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民国時代に入ると、騎兵団団長、綏遠第1混成旅旅長などの地位に就いた。[[1924年]]([[民国紀元|民国]]13年)10月の[[北京政変]](首都革命)にも参与している。[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]が結成されると、国民軍第1軍第3師師長に任命された。[[1926年]](民国15年)、馮玉祥の部隊の総参賛となる。同年4月、国民軍が他の北洋軍に圧迫されて[[北京市|北京]]から撤退した後には、鄭は東路軍第1軍軍長に任ぜられた。そして[[北京政変#付記 南口大戦|南口大戦]]において、国民軍圧倒的不利の状況の中、他の北洋軍を相手に善戦している。9月の五原誓師後には、[[河南省 (中華民国)|河南省]]で[[国民革命軍]]第2集団軍第6軍軍長に任命された。
民国時代に入ると、騎兵団団長、綏遠第1混成旅旅長などの地位に就いた。[[1924年]]([[民国紀元|民国]]13年)10月の[[北京政変]](首都革命)にも参与している。[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]が結成されると、国民軍第1軍第3師師長に任命された。[[1926年]](民国15年)、馮玉祥の部隊の総参賛となる。同年4月、国民軍が他の北洋軍に圧迫されて[[北京市|北京]]から撤退した後には、鄭は東路軍第1軍軍長に任ぜられた。そして[[北京政変#付記 南口大戦|南口大戦]]において、国民軍圧倒的不利の状況の中、他の北洋軍を相手に善戦している。9月の五原誓師後には、[[河南省 (中華民国)|河南省]]で[[国民革命軍]]第2集団軍第6軍軍長に任命された。


[[1928年]](民国17年)の[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では、[[劉鎮華]]が率いる第2集団軍第2路<ref>来新夏『北洋軍閥史』による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』では、第8方面軍としている。</ref>副総指揮に任命され、[[山東省 (中華民国)|山東省]]に進軍した。しかし、同年5月、山東省[[沢市|曹県]]で部下の師長である姜明玉に叛逆されて捕えられ、山東省を支配していた[[張宗昌]]に引き渡されてしまった。
[[1928年]](民国17年)の[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]では、[[劉鎮華]]が率いる第2集団軍第2路<ref>来新夏『北洋軍閥史』による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』では、第8方面軍としている。</ref>副総指揮に任命され、[[山東省 (中華民国)|山東省]]に進軍した。しかし、同年5月、山東省[[沢市|曹県]]で部下の師長である姜明玉に叛逆されて捕えられ、山東省を支配していた[[張宗昌]]に引き渡されてしまった。


同年11月6日、張宗昌の命令により、鄭金声は[[済南市|済南]]で銃殺に処された。享年50。なお張宗昌は、[[1932年]](民国20年)9月に、鄭金声の甥である鄭継成に[[済南駅]]で殺害されている。
同年11月6日、張宗昌の命令により、鄭金声は[[済南市|済南]]で銃殺に処された。享年50。なお張宗昌は、[[1932年]](民国20年)9月に、鄭金声の甥である鄭継成に[[済南駅]]で殺害されている。

2020年8月26日 (水) 05:34時点における版

鄭金声
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 1928年民国17年)11月6日
中華民国の旗 中華民国山東省済南市
出身地: 清の旗 山東省済南府歴城県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 鄭金聲
簡体字 郑金声
拼音 Zhèng Jīnshēng
ラテン字 Cheng Chin-sheng
和名表記: てい きんせい
発音転記: ジョン ジンション
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鄭 金声(てい きんせい)は中華民国の軍人。北京政府国民軍に属した。馮玉祥配下の「五虎将[1]の1人とされることがある。原名は嘉達振堂

事跡

幼年期は私塾に学び、その後は農業、漢方薬製造、草鞋編みなど様々な職業を遍歴している。1900年光緒26年)、袁世凱新建陸軍に加入した。その後、1907年(光緒33年)に東北に赴任して隊官となり、この時に馮玉祥と知り合い、義兄弟の契り(「換帖兄弟」)を結んだ。辛亥革命後に管帯に昇進している。

民国時代に入ると、騎兵団団長、綏遠第1混成旅旅長などの地位に就いた。1924年民国13年)10月の北京政変(首都革命)にも参与している。国民軍が結成されると、国民軍第1軍第3師師長に任命された。1926年(民国15年)、馮玉祥の部隊の総参賛となる。同年4月、国民軍が他の北洋軍に圧迫されて北京から撤退した後には、鄭は東路軍第1軍軍長に任ぜられた。そして南口大戦において、国民軍圧倒的不利の状況の中、他の北洋軍を相手に善戦している。9月の五原誓師後には、河南省国民革命軍第2集団軍第6軍軍長に任命された。

1928年(民国17年)の中国国民党北伐では、劉鎮華が率いる第2集団軍第2路[2]副総指揮に任命され、山東省に進軍した。しかし、同年5月、山東省曹県で部下の師長である姜明玉に叛逆されて捕えられ、山東省を支配していた張宗昌に引き渡されてしまった。

同年11月6日、張宗昌の命令により、鄭金声は済南で銃殺に処された。享年50。なお張宗昌は、1932年(民国20年)9月に、鄭金声の甥である鄭継成に済南駅で殺害されている。

  1. ^ 他の4人は、張之江鹿鍾麟宋哲元劉郁芬。ただし鄭金声の代わりに李鳴鐘が列せられることがある。
  2. ^ 来新夏『北洋軍閥史』による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』では、第8方面軍としている。

参考文献

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1