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[[徐陵]]の長男として生まれた。汝南の[[周弘正]]に人柄を認められて、その娘を妻に迎えた。[[547年]]([[太清]]元年)、豫章王府行参軍を初任とした。[[548年]](太清2年)、[[侯景の乱]]が起こったとき、父の徐陵は[[東魏]]への使者におもむいて帰っておらず、徐倹は家族を連れて[[荊州区|江陵]]に避難した。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]に召されて尚書金部郎中となった。元帝の宴会に参加して詩を賦し、文才を賞賛された。[[554年]]([[承聖]]3年)、[[西魏]]の侵攻を受けて江陵が陥落すると、[[建康 (都城)|建康]]に帰還した。[[557年]]([[永定 (陳)|永定]]元年)、陳が建国されると、徐倹は太子洗馬となり、鎮東従事中郎に転じた。[[562年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]3年)、中書侍郎に転じた。 |
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[[582年]](太建14年)、[[後主 (陳)|後主]]が即位すると、徐倹は和戎将軍・宣恵晋熙王長史に任じられ、行丹陽郡国事をつとめた。[[583年]]([[至徳 (陳)|至徳]]元年)、父の徐陵が死去すると、徐倹は辞職して喪に服した。まもなく和戎将軍として再起し、[[尋陽郡]]内史に転じた。散騎常侍に転じ、建昌侯の封を嗣ぎ、入朝して御史中丞となった。徐倹は御史として権臣におもねらず、尚書令の[[江総]]に対してさえ弾劾をおこなったため、後主の信任を受けた。[[588年]]([[禎明]]2年)、死去した。 |
2020年8月27日 (木) 22:28時点における版
徐 倹(徐儉、じょ けん、528年 - 588年)は、南朝梁から陳にかけての人物。またの名を衆といった。本貫は東海郡郯県。
経歴
徐陵の長男として生まれた。汝南の周弘正に人柄を認められて、その娘を妻に迎えた。547年(太清元年)、豫章王府行参軍を初任とした。548年(太清2年)、侯景の乱が起こったとき、父の徐陵は東魏への使者におもむいて帰っておらず、徐倹は家族を連れて江陵に避難した。元帝に召されて尚書金部郎中となった。元帝の宴会に参加して詩を賦し、文才を賞賛された。554年(承聖3年)、西魏の侵攻を受けて江陵が陥落すると、建康に帰還した。557年(永定元年)、陳が建国されると、徐倹は太子洗馬となり、鎮東従事中郎に転じた。562年(天嘉3年)、中書侍郎に転じた。
569年(太建元年)、広州刺史の欧陽紇が挙兵して反乱を起こすと、徐倹は宣帝の命を受けて広州におもむき、欧陽紇の翻意をうながした。欧陽紇は徐倹の説得を聞き入れず、徐倹を孤園寺に幽閉した。数十日後、徐倹は欧陽紇の許可をえて、帰還した。章昭達が宣帝の命を受けて欧陽紇を討ち、徐倹はその下で監軍をつとめた。570年(太建2年)、欧陽紇の乱が平定されると、徐倹は鎮北鄱陽王諮議参軍に任じられ、中書舎人を兼ねた。国子博士・大匠卿を歴任した。まもなく黄門侍郎となり、太子中庶子に転じた。通直散騎常侍の位を加えられ、尚書左丞を兼ねたが、公務の失敗のために免官された。まもなく中衛始興王限外諮議参軍として再起し、中書舎人を兼ねた。また太子中庶子となり、貞威将軍・太子左衛率に転じた。
582年(太建14年)、後主が即位すると、徐倹は和戎将軍・宣恵晋熙王長史に任じられ、行丹陽郡国事をつとめた。583年(至徳元年)、父の徐陵が死去すると、徐倹は辞職して喪に服した。まもなく和戎将軍として再起し、尋陽郡内史に転じた。散騎常侍に転じ、建昌侯の封を嗣ぎ、入朝して御史中丞となった。徐倹は御史として権臣におもねらず、尚書令の江総に対してさえ弾劾をおこなったため、後主の信任を受けた。588年(禎明2年)、死去した。