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「パルミラ帝国」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
{{出典の明記|date=2020年6月}}
|略名 = パルミラ帝国

|日本語国名 = パルミラ帝国
{{基礎情報 過去の国
|公式国名 = {{native name|la|Imperium Palmyrenum}}
|略名 =パルミラ
|建国時期 = [[270年]]
|日本語国名 =パルミラ帝国
|亡国時期 = [[273年]]
|公式国名 ={{Lang|la|{{Smallcaps|Imperium Palmyrenum}}}}
|先代1 = ローマ帝国
|建国時期 =260年
|先旗1 = Vexilloid of the Roman Empire.svg
|亡国時期 =273年
|先旗1縁 = no
|先代1 =ローマ帝国
|次代1 = ローマ帝国
|先旗1 =Vexilloid of the Roman Empire.svg
|次1 =ローマ帝国
|次1 = Vexilloid of the Roman Empire.svg
|次旗1 =Vexilloid of the Roman Empire.svg
|次旗1 = no
|位置画像 =Map of Ancient Rome 271 AD la.svg
|位置画像 = Palmyrene Empire.png
|位置画像説明 =[[271年]]頃ローマ世界(パルミラ帝国は黄色部分)
|位置画像説明 = 271年のパルミラ帝国の最大版図
|元首等肩書 = [[諸王の王]]/[[アウグストゥス (称号)|皇帝]]
|公用語 =[[ラテン語]]
|元首等年代始1 = 267/271年
|首都 =[[パルミラ]]
|元首等年代終1 = 272年
|元首等肩書 =東方地区司令官/[[アウグストゥス (称号)|君主]]
|元首等年代始1 =260
|元首等氏名1 = [[ウァバッラトゥス]]
|元首等年代終1 =267
|元首等氏名2 = [[ゼノビア]]
|元首等年代始2 = 271年
|元首等氏名1 =[[セプティミウス・オダエナトゥス]]
|元首等年代2 =267
|元首等年代2 = 272年
|元首等氏名3 = {{仮リンク|セプティミウス・アンティオクス|en|Septimius Antiochus|label=アンティオクス}}
|元首等年代終2 =273
|元首等氏名2 =[[ウァバッラトゥス]]
|元首等年代始3 = 273年
|元首等年代終3 = 273年
|変遷1 =セプティミウス・オダエナトゥスがパルミラを中心に勢力を構築。
|宗教 =
|変遷年月日1 =[[260年]]
|公用語 = {{Plainlist}}
|変遷2 =[[ローマ帝国]]に征服され再統合
* [[パルミラ・アラム語]]<ref name="trevo586s">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA280#v=onepage&q&f=false|title= Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author= Trevor Bryce|page= 280|year= 2014}}</ref>
|変遷年月日2 =[[273年]]
* [[古代ギリシア語]]<ref name="trevo586s" />
{{Endplainlist}}
|首都 = [[パルミラ]]
|変遷1 = 成立
|変遷年月日1 = 270年
|変遷2 = 解体
|変遷年月日2 = 273年
}}
}}
'''パルミラ帝国'''({{lang-la|Imperium Palmyrenum}}、[[260年]]? - [[273年]])は、[[ローマ帝国]]の軍人皇帝時代(「[[3世紀の危機]]」)に、通商都市[[パルミラ]]を首都とし、[[シリア属州]]、[[アラビア・ペトラエア]]、[[アエギュプトゥス]](エジプト)などを支配し、ローマ帝国から事実上分離・独立していた国家の通称である。日本ではパルミュラ帝国とも呼ばれるほか、'''パルミラ王国'''あるいはパルミュラ王国とする表記も存在する。


'''パルミラ帝国''' ([[ラテン語]]: Imperium Palmyrenum)は、[[3世紀の危機]]の時代の[[ローマ帝国]]から一時期分離独立した[[帝国]]である。
== 歴史 ==
[[235年]]にローマ皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]が暗殺されて以降、ローマ帝国では短命の皇帝が相次いだ([[軍人皇帝時代]])。そのような状況において、東方の[[サーサーン朝]]ペルシア([[226年]]に[[パルティア]]を滅ぼして成立)からの攻撃に対して、[[259年]]に皇帝[[ウァレリアヌス]]が虜囚となったことに示されるように、余力を失った状態にあった。


国名は首都にして最大都市の[[パルミラ]]に由来しており、最大領域は[[シリア属州]]、[[パレスティナ属州]]、[[アラビア・ペトラエア|アラビア・ペトラエア属州]]、[[アエギュプトゥス]]、[[小アジア]]の大部分にまで及んだ。
その中で、パルミラ市生まれの[[セプティミウス・オダエナトゥス]]は自前の軍隊を率いてペルシアからの攻撃への防御に当たっていた。そのため、時のローマ皇帝[[ガッリエヌス]]はオダエナトゥスを東方地区属州全域の司令官に任命した。オダエナトゥスもガッリエヌスに対抗して皇帝を僭称した[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス]]を打倒するなどその期待に応えたが、オダエナトゥスは[[267年]]に宴席で一族の者によって刺殺された。


==概要==
オダエナトゥスの暗殺後、妻[[ゼノビア]]が一連の事態を収拾。ゼノビアは自らの幼少の息子[[ウァバッラトゥス]]を後継の地位に据え、自身はその後見人となり実権を手中に収めた。ローマ帝国では既に西方で[[ガリア帝国]]が分離するなど混乱しており、その間隙を縫う形でゼノビアはパルミラを根拠地として、ローマの東方属州である[[シリア属州|シリア]]、[[ユダヤ属州|パレスティナ]]、[[アラビア・ペトラエア]]、[[アエギュプトゥス]]へ侵攻してこれらの地方を支配、ウァバラトゥスに[[ローマ皇帝|皇帝]]([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])号を称させるに至った。
名目上の支配者は[[ウァバッラトゥス]]だったが、267年に地位を継承した時点ではわずか10歳であり、実質的な支配者はその母の摂政(女王)[[ゼノビア]]だった。


