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'''ケリー伯爵'''({{lang-en-short|Earl of Kerry}})は、[[イギリス]]の[[伯爵]]位。[[アイルランド貴族]]。[[1723年]]に第21代ケリー男爵[[トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯爵)|トマス・フィッツモーリス]]が叙位されたことに始まる。[[1818年]]に分家である[[ランズダウン侯爵]]家に継承され、以後はランズダウン侯爵の{{日本語版にない記事リンク|従属称号|en|Subsidiary title}}となっている。 |
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[[フィッツモーリス]]家について、[[ジョージ・エドワード・コケイン]]は出自は不明確としているが<ref name="Cokayne">{{cite encyclopedia |editor-first= George Edward |editor-last= Cokayne |editor-link= :en:George Edward Cokayne |encyclopedia= [[:en:The Complete Peerage|Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom]] |title= KERRY, and KERRY AND LIXNAW |url= https://archive.org/stream/completepeerage02cokagoog#page/n373/mode/2up |accessdate= 2015-6-10 |edition= |year= 1887 |publisher= [[:en:George Bell & Sons|George Bell & Sons]] |volume= 4 |location= [[ロンドン|London]] |pages= 361-366 |ref= Cokayne }}</ref>、{{仮リンク|バーナード・バーク|en|Bernard Burke}}や[[ジョン・デブレット]]は11世紀の[[ノルマン人]]騎士[[オト・ドゥ・ウィンザー]]と[[ウォルター・フィッツオト]]父子を祖としている。それによれば、ウォルターの孫ウィリアムが息子のレイモンドを連れて[[アイルランド島]]に渡り、レイモンドの息子モーリスが[[ケリー県]]に領地を得たのだという。なお「モーリスの子」を意味する「フィッツモーリス」の家名は彼に由来する<ref name="Burke">{{cite encyclopedia |editor-first= Bernard, Sir |editor-last= Burke |editor-link= :en:Bernard Burke |encyclopedia= [[:en:Burke's Peerage|A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire]] |title= LANSDOWNE. |url= https://archive.org/stream/genealogicalhera00inburk#page/660/mode/2up |accessdate= 2015-6-10 |edition= 31 |year= 1869 |publisher= Harrison |volume= |location= [[ロンドン|London]] |pages= 660-661 |ref = Burke }}</ref><ref name="Debrett">{{cite encyclopedia |editor-first= John |editor-last= Debrett |editor-link= |encyclopedia= [[:en:Debrett's|Debrett's Peerage of England, Scotland, and Ireland. revised, corrected and continued by G.W. Collen]] |title= LANSDOWNE. |url= https://archive.org/stream/debrettspeerage08debrgoog#page/n490/mode/2up |accessdate= 2015-6-10 |edition= |year= 1840 |publisher= [[:en:William Pickering (publisher)|William Pickering]] |volume= |location= [[ロンドン|London]] |pages= 432-433 |ref = Debrett }}</ref>。 |
