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'''黄 体芳'''(こう たいほう、''Huang Tifang''、[[1832年]] - [[1899年]])。字は'''漱蘭'''。[[清]]末の教育家。
'''黄 体芳'''(こう たいほう、''Huang Tifang''、[[1832年]] - [[1899年]])。字は'''漱蘭'''。[[清]]末の教育家。


[[浙江省]][[温州市|温州]][[瑞安市|瑞安]]出身。[[1863年]]、[[進士]]となり、[[翰林院]][[庶吉士]]・編修となる。[[1883年]]、[[江蘇省|江蘇]]学政の時に南菁書院を設立し、講師に[[黄以周]]・[[繆セン孫|繆荃孫]]らを招き、経学・史学・散文・天文学・数学を教えた。[[戊戌の変法]]の際には維新派として[[康有為]]を支持し、時事問題について頻繁に上書した。著作に『漱蘭詩葺』がある。子の[[黄紹箕]]と甥の[[黄紹弟]]も進士となった。
[[浙江省]][[温州市|温州]][[瑞安市|瑞安]]出身。[[1863年]]、[[進士]]となり、[[翰林院]][[庶吉士]]・編修となる。[[1883年]]、[[江蘇省|江蘇]]学政の時に南菁書院を設立し、講師に[[黄以周]]・[[繆荃孫]]らを招き、経学・史学・散文・天文学・数学を教えた。[[戊戌の変法]]の際には維新派として[[康有為]]を支持し、時事問題について頻繁に上書した。著作に『漱蘭詩葺』がある。子の[[黄紹箕]]と甥の[[黄紹弟]]も進士となった。


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2020年8月26日 (水) 05:18時点における版

黄体芳

黄 体芳(こう たいほう、Huang Tifang1832年 - 1899年)。字は漱蘭末の教育家。

浙江省温州瑞安出身。1863年進士となり、翰林院庶吉士・編修となる。1883年江蘇学政の時に南菁書院を設立し、講師に黄以周繆荃孫らを招き、経学・史学・散文・天文学・数学を教えた。戊戌の変法の際には維新派として康有為を支持し、時事問題について頻繁に上書した。著作に『漱蘭詩葺』がある。子の黄紹箕と甥の黄紹弟も進士となった。