270年、ゼノビアはすみやかにローマ帝国の東方地域を征服し、ローマと対等な関係を維持しようとした。271年には自分と息子で[[アウグストゥス (称号)|皇帝]]号を名乗ったが、ローマ皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]の侵攻を受けた。敗北を重ねた母子は捕らえられて帝国は瓦解した。パルミラ人は翌年にも反乱を起こしたがアウレリアヌスに鎮圧され、パルミラの街は破壊された。
[[270年]]にローマ皇帝となった[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス]]は、[[アラマンニ族]]や[[ゴート族]]を破って北方のゲルマニア人の侵入を食い止めた後、[[271年]]夏にパルミラ奪還のため自ら軍を率いて小アジアへ親征した。ローマ軍は[[ビザンティオン]]などを陥落させ、パルミラ軍との2度の戦いにいずれも勝利した(この際にウァバッラトゥスは戦死)。ゼノビアはパルミラ市へ敗走、ローマ軍はこれを包囲。籠城戦が長引く中、ゼノビアはパルミラ市を脱してペルシアへ逃走を図ったもののローマ軍に捕らえられ、[[273年]]を以てパルミラ帝国は瓦解した。


その存在自体は短期間に終わったものの、パルミラ帝国を築き上げたゼノビアは古代後期において最も野心的で有能な女性の一人に数えられている。また彼女は近現代のシリアにおいて英雄視され、[[大シリア主義|シリアのナショナリズム]]の象徴とされている。
ゼノビアはローマへ護送されるが、エジプトやパルミラ住民がローマ軍撤退後に意を翻して反乱を起こしたため、ローマ軍はパルミラへ戻りこれを鎮圧。アウレリアヌスはパルミラへの略奪を許可した(なお、アウレリアヌスはパルミラ遠征ではどの都市にもそれまで一切の蛮行を許していなかった)。この後、パルミラに繁栄が戻ることはなかった。


ウァバッラトゥスの父[[セプティミウス・オダエナトゥス]]による260年代以降の東方属州支配期からパルミラ陥落までの時期を'''パルミラ王国'''と呼称することもある。本項ではこの時期についても述べる。
なお、ガリア帝国はパルミラ帝国が征服された翌年([[274年]])に降伏した。ゼノビアはアウレリアヌスの[[凱旋式]]に参列させられた。


== 背景 ==
{{ローマ帝国}}
{{Main|3世紀の危機}}235年、皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]が暗殺され<ref>{{Cite book|url=https://archive.org/details/laterromanempire0000came|title=The Later Roman Empire, AD 284-430|publisher=Harvard University Press|last=Averil Cameron|page=[https://archive.org/details/laterromanempire0000came/page/3 3]|year=1993}}</ref>、ローマ帝国は将軍たちが次から次へと帝位を奪い合う時代に突入した<ref>{{Cite book|url=https://archive.org/details/laterromanempire0000came|title=The Later Roman Empire, AD 284-430|publisher=Harvard University Press|last=Averil Cameron|page=[https://archive.org/details/laterromanempire0000came/page/4 4]|year=1993}}</ref>。注意が及ばなくなった帝国の辺境地域は、[[カルピ人]]や[[ゴート人]]、[[アレマン人]]などの襲撃に頻繁にさらされるようになり<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=oPuSAgAAQBAJ&pg=PA196#v=onepage&q&f=false|title=Imperial Roman Army|last=[[Yann Le Bohec]]|page=196|year=2013}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://archive.org/details/mythofnationsmed0000gear|title=The Myth of Nations: The Medieval Origins of Europe|publisher=Princeton University Press|last=Patrick J. Geary|page=[https://archive.org/details/mythofnationsmed0000gear/page/81 81]|year=2003}}</ref>、東方では[[サーサーン朝]]も攻勢を強めていた<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=SDxrLQymWWwC&pg=PA12#v=onepage&q&f=false|title=The Walls of Rome|last=Nic Fields|page=12|year=2008}}</ref>。260年、ローマ帝国はエデッサの戦いでサーサーン朝の[[シャープール1世]]に壊滅的敗北を喫し<ref name="satno">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA177#v=onepage&q&f=false|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|last=Andrew M. Smith II|page=177|year=2013}}</ref>、皇帝[[ウァレリアヌス]]が捕虜にされる事態となった。彼の息子で共同皇帝だった[[ガッリエヌス]]が単独皇帝となったが、シリアでは[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス|クィエトゥス]]と[[ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・マクリアヌス|マクリアヌス]]が反乱を起こし、皇帝の権力が及ばなくなった<ref name="vaji">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=WzOGycVVQLEC&pg=PA398#v=onepage&q&f=false|title=Coinage and History of the Roman Empire, C. 82 B.C.--A.D. 480: History|last=David L. Vagi|page=398|year=2000}}</ref>。


