陳芸宗
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芸宗 陳暊 | |
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陳朝 | |
第9代皇帝 | |
王朝 | 陳朝 |
在位期間 | 1370年 - 1372年 |
姓・諱 | 陳暊(陳叔明) |
諡号 | 光堯英哲皇帝 |
廟号 | 芸宗 |
別号 |
体天建極純孝皇帝 光堯英哲太上皇帝 |
生年 | 大慶8年(1321年)12月 |
没年 |
光泰7年12月15日 (1395年1月6日) |
父 | 明宗 |
母 | 明慈皇太妃 |
陵墓 | 安生原陵 |
元号 | 紹慶 : 1370年 - 1372年 |
陳芸宗(陳藝宗、ちんげいそう、ベトナム語: Trần Nghệ Tông)は、陳朝大越の第9代皇帝。名は陳 暊(ベトナム語:Trần Phủ / 陳暊)、または陳 叔明(ベトナム語:Trần Thúc Minh / 陳叔明)とも。
生涯
[編集]第5代皇帝・明宗の三男。即位前は恭定王に封ぜられていた。大定2年(1370年)、暴政を敷いていた婿の楊日礼を廃して即位した。紹慶3年(1372年)、弟の陳曔(睿宗)に譲位して太上皇となった。譲位した後も実権を握り続け、睿宗の死後はその子の陳晛を、後に陳晛を廃して自身の子の陳顒(順宗)を擁立した。
しかし国内では重臣の離反と悪政による反乱が相次ぎ、国外ではチャンパの侵攻を受けることとなる。このような中で芸宗は、重臣の多くを粛清するなどの悪政をさらに繰り広げて、陳朝の衰退を決定的なものにしてしまう。
生母の甥である黎季犛を寵信して重用し、黎季犛もまたその信頼にこたえてよくチャンパを防いだが、芸宗死後の黎季犛はしだいに野心を増し、後の陳朝の滅亡に繋がることになる。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 恵懿夫人(淑徳皇后を追贈された)
- 宸妃黎氏
子女
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