10年3月丁憂 1512年 - 1515年
22 梁儲 正徳10年3月進 12年11月降 1515年 - 1517年
23 楊廷和 正徳12年11月復 嘉靖3年2月致仕 1517年 - 1524年
24 蔣冕 嘉靖3年2月進 5月致仕 1524年
25 毛紀 嘉靖3年5月進 7月致仕 1524年
26 費宏 嘉靖3年7月進 5年5月降 1524年 - 1526年
27 楊一清 嘉靖5年5月進 7月降 1526年
28 費宏 嘉靖5年7月進 6年2月致仕 1526年 - 1527年
29 楊一清 嘉靖6年2月進 8年9月致仕 1527年 - 1529年
30 張璁 嘉靖8年9月進 10年2月易名孚敬、7月致仕 1529年 - 1531年
31 翟鑾 嘉靖10年7月進 10月降 1531年
32 張孚敬 嘉靖10年10月復 11年8月致仕 1531年 - 1532年
33 方献夫 嘉靖11年8月進 12年4月降 1532年 - 1533年
34 張孚敬 嘉靖12年4月復 14年4月致仕 1533年 - 1535年
35 李時 嘉靖14年4月進 17年12月卒 1535年 - 1538年
36 夏言 嘉靖17年12月進 18年5月致仕 1538年 - 1539年
- 顧鼎臣 嘉靖18年5月代 同月降 1539年
37 夏言 嘉靖18年5月復 20年8月致仕 1539年 - 1541年
38 翟鑾 嘉靖20年8月進 10月降 1541年
39 夏言 嘉靖20年10月復 21年7月罷 1541年 - 1542年
40 翟鑾 嘉靖21年7月進 23年8月罷 1542年 - 1544年
41 厳嵩 嘉靖23年8月進 24年12月降 1544年 - 1545年
42 夏言 嘉靖24年12月復 27年正月致仕 1545年 - 1548年
43 厳嵩 嘉靖27年正月進 41年5月罷 1548年 - 1562年
44 徐階 嘉靖41年5月進 隆慶2年7月致仕 1562年 - 1568年
45 李春芳 隆慶2年7月進 5年5月致仕 1568年 - 1571年
46 高拱 隆慶5年5月進 6年6月罷 1571年 - 1572年
47 張居正 隆慶6年6月進 万暦10年6月卒 1572年 - 1582年
48 張四維 万暦10年6月進 11年4月丁憂 1582年 - 1583年
49 申時行 万暦11年4月進 19年9月致仕 1583年 - 1591年
50 王家屏 万暦19年9月進 20年3月致仕 1591年 - 1592年
51 趙志皋 万暦20年3月進 21年正月降 1592年 - 1593年
52 王錫爵 万暦21年正月進 22年5月致仕 1593年 - 1594年
53 趙志皋 万暦22年5月進 29年9月卒 1594年 - 1601年
54 沈一貫 万暦29年9月進 34年7月致仕 1601年 - 1606年
55 朱賡 万暦34年7月進 36年11月卒 1606年 - 1608年
56 李廷機 万暦36年11月進 40年9月致仕 1608年 - 1612年
57 葉向高 万暦40年9月進 42年8月致仕 1612年 - 1614年
58 方従哲 万暦42年8月進 泰昌元年12月致仕 1614年 - 1620年
59 劉一燝 泰昌元年12月進 天啓元年10月降 1620年 - 1621年
60 葉向高 天啓元年10月復 4年7月致仕 1621年 - 1624年
61 韓爌 天啓4年7月進 11月致仕 1624年
62 朱国禎 天啓4年11月進 12月致仕 1624年
63 顧秉謙 天啓4年12月進 6年9月致仕 1624年 - 1626年
64 黄立極 天啓6年9月進 7年11月致仕 1626年 - 1627年
65 施鳳来 天啓7年11月進 崇禎元年3月致仕 1627年 - 1628年
66 李国𣚴 崇禎元年3月進 5月致仕 1628年
67 来宗道 崇禎元年5月進 6月致仕 1628年
68 周道登 崇禎元年6月進 12月降 1628年
69 韓爌 崇禎元年12月進 3年正月致仕 1628年 - 1630年
70 李標 崇禎3年正月進 3月致仕 1630年
71 成基命 崇禎3年3月進 9月致仕 1630年
72 周延儒 崇禎3年9月進 6年6月罷 1630年 - 1633年
73 温体仁 崇禎6年6月進 10年6月致仕 1633年 - 1637年
74 張至発 崇禎10年6月進 11年4月罷 1637年 - 1638年
75 孔貞運 崇禎11年4月進 6月罷 1638年
76 劉宇亮 崇禎11年6月進 12年2月罷 1638年 - 1639年
77 薛国観 崇禎12年2月進 13年6月致仕 1639年 - 1640年
78 范復粋 崇禎13年6月進 14年5月罷 1640年 - 1641年
- 張四知 崇禎14年5月代 9月降 1641年
79 周延儒 崇禎14年9月進 16年5月罷 1641年 - 1643年
80 陳演 崇禎16年5月進 17年2月罷 1643年 - 1644年
- 蔣徳璟 崇禎17年2月代 3月罷 1644年
81 魏藻徳 崇禎17年3月進 本月卒 1644年
- 李建泰 崇禎17年3月代 5月罷 1644年
弘1 史可法 崇禎17年5月進 8月出 1644年
弘2 高弘図 崇禎17年8月進 10月罷 1644年
弘3 馬士英 崇禎17年10月進 弘光元年閏6月罷 1644年 - 1645年
弘4 黄道周 弘光元年閏6月進 隆武元年7月出 1645年
隆1 路振飛 隆武元年7月進 2年10月降 1645年 - 1646年
隆2 丁魁楚 隆武2年10月進 永暦元年正月畔 1646年 - 1647年
- 瞿式耜 永暦元年正月代 2月降 1647年
永1 呉炳 永暦元年2月進 8月卒 1647年
- 瞿式耜 永暦元年8月代 9月降 1647年
永2 厳起恒 永暦元年9月進 3年正月降 1647年 - 1649年
永3 黄士俊 永暦3年正月進 4年正月罷 1649年 - 1650年
永4 厳起恒 永暦4年正月進 4月罷 1650年
永5 文安之 永暦4年4月進 5年2月出 1650年 - 1651年
永6 呉貞毓 永暦5年2月進 8年3月卒 1651年 - 1654年
永7 丁継善 永暦8年4月進 14年罷 1654年 - 1660年
永8 馬吉翔 永暦14年進 15年7月卒 1660年 - 1661年
永9 張煌言 永暦15年7月代 18年9月卒 1661年 - 1664年
弘5 方逢年 弘光元年閏6月進 監国魯元年6月畔 1645年 - 1646年
監1 熊汝霖 監国魯2年10月進 3年正月卒 1647年 - 1648年
監2 馬思理 監国魯3年正月進 10月卒 1648年
監3 張肯堂 監国魯4年10月進 6年9月卒 1649年 - 1651年
監4 沈宸荃 監国魯6年9月代 7年正月卒 1651年 - 1652年

脚注

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  1. ^ https://qingarchives.npm.edu.tw/index.php?act=Display/image/53523yFxhi=1#42L
  2. ^ 阪倉篤秀「内閣大学士費宏 -三度の入閣を巡って-」『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相』 上巻、汲古書院(原著2007年)。ISBN 9784762928154 

外部リンク

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