== オダエナトゥスの自立 ==
{{DEFAULTSORT:はるみらていこく}}
パルミラの指導者だった[[セプティミウス・オダエナトゥス]]は「王」を名乗り<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=MG2hqcRDvJgC&pg=PA159#v=onepage&q&f=false|title=Rome and Persia in Late Antiquity: Neighbours and Rivals|author1=Beate Dignas|author2=Engelbert Winter|page=159|year=2007}}</ref>、名目上はガッリエヌスに忠誠を誓いつつも、独自にパルミラ人やシリアの農民を集めて軍をつくり、シャープール1世に攻撃を仕掛けた<ref name="satno" />。オダエナトゥスの軍勢にローマ軍の部隊が参加していたという証拠はない。ローマ帝国の兵がオダエナトゥスの下で戦ったのか否かについても、推測するしか手立てはない<ref name="suz6d5">{{cite book|author=Pat Southern|title=Empress Zenobia: Palmyra's Rebel Queen|url=https://books.google.nl/books?id=wnTOBAAAQBAJ&pg=PA60|date=17 November 2008|publisher=Bloomsbury Publishing|isbn=978-1-4411-7351-5|page=60}}</ref>。260年、オダエナトゥスは[[ユーフラテス川]]近くでシャープール1世に決定的勝利をおさめた<ref name="vaji" />。続いてオダエナトゥスは261年にシリアの帝位僭称者たちを破り<ref name="vaji" />、その後の治世をペルシアとの戦争に費やした<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=K6eFJ_vcqSwC&pg=PA501#v=onepage&q&f=false|title=The Decline and Fall of the Roman Empire|author=Edward Gibbon|page=501|year=2004}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=bpd3tBPN4v8C&pg=PA237#v=onepage&q&f=false|title=Imperial Rome AD 193 to 284: The Critical Century|author=Clifford Ando|page=237|year=2012}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=7-jUAMmMS5cC&pg=PA3#v=onepage&q&f=false|title=The Policy of the Emperor Gallienus|author=Lukas De Blois|page=3|year=1976}}</ref>。彼はローマ帝国から「東方の総督」 という地位を与えられ<ref name="vaji" />、皇帝の代理としてシリアを支配し<ref name="satnso">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=y6IaBQAAQBAJ&pg=PA333#v=onepage&q&f=false|title=Syrian Identity in the Greco-Roman World|author=Nathanael J. Andrade|page=333|year=2013}}</ref>、「[[諸王の王]]」を名乗った<ref name="vajisczvd9">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=9y7nTpFcN3AC&pg=PA354#v=onepage&q&f=false|title=The Middle East Under Rome|author=[[Maurice Sartre]]|page=354|year=2005}}</ref>。この称号が使われたことを示す決定的な証拠としては、オダエナトゥスの死後の271年に製作された碑文がある<ref name="satno" /><ref name="vajisczvd">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=8kLFfE1qPhIC&pg=PA78#v=onepage&q&f=false|title=Palmyra and Its Empire: Zenobia's Revolt Against Rome|author=Richard Stoneman|page=78|year=1994}}</ref>。またオダエナトゥスの息子[[セプティミウス・へロディアヌス]](267年没)は、生前から「諸王の王」と呼ばれていたことが分かっている。彼は父から共同統治者に任命された人物であり、息子が「諸王の王」であるのにオダエナトゥスが単なる王であったとは考え難い<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=ecfiAAAAQBAJ&pg=PA72#v=onepage&q&f=false|title=Empress Zenobia: Palmyra's Rebel Queen|author=Pat Southern|page=72|year=2008}}</ref>。オダエナトゥスとへロディアヌスの父子は267年に同時に暗殺され<ref name="vaji" />。『ローマ皇帝群像』によれば、暗殺者はオダエナトゥスの従兄弟[[マエオニウス]]であった。なお東ローマ帝国の歴史家[[ヨハネス・ゾナラス]]は、暗殺者はオダエナトゥスの甥であったとしている<ref name="maoniasa">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=DqMrR29Cc7MC&pg=PA78#v=onepage&q&f=false|title=Empress Zenobia: Palmyra s Rebel Queen|author=Pat Southern|page=78|year=2008}}</ref>。『[[ローマ皇帝群像]]』によれば、マエオニウスはごく短期間の間ローマ皇帝位を僭称したものの、兵により処刑された<ref name="maoniasa" /><ref name="maoni">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=q8Z7AgAAQBAJ&pg=PA292#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author=Trevor Bryce|page=292|year=2014}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=8kLFfE1qPhIC&pg=PA108#v=onepage&q&f=false|title=Palmyra and Its Empire: Zenobia's Revolt Against Rome|author=Richard Stoneman|page=108|year=1994}}</ref>。ただ他の碑文などの文献にはマエオニウスが皇帝を名乗った記録が無く、実際には彼はオダエナトゥス暗殺時に直ちに殺されたと思われる<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=dlEMAQAAMAAJ&pg=PA321#v=onepage&q&f=false|title=History of the decline and fall of the Roman empire for the use of families and young persons: reprinted from the original text, with the careful omission of all passagers of an irreligious tendency, Volume 1|author1=Edward Gibbon|author2=Thomas Bowdler|page=321|year=1826}}</ref><ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/ageofsoldierem00brau|url-access=registration|title=The Age of the Soldier Emperors: Imperial Rome, A.D. 244-284|publisher=Noyes Press|author=George C. Brauer|page=[https://archive.org/details/ageofsoldierem00brau/page/163 163]|year=1975}}</ref>。

オダエナトゥスの跡を継いだのは、後妻ゼノビアとの間の息子で10歳の[[ウァバッラトゥス]]だった<ref name="zenok">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA299#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=299|year=2014}}</ref>。ゼノビアの摂政体制下で<ref name="zenok7">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=8kLFfE1qPhIC&pg=PA114#v=onepage&q&f=false|title=Palmyra and Its Empire: Zenobia's Revolt Against Rome|last=Richard Stoneman|page=114|year=1994}}</ref>、ウァバッラトゥスは影の中に留められ、実際の権力はゼノビアが握っていた。彼女はローマを怒らせないよう慎重に調整しながら、オダエナトゥスやへロディアヌスの称号を自身とウァバッラトゥスも名乗ることにした。またサーサーン朝との国境の平和維持にも心を砕きつつ、[[ハウラン平原]]に勢力を持つ危険な[[アラブ人]][[タヌーフ族]]の平定にも力を注いだ。

== 帝国の成立 ==
[[ファイル:AURELIANUS_RIC_V_381-795833.jpg|サムネイル|199x199ピクセル|右:[[アントニニアヌス|アントニニアヌス貨]]の表側に描かれた[[ウァバッラトゥス]] 左: 裏側に皇帝として描かれた[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]]]
[[クラウディウス・ゴティクス]]帝治下の270年春、ゼノビアはタヌーフ族平定に向けた遠征軍を派遣した<ref name="zenoksa">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=41-MAgAAQBAJ&pg=PA302#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=302|year=2004}}</ref>。これを率いるのは彼女の将軍セプティミウス・ザッバイと[[ザブダス|セプティムス・ザブダス]]であった<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA48#v=onepage&q&f=false|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|last=Andrew M. Smith II|year=2013|page=48}}</ref>。

