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「ベンジャミン・ギネス」の版間の差分

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1860年から1865年のまで間、ギネスは自身の出資で[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]の修復を行い、この事業には当時の金額で15万[[スターリング・ポンド|ポンド]]以上がかかった<ref>参考ではあるが、聖パトリック大聖堂の少し後に行われた[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]の修復には23万ポンドがかかっており、そちらでは2006年の[[ユーロ]]換算では2600万ユーロとなっている。</ref>。1865年には建物が首席司祭と聖堂参事会に返還され、2月24日には教会としての仕事が再開された。1865年12月31日、ダブリンの市民や聖パトリックの首席司祭と聖堂参事会は、ギネスが都市のために行ったことへの感謝を表すために謝辞を送った。その謝辞は2つであり、後に[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]で展示された。[[ジョン・ヘンリー・フォーリー]]{{enlink|John Henry Foley}}による像は1875年に大聖堂の南側に立てられた。
1860年から1865年のまで間、ギネスは自身の出資で[[聖パトリック大聖堂 (ダブリン)|聖パトリック大聖堂]]の修復を行い、この事業には当時の金額で15万[[スターリング・ポンド|ポンド]]以上がかかった<ref>参考ではあるが、聖パトリック大聖堂の少し後に行われた[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]の修復には23万ポンドがかかっており、そちらでは2006年の[[ユーロ]]換算では2600万ユーロとなっている。</ref>。1865年には建物が首席司祭と聖堂参事会に返還され、2月24日には教会としての仕事が再開された。1865年12月31日、ダブリンの市民や聖パトリックの首席司祭と聖堂参事会は、ギネスが都市のために行ったことへの感謝を表すために謝辞を送った。その謝辞は2つであり、後に[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]で展示された。[[ジョン・ヘンリー・フォーリー]]{{enlink|John Henry Foley}}による像は1875年に大聖堂の南側に立てられた。


その寛大さを認められて、ギネスは1867年に準男爵となった。彼は[[教会委員会]]{{enlink|Ecclesiastical Commissioners}}ダブリン代表の一人であり、シンプソン病院の理事であり、さらにダブリン博覧宮殿の副会長であった。彼は爵位を得た翌年に[[ロンドン]]、[[パークレーン (通り)|パークレーン]]の自宅で亡くなった。彼は死亡した時点で、聖パトリック大聖堂に隣接する[[マーシュ図書館|大主教マーシュ公立図書館]]の修復に携わっていたが、これは息子のアーサーによって完了している。ギネスは、1855年に買い込んだ[[ゴールウェイ]][[アッシュフォード城]]{{enlink|Ashford Castle}}を中心として、多くの個人資産を用いて入念に古い遺跡を存続させることによるアイルランド考古学に実際の関心があったと明かしている。
その寛大さを認められて、ギネスは1867年に準男爵となった。彼は[[教会委員会]]{{enlink|Ecclesiastical Commissioners}}ダブリン代表の一人であり、シンプソン病院の理事であり、さらにダブリン博覧宮殿の副会長であった。彼は爵位を得た翌年に[[ロンドン]]、[[パークレーン (通り)|パークレーン]]の自宅で亡くなった。彼は死亡した時点で、聖パトリック大聖堂に隣接する[[マーシュ図書館|大主教マーシュ公立図書館]]の修復に携わっていたが、これは息子のアーサーによって完了している。ギネスは、1855年に買い込んだ[[ゴールウェイ]][[アッシュフォード城]]{{enlink|Ashford Castle}}を中心として、多くの個人資産を用いて入念に古い遺跡を存続させることによるアイルランド考古学に実際の関心があったと明かしている。


== 家族 ==
== 家族 ==

2020年8月30日 (日) 23:20時点における版

ダブリンの聖パトリック大聖堂の土地にあるベンジャミン・ギネスの像

初代準男爵サー・ベンジャミン・リー・ギネス(Sir Benjamin Lee Guinness, 1st Baronet、1798年11月1日 - 1868年5月19日)は、アイルランドの醸造家であり慈善家であった人物。

醸造家

アーサー・ギネス (Arthur Guinness) の3番目の息子、そして父と同じ名前を持ちギネスの創業者であるアーサー・ギネス(1725年 - 1803年)の孫としてダブリンで生まれた。彼は若いころから父の仕事に加わり、1839年には一人で仕切るようになった。1855年に父が亡くなるまでにはギネスはアイルランドで最も裕福な人物となった。これは輸出が拡大し続けていたことと、彼が常に醸造所を大きくし続けていたことの賜物であった。

