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梁の[[侍中]]・都官尚書の[[蕭介]]の子として生まれた。品行方正で博学であり、文章を得意とした。著作佐郎を初任とし、西昌侯儀同府主簿に転じた。[[侯景の乱]]が起こると、弟の蕭肜や親族100人あまりとともに[[嶺南]]に避難し、[[衡州]][[刺史]]の[[欧陽ギ|欧陽頠]]を頼った。[[558年]]([[永定 (陳)|永定]]2年)、欧陽頠が[[広州 (広東省)|広州]]刺史に転じると、蕭引もこれに従った。[[563年]]([[天嘉 (陳)|天嘉]]4年)、欧陽頠が病死すると、子の[[欧陽紇]]が広州刺史の任を引き継いだ。蕭引は欧陽紇が異心を抱いているのではないかと疑い、事あるごとに諫めた。[[569年]]([[太建]]元年)、欧陽紇が広州で挙兵して反乱を起こすと、[[建康 (都城)|建康]]出身の岑之敬・公孫挺らはみな恐れおののいたが、蕭引だけが平然として、「君子は明道をもって身を正し、行義をもって己を直していれば、またどうして恐れることがあろうか」と嘯いた。[[570年]](太建2年)、[[章昭達]]が広州を平定すると、蕭引は建康に帰還した。陳の[[宣帝 (陳)|宣帝]]が蕭引を召し出して嶺南の事情について下問すると、蕭引はつぶさに説明してみせたので、宣帝は喜んでその日のうちに金部侍郎に任じた。 |
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蕭引は[[隷書]]を得意として当時に重んじられ、宣帝は「この字は筆勢翩翩、鳥の飛ばんと欲するに似たり」と評した。[[575年]](太建7年)、戎昭将軍の号を加えられた。[[577年]](太建9年)、中衛始興王諮議参軍に任じられ、金部侍郎を兼ねた。[[578年]](太建10年)、[[呂梁の戦い]]の敗戦により、陳軍の武器の備蓄が底をついたため、蕭引は庫部侍郎に転じて、弓・弩・槊・箭などの製造を監督した。1年の在職のあいだに、兵器の備蓄は充実した。相次いで中書侍郎・貞威将軍・黄門郎を加官された。[[580年]](太建12年)、吏部侍郎の官が欠員となったため、王寛・謝燮らが推挙されたが、宣帝はともに用いず、蕭引が任用された。 |
蕭引は[[隷書]]を得意として当時に重んじられ、宣帝は「この字は筆勢翩翩、鳥の飛ばんと欲するに似たり」と評した。[[575年]](太建7年)、戎昭将軍の号を加えられた。[[577年]](太建9年)、中衛始興王諮議参軍に任じられ、金部侍郎を兼ねた。[[578年]](太建10年)、[[呂梁の戦い]]の敗戦により、陳軍の武器の備蓄が底をついたため、蕭引は庫部侍郎に転じて、弓・弩・槊・箭などの製造を監督した。1年の在職のあいだに、兵器の備蓄は充実した。相次いで中書侍郎・貞威将軍・黄門郎を加官された。[[580年]](太建12年)、吏部侍郎の官が欠員となったため、王寛・謝燮らが推挙されたが、宣帝はともに用いず、蕭引が任用された。 |
2020年8月27日 (木) 22:28時点における版
蕭引(しょう いん、生没年不詳)は、南朝梁から陳にかけての人物。字は叔休。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
経歴
梁の侍中・都官尚書の蕭介の子として生まれた。品行方正で博学であり、文章を得意とした。著作佐郎を初任とし、西昌侯儀同府主簿に転じた。侯景の乱が起こると、弟の蕭肜や親族100人あまりとともに嶺南に避難し、衡州刺史の欧陽頠を頼った。558年(永定2年)、欧陽頠が広州刺史に転じると、蕭引もこれに従った。563年(天嘉4年)、欧陽頠が病死すると、子の欧陽紇が広州刺史の任を引き継いだ。蕭引は欧陽紇が異心を抱いているのではないかと疑い、事あるごとに諫めた。569年(太建元年)、欧陽紇が広州で挙兵して反乱を起こすと、建康出身の岑之敬・公孫挺らはみな恐れおののいたが、蕭引だけが平然として、「君子は明道をもって身を正し、行義をもって己を直していれば、またどうして恐れることがあろうか」と嘯いた。570年(太建2年)、章昭達が広州を平定すると、蕭引は建康に帰還した。陳の宣帝が蕭引を召し出して嶺南の事情について下問すると、蕭引はつぶさに説明してみせたので、宣帝は喜んでその日のうちに金部侍郎に任じた。
蕭引は隷書を得意として当時に重んじられ、宣帝は「この字は筆勢翩翩、鳥の飛ばんと欲するに似たり」と評した。575年(太建7年)、戎昭将軍の号を加えられた。577年(太建9年)、中衛始興王諮議参軍に任じられ、金部侍郎を兼ねた。578年(太建10年)、呂梁の戦いの敗戦により、陳軍の武器の備蓄が底をついたため、蕭引は庫部侍郎に転じて、弓・弩・槊・箭などの製造を監督した。1年の在職のあいだに、兵器の備蓄は充実した。相次いで中書侍郎・貞威将軍・黄門郎を加官された。580年(太建12年)、吏部侍郎の官が欠員となったため、王寛・謝燮らが推挙されたが、宣帝はともに用いず、蕭引が任用された。
当時、広州刺史の馬靖が嶺南で人心を得ており、軍勢をたくわえ、連年にわたって少数民族の反抗を鎮圧して戦功を挙げていたため、陳の朝廷の猜疑を買っていた。蕭引は宣帝の命により広州に赴き、馬靖を説得してその子弟を人質に出させた。582年(太建14年)、後主が即位すると、蕭引は中庶子となったが、病のため官を辞した。583年(至徳元年)、建康の治安が悪化したため、蕭引は貞威将軍・建康県令として復帰した。
当時、殿内隊主の呉璡や宦官の李善度・蔡脱児らから多くの請託があったが、蕭引はそれらを一切突っぱねていた。蕭引の族子で黄門郎の蕭密は、李善度・蔡脱児の朝廷での権勢をおそれて、小事を取りはからってやるよう蕭引に勧めたが、蕭引は聞き入れなかった。呉璡が怪文書を作って蕭引を誣告し、李善度・蔡脱児がその内容を追認したため、蕭引は免官された。後に家で死去した。享年は58。
子の蕭徳言が、最も名を知られた。