ザブダスは[[アラビア属州]]の首都[[ボスラ|ボストラ]]を略奪破壊し、ローマ帝国の[[属州総督|総督]]を殺害し、さらに南進して属州支配を確固たるものとした<ref name="zenoksa">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=41-MAgAAQBAJ&pg=PA302#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=302|year=2004}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA61#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|first=Alaric|last=Watson|page=61|ref=harv|publisher=Routledge|date=2004|isbn=9781134908158}}</ref>。中世ペルシアの地理学者[[イブン・フルダーズベ]]は、ゼノビアが自ら[[ドゥーマト・アッ=ジャンダル]]の城を攻撃したものの攻め落とせなかった、としている<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=_BxuAAAAMAAJ&q|title=Dirasah li-āthār Mintaqat al-Jawf|last=Khaleel Ibrahim Muaikel|page=43|year=1994}}</ref>。ただしフルダーズベは、ゼノビアを半伝説的なアラブ人の女王[[アル=ザッバー]]と混同している節がある<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=IA-YlZqHv90C&pg=PA433#v=onepage&q&f=false|title=The Roman Near East, 31 B.C.-A.D. 337|last=Fergus Millar|page=433|year=1993}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=A7joBeDsajcC&pg=PA148#v=onepage&q&f=false|title=Histories of the Middle East: Studies in Middle Eastern Society, Economy and Law in Honor of A.L. Udovitch|last=Roxani Eleni Margariti|last2=Adam Sabra|last3=Petra Sijpesteijn|page=148|year=2010}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=1iGpAwAAQBAJ&pg=PA28#v=onepage&q&f=false|title=The Politics and Culture of an Umayyad Tribe: Conflict and Factionalism in the Early Islamic Period|last=Mohammad Rihan|page=28|year=2014}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA296#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=296|year=2014}}</ref>。

270年10月<ref name="zenok5saa">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA62#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=62|year=2014}}</ref>、7万人のパルミラ軍が[[アエギュプトゥス|ローマ領エジプト]]に侵攻して征服し<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=ecfiAAAAQBAJ&pg=PA133#v=onepage&q&f=false|title=Empress Zenobia: Palmyra's Rebel Queen|last=Pat Southern|page=133|year=2008}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=41-MAgAAQBAJ&pg=PA303#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=303|year=2014}}</ref>、ゼノビアはエジプト女王を名乗った<ref name="zenok3">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA304#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=304|year=2014}}</ref>。ローマ帝国の長官テナギノ・プロブスは11月に一旦[[アレクサンドリア]]を奪回したものの、再侵攻してきたパルミラ軍に敗れて[[バビロン (エジプト)|バビロン]]に逃れ、またそこで包囲されザブダスに攻め殺された。ザブダスはさらに南進して、エジプト全土を支配下に収めた<ref name="zenok5sadsa">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA63#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=63|year=2014}}</ref>([[パルミラのエジプト征服]])。その後271年、ザッバイが[[アナトリア半島|小アジア]]に侵攻した。同年春からはザブダスもこの遠征に合流した<ref name="zenok5saaa5">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA64#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=64|year=2014}}</ref>。パルミラ軍は[[ガラティア]]を服属させ、[[アンカラ]]を征服し、パルミラの最大版図を現出した<ref name="waro">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=qQKIAgAAQBAJ&pg=PA80#v=onepage&q&f=false|title=Rome in the East: The Transformation of an Empire|last=Warwick Ball|page=80|year=2002}}</ref>。しかし彼らは[[カルケドン]]の攻略には失敗した。

パルミラの征服事業は、あくまでもローマ帝国への従属の意思を見せることで許されていた<ref name="zenok5">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA179#v=onepage&q&f=false|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|author=Andrew M. Smith II|page=179|year=2013}}</ref>。ゼノビアは硬貨を鋳造する際に、王としてウァバッラトゥスを描かせるとともにクラウディウス・ゴティクス{{efn2|クラウディウス・ゴティクスは、ゼノビアがエジプト遠征をおこなう直前の270年8月に病死していた<ref name="zenok5saa" />。}}の後継者[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]の名前を並べており、アウレリアヌスもパルミラの硬貨鋳造と王号の使用を容認していた<ref name="zenok556">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=WzOGycVVQLEC&pg=PA365&lpg=PA365#v=onepage&q&f=false|title=Coinage and History of the Roman Empire, C. 82 B.C.--A.D. 480: History|author=David L. Vagi|page=365|year=2000}}</ref>。ところが271年の末、ウァバッラトゥスとゼノビアは[[皇帝]]([[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]])の称号をも名乗り始めた<ref name="zenok5" />。

== ローマ帝国による再征服 ==
[[ファイル:Antoninian_Vaballathus_Augustus_(obverse).jpg|左|サムネイル|アントニニアヌス貨の表側に皇帝(アウグストゥス)として描かれたウァバッラトゥス]]
[[ファイル:ZENOBIA_-_RIC_V_2_-_80000750.jpg|サムネイル|アントニニアヌス貨の表に女帝(アウグスタ)として描かれたゼノビア]]
272年、アウレリアヌスは[[ボスポラス海峡]]を渡って急速に[[小アジア]]を進軍していった<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA307#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author=Trevor Bryce|page=307|year=2014}}</ref>。また[[プロブス|マルクス・アウレリウス・プロブス]]率いる別動隊がエジプトを再征服した<ref name="zenok29" />が、ゼノビアはシリアを防衛するためにパルミラ軍を撤退させていたため、軍事行動は必ずしも必要ではなかったと指摘されている<ref name="zenok29">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA308#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author=Trevor Bryce|page=308|year=2014}}</ref>。アウレリアヌスはまず[[ティアナ (古代都市)|ティアナ]]まで進んだ<ref name="vafd">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA71#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=71|year=2004}}</ref>。ここまでアウレリアヌスは抵抗した都市をすべて破壊していたが、この[[ティアナ包囲戦 (272年)|ティアナ包囲戦]]の際、夢に彼が尊敬する大哲学者[[ティアナのアポロニオス]]が現れたため、ティアナの破壊は思いとどまったという伝説がある<ref name="vafd2">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA72#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=72|year=2004}}</ref>。アポロニオスは「アウレリアヌスよ、もしそなたが統治を望むなら、無辜の者の血を流すのは控えよ。もしそなたが征服者たらんとするなら、慈悲深くあれ!」と諭したのだという<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=8kLFfE1qPhIC&pg=PA167#v=onepage&q&f=false|title=Palmyra and Its Empire: Zenobia's Revolt Against Rome|author=Richard Stoneman|page=167|year=1994}}</ref>。理由が何であれ、ともかくもアウレリアヌスはティアナを救い、賠償金で済ませた。復讐を恐れていた諸都市は、これを見て次々とアウレリアヌスに降伏していった<ref name="vafd2" />。