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そのモーリスの息子[[トマス・フィッツモーリス (初代ケリー男爵)|トマス・フィッツモーリス]]が「'''ケリーおよびリックナウ男爵'''({{lang|en|Baron Kerry and Lixnaw}})」の爵位を得たのが貴族としてのフィッツモーリス家の始まりとされるものの、この男爵位創設の時期も詳らかでない。ただし[[1489年]]に[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が15人の[[アイルランド貴族]]を[[グリニッジ]]へ召喚した際に、男爵としては{{日本語版にない記事リンク|アセンリー男爵|en|Baron Athenry}}と{{日本語版にない記事リンク|キングセイル男爵|en|Baron Kingsale}}に次いで記されていることから、[[15世紀]]当時アイルランド貴族のうち3番目に古い男爵とされていたことがわかる。なお[[1615年]]に {{interlang|en|Lords Commissioners|Lord Commissioners}}{{訳語疑問点|date=2015年6月13日 (土) 03:34 (UTC)}} は「ケリー男爵は[[ノルマン人のアイルランド侵攻]](1172年)のころまで遡れるが、キングセイル男爵(1223年ごろ創設)の方がより古い」という裁定を下した<ref name="Cokayne" />。 |
そのモーリスの息子[[トマス・フィッツモーリス (初代ケリー男爵)|トマス・フィッツモーリス]]が「'''ケリーおよびリックナウ男爵'''({{lang|en|Baron Kerry and Lixnaw}})」の爵位を得たのが貴族としてのフィッツモーリス家の始まりとされるものの、この男爵位創設の時期も詳らかでない。ただし[[1489年]]に[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が15人の[[アイルランド貴族]]を[[グリニッジ]]へ召喚した際に、男爵としては{{日本語版にない記事リンク|アセンリー男爵|en|Baron Athenry}}と{{日本語版にない記事リンク|キングセイル男爵|en|Baron Kingsale}}に次いで記されていることから、[[15世紀]]当時アイルランド貴族のうち3番目に古い男爵とされていたことがわかる。なお[[1615年]]に {{interlang|en|Lords Commissioners|Lord Commissioners}}{{訳語疑問点|date=2015年6月13日 (土) 03:34 (UTC)}} は「ケリー男爵は[[ノルマン人のアイルランド侵攻]](1172年)のころまで遡れるが、キングセイル男爵(1223年ごろ創設)の方がより古い」という裁定を下した<ref name="Cokayne" />。 |
2020年8月30日 (日) 22:58時点における版
ケリー伯爵(英: Earl of Kerry)は、イギリスの伯爵位。アイルランド貴族。1723年に第21代ケリー男爵トマス・フィッツモーリスが叙位されたことに始まる。1818年に分家であるランズダウン侯爵家に継承され、以後はランズダウン侯爵の従属称号(英語: Subsidiary title)となっている。
フィッツモーリス家について、ジョージ・エドワード・コケインは出自は不明確としているが[1]、バーナード・バークやジョン・デブレットは11世紀のノルマン人騎士オト・ドゥ・ウィンザーとウォルター・フィッツオト父子を祖としている。それによれば、ウォルターの孫ウィリアムが息子のレイモンドを連れてアイルランド島に渡り、レイモンドの息子モーリスがケリー県に領地を得たのだという。なお「モーリスの子」を意味する「フィッツモーリス」の家名は彼に由来する[2][3]。
そのモーリスの息子トマス・フィッツモーリスが「ケリーおよびリックナウ男爵(Baron Kerry and Lixnaw)」の爵位を得たのが貴族としてのフィッツモーリス家の始まりとされるものの、この男爵位創設の時期も詳らかでない。ただし1489年にヘンリー7世が15人のアイルランド貴族をグリニッジへ召喚した際に、男爵としてはアセンリー男爵(英語: Baron Athenry)とキングセイル男爵(英語: Baron Kingsale)に次いで記されていることから、15世紀当時アイルランド貴族のうち3番目に古い男爵とされていたことがわかる。なお1615年に Lord Commissioners[訳語疑問点] は「ケリー男爵はノルマン人のアイルランド侵攻(1172年)のころまで遡れるが、キングセイル男爵(1223年ごろ創設)の方がより古い」という裁定を下した[1]。
初代ケリー男爵の14世孫にあたる第21代ケリー男爵トマス・フィッツモーリスは1723年1月17日にジョージ1世によってアイルランド貴族「クランモーリス子爵(Viscount Clanmaurice)」および「ケリー伯爵」に叙された[1][2][3][4]。彼はアイルランド庶民院議員やアイルランド枢密顧問官を務めた政治家で、経済学者ウィリアム・ペティの娘アンと結婚した[1][2][3]。二人の間に生まれた子供のうち、長男のウィリアムはケリー伯爵を継承、次男のジョンはペティに改姓して母方の財産を相続しさらにシェルバーン伯爵(アイルランド貴族)に叙された。ジョンの息子である第2代シェルバーン伯爵ウィリアムはイギリスの首相となり、退任後にランズダウン侯爵(グレートブリテン貴族)を授けられている[2][3]。
