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「出雲広嶋」の版間の差分

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== 経歴 ==
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天平5年([[733年]])2月に勘造された『[[出雲国風土記]]』編纂の総括的責任者として、巻末に「国造にして[[意宇郡|意宇]]の郡の大領を帯びたる、外正六位上 勲十二等 出雲臣広島」と署名している<ref name="if">『出雲国風土記』奧付</ref>。[[天平]]10年([[738年]])[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇叙された。
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*養老8年([[724年]]) 正月27日:見[[出雲国造]]。正月28日:受位
*養老8年([[724年]]) 正月27日:見[[出雲国造]]。正月28日:受位
*時期不詳:[[従六位|従六位上]]
*時期不詳:[[従六位|従六位上]]
*神亀3年([[726年]]) 正月2日:進位二階、賜[[あしぎぬ|絁]]20疋・[[綿]]50屯・[[布]]60端
*神亀3年([[726年]]) 正月2日:進位二階、賜[[絁]]20疋・[[綿]]50屯・[[布]]60端
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*[[天平]]10年([[738年]]) 2月19日:[[従五位|外従五位下]]
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2020年8月27日 (木) 23:14時点における版

出雲 広嶋(いずも の ひろしま、生没年不詳)は、奈良時代人物。名は広島とも表記される。出雲国造出雲果安の子。官位従五位下出雲国造。『出雲国風土記』の編纂者。

経歴

養老8年(724年元正天皇出雲国造神賀詞を奏上し、これにより広嶋は神部ともども位階を進められ、禄を賜った(この時の位階は従七位下)。神亀3年(726年)にも上京して、聖武天皇に神賀詞を奏上し、合わせて神社の剣・鏡と白馬・を献上する。2人の祝と合わせて位階二階を進められるとともに、広嶋には20疋・綿50屯・布60端、その他の祝部194人にも禄が与えられた[1]

天平5年(733年)2月に勘造された『出雲国風土記』編纂の総括的責任者として、巻末に「国造にして意宇の郡の大領を帯びたる、外正六位上 勲十二等 出雲臣広島」と署名している[2]天平10年(738年従五位下に昇叙された。

子または弟の出雲弟山が国造に就任した天平18年(746年)ごろ没したか[3]

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

脚注

  1. ^ 『続日本紀』神亀3年2月7日条
  2. ^ a b 『出雲国風土記』奧付
  3. ^ 『日本人名大辞典』
  4. ^ a b c 宝賀[0986: 994]

参考文献

関連項目