アウレリアヌスはイッソスからアンティオキアに向かう途中の[[インマエの戦い]]でゼノビアの軍を破った<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA309#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author=Trevor Bryce|page=309|year=2014}}</ref>。ゼノビアはまず[[アンティオキア]]へ撤退し、次いで[[ホムス|エメサ]]に逃れた。アウレリアヌスは後を追って、アンティオキアを占領した<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA74#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=74|year=2004}}</ref>。ローマ軍はここで再編を行い、ダフィネに駐屯していたパルミラ軍の守備隊を撃破し{{efn2|ダフィネはアンティオキアの南方6マイルの地に存在した庭園<ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/syriaholylandasi02carn|title=Syria, the Holy Land, Asia Minor, &c. illustrated: In a series of views drawn from nature|publisher=Fisher, Son, & Co.; London, Paris, & America.|author1=John Carne |author2=William Purser |page= [https://archive.org/details/syriaholylandasi02carn/page/31 31]|year= 1836}}</ref>。}}<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=ecfiAAAAQBAJ&pg=PA138|title=Empress Zenobia: Palmyra's Rebel Queen|author=Pat Southern|page=138|year=2008}}</ref>、さらに南進して[[アパメア]]に向かい<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA75#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=75|year=2004}}</ref>、さらにエメサへ進んでゼノビア軍を再び[[エメサの戦い]]で破った。ついにゼノビアは首都パルミラに追い詰められた<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA310#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|author=Trevor Bryce|page=310|year=2014}}</ref>。アウレリアヌスは砂漠を進む過程でゼノビアに忠誠を誓う[[ベドウィン]]の襲撃に悩まされながらもパルミラにたどり着いた。市門の前まで達したアウレリアヌスは直ちにベドウィンと交渉し、ゼノビアを裏切らせるとともに水と食料を手に入れた<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA76#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=76|year=2004}}</ref>。パルミラの包囲は272年夏に始まり<ref name="books.google.nl">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=MNSyT_PuYVMC&pg=PA52#v=onepage&q&f=false|title=The Cambridge Ancient History: Volume 12, The Crisis of Empire, AD 193-337|author1=Alan Bowman|author2=Peter Garnsey|author3=Averil Cameron|page=52|year=2005}}</ref>、アウレリアヌスはゼノビアに自ら直接降伏してくるよう求めたが、拒絶された<ref name="waro" />。ローマ軍は数度にわたり市内に突入しようとしたが、そのたびに撃退された<ref>{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=8kLFfE1qPhIC&pg=PA175#v=onepage&q&f=false|title=Palmyra and Its Empire: Zenobia's Revolt Against Rome|author=Richard Stoneman|page=175|year=1994}}</ref>。とはいえ状況はパルミラ側にとって悪くなるばかりであったので、ゼノビアはパルミラを脱出して東方に向かい、ペルシア人の支援を取り付けようとした<ref name="vafd2ss">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA77#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|author=Alaric Watson|page=77|year=2004}}</ref>。しかしローマ軍がこれを追撃して、ユーフラテス川近くでゼノビアの身柄を確保し、皇帝の下へ連行した。まもなくパルミラ市民は和平を請い<ref name="vafd2ss" />、街は降伏した<ref name="books.google.nl" /><ref name="waro45">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=qQKIAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Rome in the East: The Transformation of an Empire|author= Warwick Ball|page= 81|year= 2002}}</ref>。
[[ファイル:AurelianusPalmyra272.png|サムネイル|アウレリアヌスとゼノビアの戦争の推移]]

=== 反乱の再発とパルミラの破壊 ===
[[ファイル:Antoninianus-Aurelianus-Palmyra-s3262.jpg|サムネイル|アントニニアヌス貨に描かれた、[[ヘーリオス|ソル]]に扮してパルミラ帝国を打ち倒すアウレリアヌス。ORIENS AVG(日の上る皇帝)という賛辞が刻まれている。]]
アウレリアヌスは、パルミラの街自体は残し、サンダリオンという者が率いる600人の弓兵を治安部隊として駐留させた<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=Xno9AgAAQBAJ&pg=PA313#v=onepage&q&f=false|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|last=Trevor Bryce|page=313|year=2014}}</ref>。防衛設備は破壊され、ほとんどの軍装備は没収された<ref name="asaf">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA78#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=78|year=2014}}</ref>。ゼノビアとその重臣たちはエメサに連行され、裁判にかけられた。ほとんどの高官は処刑された<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=2no_XSYREXIC&pg=RA1-PA242#v=onepage&q&f=false|title=Zenobia, Or, The Fall of Palmyra: A Historical Romance in Letters from L. Manlius Piso from Palmyra, to His Friend Marcus Curtius at Rome|last=William Ware|page=242|year=1846}}</ref>が、ゼノビアとウァバッラトゥスのその後は不明である<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=73-JAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Rome in the East: The Transformation of an Empire|last=Warwick Ball|page=81|year=2002}}</ref>。

273年、パルミラで市民セプティミウス・アプサイオスが率いる反乱が起き<ref name="waro56">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA180#v=onepage&q&f=false|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|last=Andrew M. Smith II|page=180|year=2013}}</ref>、[[メソポタミア属州|メソポタミア]]総督[[マルケリヌス (275年の執政官)|マルケリヌス]]に帝位簒奪をそそのかした。しかしマルケリヌスは、交渉を長引かせながらローマの皇帝に事の次第を通報した。しびれを切らした反乱軍は、ゼノビアの親族[[セプティミウス・アンティオクス]]を皇帝に擁立した<ref name="destao54">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA181#v=onepage&q&f=false|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|last=Andrew M. Smith II|page=181|year=2013}}</ref>。アウレリアヌスは再びパルミラに侵攻し、元老院格のセプティミウス・ハッドゥダンを中心とする市内の支持者の協力も得てパルミラを制圧した<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=YJPn3-rRjC0C&pg=PA60#v=onepage&q&f=false|title=Roman Syria and the Near East|first=Kevin|last=Butcher|page=60|year=2003|publisher=Getty Publications|isbn=9780892367153}}</ref><ref name="ddsestao54">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=81|year=2004}}</ref>。