第2代ケリー伯爵ウィリアムの一人息子で3代伯爵となったフランシスには息子がなかったため、1818年に彼が死去するとケリー伯爵位は初代ランズダウン侯爵の息子で第3代ランズダウン侯爵となっていたヘンリーによって継承された[1][2][3]。襲爵にあたって彼は姓を「ペティ=フィッツモーリス」へ改め、ランズダウン侯爵・ケリー伯爵・シェルバーン伯爵などの爵位はその子孫によって保持されている。侯爵は伯爵より上位の称号であるため以後当主が「ケリー伯爵」を称することはなくなったが、ランズダウン侯爵位の法定推定相続人は儀礼称号としてケリー伯爵とシェルバーン伯爵を交互に用いている。
フィッツモーリス家の系図 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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数字はケリー男爵の代数。初期については Burke (1869) と Debrett (1840) を、叙爵後については Cokayne (1887) を参照した。 |
一覧
ケリーおよびリックナウ男爵 (1223年ごろ)
- トマス・フィッツモーリス (初代ケリー男爵) (1260年ごろ没)
- モーリス・フィッツトマス・フィッツモーリス (第2代ケリー男爵) (1303年没)
- ニコラス・フィッツモーリス (第3代ケリー男爵) (1324年没)
- モーリス・フィッツモーリス (第4代ケリー男爵) (1339年没)
- ジョン・フィッツモーリス (第5代ケリー男爵) (1348年没)
- モーリス・フィッツモーリス (第6代ケリー男爵) (1398年没)
- パトリック・フィッツモーリス (第7代ケリー男爵) (1410年ごろ没)
- トマス・フィッツモーリス (第8代ケリー男爵) (1469年没)
- エドマンド・フィッツモーリス (第9代ケリー男爵) (1498年没)
- エドマンド・フィッツモーリス (第10代ケリー男爵) (1543年没)
- エドマンド・フィッツモーリス (第11代ケリー男爵) (1541年没)
- 1537年、Viscount Kilmaule[訳語疑問点] に叙爵
Viscount Kilmaule (1537年)
- エドマンド・フィッツモーリス (初代キルモール子爵) (1541年没)
- 1541年、断絶。
ケリーおよびリックナウ男爵 (1223年ごろ、続き)
- パトリック・フィッツモーリス (第12代ケリー男爵) (1547年没)
- トマス・フィッツモーリス (第13代ケリー男爵) (1549年没)
- エドマンド・フィッツモーリス (第14代ケリー男爵) (1549年没)
- ジェラルド・フィッツモーリス (第15代ケリー男爵) (1550年没)
- トマス・フィッツモーリス (第16代ケリー男爵) (1502年ごろ - 1590年)
- パトリック・フィッツモーリス (第17代ケリー男爵) (1541年ごろ - 1600年)
- トマス・フィッツモーリス (第18代ケリー男爵) (1574年 - 1630年)
- パトリック・フィッツモーリス (第19代ケリー男爵) (1595年 - 1661年)
- ウィリアム・フィッツモーリス (第20代ケリー男爵) (1633年 - 1697年)
- トマス・フィッツモーリス (第21代ケリー男爵) (1668年 - 1741年)
- 1723年、ケリー伯爵に叙爵
ケリー伯爵 (1723年)
- トマス・フィッツモーリス (初代ケリー伯爵) (1668年 - 1741年)
- ウィリアム・フィッツモーリス (第2代ケリー伯爵) (1694年 - 1747年)
- フランシス・トマス=フィッツモーリス (第3代ケリー伯爵) (1740年 - 1818年)
- ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵・第4代ケリー伯爵) (1780年 - 1863年)
- 以降はランズダウン侯爵を参照。
脚注
- ^ a b c d e Cokayne, George Edward [in 英語], ed. (1887). "KERRY, and KERRY AND LIXNAW". Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom. Vol. 4. London: George Bell & Sons. pp. 361–366. 2015年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e Burke, Bernard, Sir [in 英語], ed. (1869). "LANSDOWNE.". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (31 ed.). London: Harrison. pp. 660–661. 2015年6月10日閲覧。
- ^ a b c d e Debrett, John, ed. (1840). "LANSDOWNE.". Debrett's Peerage of England, Scotland, and Ireland. revised, corrected and continued by G.W. Collen. London: William Pickering. pp. 432–433. 2015年6月10日閲覧。
- ^ "No. 6108". The London Gazette (英語). 30 October 1722. 2015年6月12日閲覧。