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[[昌符]]12年([[1388年]])、黎季{{lang|zh|犛}}の存在を恐れて[[黎亜夫]]らとその誅殺を謀ったが、返り討ちにあって捕らえられてしまう。黎季{{lang|zh|犛}}は芸宗の支持を得た上でその末子・陳{{lang|zh|顒}}([[陳順宗|順宗]])を擁立し、陳{{lang|zh|晛}}を霊徳王に落とした上で殺害した。享年28。 |
2020年8月28日 (金) 05:08時点における版
廃帝 陳晛 | |
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陳朝 | |
第11代皇帝 | |
王朝 | 陳朝 |
在位期間 | 1377年 - 1388年 |
姓・諱 | 陳晛(陳日煒) |
生年 |
大治4年3月6日 (1361年4月11日) |
没年 |
光泰元年12月27日 (1389年1月24日) |
父 | 睿宗 |
母 | 嘉慈皇后 |
陵墓 | 安排山 |
元号 | 昌符 : 1377年 - 1388年 |
陳 晛(ちん けん、ベトナム語: Trần Hiện)は、陳朝大越の第11代皇帝。陳廃帝(ちんはいてい、ベトナム語: Trần Phế Đế)とも呼ばれる。
生涯
第10代皇帝・睿宗の次男。隆慶5年(1377年)に父帝が対チャンパ戦争の際に陣没したため、即位した。しかし実権は太上皇の伯父芸宗が握っていた。また、陳晛が若年だったことから軍権は芸宗の寵臣で外戚でもあった黎季犛が握るようになる。黎季犛は対チャンパ戦争で頭角を現していき、次第に専横の兆しが見え始めるようになった。
昌符12年(1388年)、黎季犛の存在を恐れて黎亜夫らとその誅殺を謀ったが、返り討ちにあって捕らえられてしまう。黎季犛は芸宗の支持を得た上でその末子・陳顒(順宗)を擁立し、陳晛を霊徳王に落とした上で殺害した。享年28。
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