アウレリアヌスはアンティオクスを助命した<ref name="ddsestao54">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=kJ2JAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Aurelian and the Third Century|last=Alaric Watson|page=81|year=2004}}</ref>が、パルミラの街は徹底的に破壊された<ref name="camb66">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=MNSyT_PuYVMC&pg=PA515#v=onepage&q&f=false|title=The Cambridge Ancient History: Volume 12, The Crisis of Empire, AD 193-337|last=Alan Bowman|last2=Peter Garnsey|last3=Averil Cameron|page=515|year=2005}}</ref>。価値あるモニュメントは皇帝の[[ソル・インヴィクトス|ソル神殿]]の装飾のために持ち去られ<ref name="waro45">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=qQKIAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Rome in the East: The Transformation of an Empire|author= Warwick Ball|page= 81|year= 2002}}</ref>、建物は打ち壊され、住民は棍棒で打たれ、パルミラで最も神聖な[[ベル神殿]]は略奪された<ref name="waro45">{{cite book|url=https://books.google.nl/books?id=qQKIAgAAQBAJ&pg=PA81#v=onepage&q&f=false|title=Rome in the East: The Transformation of an Empire|author= Warwick Ball|page= 81|year= 2002}}</ref>。

== 評価 ==
ゼノビアらがローマ帝国に反抗した根本的な原因については、論争が交わされている。パルミラの台頭とゼノビアの反乱について語るとき、多くの場合歴史家たちは文化的、民族的、社会的な側面から解釈しようとしている{{Sfn|Nakamura|1993|p=[http://grbs.library.duke.edu/article/view/3431 133]}}。[[アンドレアス・アルフェルディ]]は、この反乱は完全なるローマに対する民族的反抗であるとしている{{Sfn|Nakamura|1993|p=[http://grbs.library.duke.edu/article/view/3431 133]}}。[[イルファン・シャヒード]]は、ゼノビアの反乱が[[正統カリフ|正統カリフ時代]]のアラブ人の勢力拡大に先んじた[[汎アラブ主義|汎アラブ運動]]であったと考えている{{Sfn|Nakamura|1993|p=[http://grbs.library.duke.edu/article/view/3431 133]}}。この意見は[[フランツ・アルトハイム]]によって紹介され{{Sfn|Nakamura|1993|p=[http://grbs.library.duke.edu/article/view/3431 133]}}、[[フィリップ・ヒッティ]]をはじめアラブ人・シリア人学者の間でほぼ共通した見解となっている{{Sfn|Hitti|2002|p=[https://books.google.nl/books?id=CusnBQAAQBAJ&pg=PT73 73]}}{{Sfn|Zahrān|2003|p=[https://books.google.nl/books?id=1CRmAAAAMAAJ&q 36]}}。一方で[[マーク・ホウィットウ]]は、このような民族を基にした解釈を否定し、当時のローマが弱体化し、パルミラをペルシアから防衛することができなくなっていたことに対する反応であった点を強調している{{Sfn|Whittow|2010|p=[https://books.google.nl/books?id=GSmrBAAAQBAJ&pg=PT154 154]}}。ウォーウィック・ボールは、この反乱がパルミラの独立にとどまらずローマ帝位を狙ったものだったとみている{{Sfn|Ball|2002|p=[https://books.google.nl/books?id=73-JAgAAQBAJ&pg=PA82 82]}}。ウァバッラトゥスの碑文には、ローマ皇帝のような様式がみられる。ボールは、ゼノビアとウァバッラトゥスはローマ帝位簒奪者であり、かつてシリアで力を蓄え帝位を獲得した[[ウェスパシアヌス]]と似たような計画を抱いていた、としている{{Sfn|Ball|2002|p=[https://books.google.nl/books?id=73-JAgAAQBAJ&pg=PA82 82]}}{{Sfn|Whittow|2010|p=[https://books.google.nl/books?id=GSmrBAAAQBAJ&pg=PT154 154]}}。[[アンドリュー・M・スミス2世]]は、独立とローマ帝位簒奪の両方が目的だったと考えている{{Sfn|Smith II|2013|p=[https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA180 180]}}。パルミラの支配者たちは「諸王の王」のような東方的な称号を用いているが、これとローマの政治との関連性はなく、また彼らの征服事業はパルミラの経済的な利益のためであったとしている{{Sfn|Smith II|2013|p=[https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA180 180]}}。結局、ゼノビアとウァバッラトゥスがローマの皇帝の称号を名乗り君臨したのは、その治世末期のわずかな期間であった{{Sfn|Smith II|2013|p=[https://books.google.nl/books?id=h5cMho6zFckC&pg=PA180 180]}}。[[ファーガス・ミラー]]は、反乱が単なる独立運動にとどまるものではなかったという説に留意しつつも、まだその反乱の真相について結論を出すのに必要な証拠は出そろっていない、と考えている{{Sfn|Millar|1993|p=[https://books.google.nl/books?id=IA-YlZqHv90C&pg=PA334 334]}}。

20世紀、[[大シリア主義|シリアのナショナリズム]]の出現により、パルミラ帝国の歴史はにわかに注目を集めるようになった<ref>{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=ZnHkR_ohJrsC&pg=PT15#v=onepage&q&f=false|title=The Romans: All That Matters|first=John|last=Manley|page=15|year=2013|publisher=John Murray Press|isbn=9781444183887}}</ref>。近現代のシリアのナショナリストたちは、パルミラ帝国がシリア文明独自のものであり、レバントの人々をローマ帝国の圧政から解放しようとしたのだ、と考えている<ref name="zenasok65as">{{Cite book|url=https://books.google.nl/books?id=dBIoBgAAQBAJ&pg=PT153#v=onepage&q&f=false|title=Among the Ruins: Syria Past and Present|last=Christian Sahner|page=153|year=2014}}</ref>。シリアではゼノビアの生涯をモデルとしたテレビ番組が製作され、元シリア防衛相[[ムスタファ・トラス]]が彼女の伝記を書いたこともある。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}