ダブリンの政治家

1851年、改革された市政府の元で、ギネスは最初のダブリン市長 (Lord Mayor of Dublinに選ばれ、また1863年にはダブリンのトリニティーカレッジより名誉法学博士 (LL.D.) 号を授与された。1867年4月15日には特許権により準男爵となり、加えて同年5月18日には王許によって準男爵となった。彼は家族の手に入る支援者たちの補助金を持っていた。

1865年にギネスはダブリン市の保守党の代議士として連合王国庶民院議員となり、死ぬまでこの議席を確保していた。なお、同時代の保守党のリーダーはダービー伯エドワード・スミス=スタンリーである。

慈善家

1860年から1865年のまで間、ギネスは自身の出資で聖パトリック大聖堂の修復を行い、この事業には当時の金額で15万ポンド以上がかかった[1]。1865年には建物が首席司祭と聖堂参事会に返還され、2月24日には教会としての仕事が再開された。1865年12月31日、ダブリンの市民や聖パトリックの首席司祭と聖堂参事会は、ギネスが都市のために行ったことへの感謝を表すために謝辞を送った。その謝辞は2つであり、後にパリ万国博覧会で展示された。ジョン・ヘンリー・フォーリー (John Henry Foleyによる像は1875年に大聖堂の南側に立てられた。

その寛大さを認められて、ギネスは1867年に準男爵となった。彼は教会委員会 (Ecclesiastical Commissionersダブリン代表の一人であり、シンプソン病院の理事であり、さらにダブリン博覧宮殿の副会長であった。彼は爵位を得た翌年にロンドンパークレーンの自宅で亡くなった。彼は死亡した時点で、聖パトリック大聖堂に隣接する大主教マーシュ公立図書館の修復に携わっていたが、これは息子のアーサーによって完了している。ギネスは、1855年に買い込んだゴールウェイ県アッシュフォード城 (Ashford Castleを中心として、多くの個人資産を用いて入念に古い遺跡を存続させることによるアイルランド考古学に実際の関心があったと明かしている。

家族

ギネスは1837年2月24日に従姉妹であるエリザベス・ギネスと結婚した。エリザベスはダブリンのエドワード・ギネスの3番目の娘で、彼女との間に以下の3男1女を儲けた[2]

一家はダブリン州北部のボーモントハウスに住んでいた。1855年にはアッシュフォード城を、1856年には現在ではアイヴァー・ハウス (Iveagh Houseと呼ばれるセント・スティーヴンス・グリーン (St Stephen's Green80番地の家を購入し、ともに再建した。1860年代にアッシュフォード城はウィリアム・ワイルド (William Wildeコリブ湖に関する本で描写されている[3]

ギネスの事業は長男アーサーと三男エドワードが共同で継承したが、父の選挙区から庶民院議員となったアーサーは政治に専念したがっていたため、1876年にエドワードがアーサーの権利を買い取り、以降はエドワードの単独事業となった[4]。次男ベンジャミン(1842年 - 1900年)はイングランドに移り住み、近衛騎兵連隊 (Royal Horse Guardsの一員として働いた。娘のアン(1839年 - 1889年)は1863年に第4代プランケット男爵ウィリアム・プランケット英語版と結婚した。

ギネスはジェローム山共同墓地 (Mount Jerome Cemeteryの一族の墓に5月27日に埋葬された。1868年8月8日に、彼の動産は110万ポンド以下であると断定された。フォーリーによる彼のブロンズ像は1875年9月に大聖堂の南側に立てられ、2006年に修復された。

  1. ^ 参考ではあるが、聖パトリック大聖堂の少し後に行われたクライストチャーチ大聖堂の修復には23万ポンドがかかっており、そちらでは2006年のユーロ換算では2600万ユーロとなっている。
  2. ^ Lundy, Darryl. “Sir Benjamin Lee Guinness, 1st Bt.” (英語). thepeerage.com. 2016年9月11日閲覧。
  3. ^ Wilde on Ashford
  4. ^ マンスフィールド 2012, p. 150-151.

参考文献

  • マンスフィールド, スティーヴン『ギネスの哲学 地域を愛し、世界から愛される企業の250年』英治出版、2012年(平成24年)。ISBN 978-4862761149 
  •  この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
エドワード・グローガン初代準男爵
ジョン・ヴァンスen
ダブリン選出の連合王国下院議員
ジョナサン・ピムとともに

1865年 - 1868年
次代
ジョナサン・ピム
アーサー・ギネス
イギリスの準男爵
先代
新規
(アッシュフォードの)
初代準男爵

1867年-1868年
次代
アーサー・ギネス