== 参考文献 ==
*{{cite journal|first= Byron|last= Nakamura|year= 1993|title= Palmyra and the Roman East |journal=Greek, Roman, and Byzantine Studies|publisher= Duke University, Department of Classical Studies|volume=34|ISSN=0017-3916|ref=harv}}
*{{cite book|title=History of The Arabs|url=https://archive.org/details/isbn_9780333631423|url-access=registration|first=Philip K.|last=Hitti|origyear= 1937|year=2002|edition= 10|publisher=Palgrave Macmillan|isbn=978-1-137-13032-7|ref=harv}}
*{{cite book|title= Zenobia between reality and legend|first= Yāsamīn|last=Zahrān|year=2003|publisher=Archaeopress|series=BAR (British Archaeological Reports) International Series|volume= 1169|isbn=978-1-84171-537-7|ref=harv}}
*{{New Cambridge History of Islam|chapter=The late Roman/early Byzantine Near East|first= Mark |last=Whittow | authorlink=Mark Whittow|volume=1}}
*{{cite book|first= Warwick |last=Ball|title= Rome in the East: The Transformation of an Empire| year=2002| publisher=Routledge|isbn=978-1-134-82387-1|ref=harv}}
*{{cite book|title=Roman Palmyra: Identity, Community, and State Formation|first= Andrew M.|last=Smith II|publisher=Oxford University Press|year= 2013|isbn= 978-0-19-986110-1|ref=harv}}
*{{cite book|first= Fergus |last=Millar|title= The Roman Near East, 31 B.C.-A.D. 337| year=1993| publisher=Harvard University Press|isbn=978-0-674-77886-3|ref=harv}}

== 関連項目 ==

* [[ガリア帝国]]
* [[テトラルキア]]

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[[Category:パルミラ帝国|*]]
[[Category:ゼノビア]]

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パルミラ帝国
Imperium Palmyrenum  (ラテン語)
ローマ帝国 270年 - 273年 ローマ帝国
パルミラ帝国の位置
271年のパルミラ帝国の最大版図
公用語
首都 パルミラ
諸王の王/皇帝
267/271年 - 272年 ウァバッラトゥス
271年 - 272年ゼノビア
273年 - 273年アンティオクス英語版
変遷
成立 270年
解体273年

パルミラ帝国ラテン語: Imperium Palmyrenum)は、3世紀の危機の時代のローマ帝国から一時期分離独立した帝国である。

国名は首都にして最大都市のパルミラに由来しており、最大領域はシリア属州パレスティナ属州アラビア・ペトラエア属州アエギュプトゥス小アジアの大部分にまで及んだ。

概要

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名目上の支配者はウァバッラトゥスだったが、267年に地位を継承した時点ではわずか10歳であり、実質的な支配者はその母の摂政(女王)ゼノビアだった。

270年、ゼノビアはすみやかにローマ帝国の東方地域を征服し、ローマと対等な関係を維持しようとした。271年には自分と息子で皇帝号を名乗ったが、ローマ皇帝アウレリアヌスの侵攻を受けた。敗北を重ねた母子は捕らえられて帝国は瓦解した。パルミラ人は翌年にも反乱を起こしたがアウレリアヌスに鎮圧され、パルミラの街は破壊された。

その存在自体は短期間に終わったものの、パルミラ帝国を築き上げたゼノビアは古代後期において最も野心的で有能な女性の一人に数えられている。また彼女は近現代のシリアにおいて英雄視され、シリアのナショナリズムの象徴とされている。

ウァバッラトゥスの父セプティミウス・オダエナトゥスによる260年代以降の東方属州支配期からパルミラ陥落までの時期をパルミラ王国と呼称することもある。本項ではこの時期についても述べる。

背景

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235年、皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺され[2]、ローマ帝国は将軍たちが次から次へと帝位を奪い合う時代に突入した[3]。注意が及ばなくなった帝国の辺境地域は、カルピ人ゴート人アレマン人などの襲撃に頻繁にさらされるようになり[4][5]、東方ではサーサーン朝も攻勢を強めていた[6]。260年、ローマ帝国はエデッサの戦いでサーサーン朝のシャープール1世に壊滅的敗北を喫し[7]、皇帝ウァレリアヌスが捕虜にされる事態となった。彼の息子で共同皇帝だったガッリエヌスが単独皇帝となったが、シリアではクィエトゥスマクリアヌスが反乱を起こし、皇帝の権力が及ばなくなった[8]

オダエナトゥスの自立

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パルミラの指導者だったセプティミウス・オダエナトゥスは「王」を名乗り[9]、名目上はガッリエヌスに忠誠を誓いつつも、独自にパルミラ人やシリアの農民を集めて軍をつくり、シャープール1世に攻撃を仕掛けた[7]。オダエナトゥスの軍勢にローマ軍の部隊が参加していたという証拠はない。ローマ帝国の兵がオダエナトゥスの下で戦ったのか否かについても、推測するしか手立てはない[10]。260年、オダエナトゥスはユーフラテス川近くでシャープール1世に決定的勝利をおさめた[8]。続いてオダエナトゥスは261年にシリアの帝位僭称者たちを破り[8]、その後の治世をペルシアとの戦争に費やした[11][12][13]。彼はローマ帝国から「東方の総督」 という地位を与えられ[8]、皇帝の代理としてシリアを支配し[14]、「諸王の王」を名乗った[15]。この称号が使われたことを示す決定的な証拠としては、オダエナトゥスの死後の271年に製作された碑文がある[7][16]。またオダエナトゥスの息子セプティミウス・へロディアヌス(267年没)は、生前から「諸王の王」と呼ばれていたことが分かっている。彼は父から共同統治者に任命された人物であり、息子が「諸王の王」であるのにオダエナトゥスが単なる王であったとは考え難い[17]。オダエナトゥスとへロディアヌスの父子は267年に同時に暗殺され[8]。『ローマ皇帝群像』によれば、暗殺者はオダエナトゥスの従兄弟マエオニウスであった。なお東ローマ帝国の歴史家ヨハネス・ゾナラスは、暗殺者はオダエナトゥスの甥であったとしている[18]。『ローマ皇帝群像』によれば、マエオニウスはごく短期間の間ローマ皇帝位を僭称したものの、兵により処刑された[18][19][20]。ただ他の碑文などの文献にはマエオニウスが皇帝を名乗った記録が無く、実際には彼はオダエナトゥス暗殺時に直ちに殺されたと思われる[21][22]

オダエナトゥスの跡を継いだのは、後妻ゼノビアとの間の息子で10歳のウァバッラトゥスだった[23]。ゼノビアの摂政体制下で[24]、ウァバッラトゥスは影の中に留められ、実際の権力はゼノビアが握っていた。彼女はローマを怒らせないよう慎重に調整しながら、オダエナトゥスやへロディアヌスの称号を自身とウァバッラトゥスも名乗ることにした。またサーサーン朝との国境の平和維持にも心を砕きつつ、ハウラン平原に勢力を持つ危険なアラブ人タヌーフ族の平定にも力を注いだ。

帝国の成立

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右:アントニニアヌス貨の表側に描かれたウァバッラトゥス 左: 裏側に皇帝として描かれたアウレリアヌス

クラウディウス・ゴティクス帝治下の270年春、ゼノビアはタヌーフ族平定に向けた遠征軍を派遣した[25]。これを率いるのは彼女の将軍セプティミウス・ザッバイとセプティムス・ザブダスであった[26]

ザブダスはアラビア属州の首都ボストラを略奪破壊し、ローマ帝国の総督を殺害し、さらに南進して属州支配を確固たるものとした[25][27]。中世ペルシアの地理学者イブン・フルダーズベは、ゼノビアが自らドゥーマト・アッ=ジャンダルの城を攻撃したものの攻め落とせなかった、としている[28]。ただしフルダーズベは、ゼノビアを半伝説的なアラブ人の女王アル=ザッバーと混同している節がある[29][30][31][32]

270年10月[33]、7万人のパルミラ軍がローマ領エジプトに侵攻して征服し[34][35]、ゼノビアはエジプト女王を名乗った[36]。ローマ帝国の長官テナギノ・プロブスは11月に一旦アレクサンドリアを奪回したものの、再侵攻してきたパルミラ軍に敗れてバビロンに逃れ、またそこで包囲されザブダスに攻め殺された。ザブダスはさらに南進して、エジプト全土を支配下に収めた[37]パルミラのエジプト征服)。その後271年、ザッバイが小アジアに侵攻した。同年春からはザブダスもこの遠征に合流した[38]。パルミラ軍はガラティアを服属させ、アンカラを征服し、パルミラの最大版図を現出した[39]。しかし彼らはカルケドンの攻略には失敗した。

パルミラの征服事業は、あくまでもローマ帝国への従属の意思を見せることで許されていた[40]。ゼノビアは硬貨を鋳造する際に、王としてウァバッラトゥスを描かせるとともにクラウディウス・ゴティクス[注 1]の後継者アウレリアヌスの名前を並べており、アウレリアヌスもパルミラの硬貨鋳造と王号の使用を容認していた[41]。ところが271年の末、ウァバッラトゥスとゼノビアは皇帝アウグストゥス)の称号をも名乗り始めた[40]

ローマ帝国による再征服

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アントニニアヌス貨の表側に皇帝(アウグストゥス)として描かれたウァバッラトゥス
アントニニアヌス貨の表に女帝(アウグスタ)として描かれたゼノビア

272年、アウレリアヌスはボスポラス海峡を渡って急速に小アジアを進軍していった[42]。またマルクス・アウレリウス・プロブス率いる別動隊がエジプトを再征服した[43]が、ゼノビアはシリアを防衛するためにパルミラ軍を撤退させていたため、軍事行動は必ずしも必要ではなかったと指摘されている[43]。アウレリアヌスはまずティアナまで進んだ[44]。ここまでアウレリアヌスは抵抗した都市をすべて破壊していたが、このティアナ包囲戦の際、夢に彼が尊敬する大哲学者ティアナのアポロニオスが現れたため、ティアナの破壊は思いとどまったという伝説がある[45]。アポロニオスは「アウレリアヌスよ、もしそなたが統治を望むなら、無辜の者の血を流すのは控えよ。もしそなたが征服者たらんとするなら、慈悲深くあれ!」と諭したのだという[46]。理由が何であれ、ともかくもアウレリアヌスはティアナを救い、賠償金で済ませた。復讐を恐れていた諸都市は、これを見て次々とアウレリアヌスに降伏していった[45]

アウレリアヌスはイッソスからアンティオキアに向かう途中のインマエの戦いでゼノビアの軍を破った[47]。ゼノビアはまずアンティオキアへ撤退し、次いでエメサに逃れた。アウレリアヌスは後を追って、アンティオキアを占領した[48]。ローマ軍はここで再編を行い、ダフィネに駐屯していたパルミラ軍の守備隊を撃破し[注 2][50]、さらに南進してアパメアに向かい[51]、さらにエメサへ進んでゼノビア軍を再びエメサの戦いで破った。ついにゼノビアは首都パルミラに追い詰められた[52]。アウレリアヌスは砂漠を進む過程でゼノビアに忠誠を誓うベドウィンの襲撃に悩まされながらもパルミラにたどり着いた。市門の前まで達したアウレリアヌスは直ちにベドウィンと交渉し、ゼノビアを裏切らせるとともに水と食料を手に入れた[53]。パルミラの包囲は272年夏に始まり[54]、アウレリアヌスはゼノビアに自ら直接降伏してくるよう求めたが、拒絶された[39]。ローマ軍は数度にわたり市内に突入しようとしたが、そのたびに撃退された[55]。とはいえ状況はパルミラ側にとって悪くなるばかりであったので、ゼノビアはパルミラを脱出して東方に向かい、ペルシア人の支援を取り付けようとした[56]。しかしローマ軍がこれを追撃して、ユーフラテス川近くでゼノビアの身柄を確保し、皇帝の下へ連行した。まもなくパルミラ市民は和平を請い[56]、街は降伏した[54][57]

アウレリアヌスとゼノビアの戦争の推移

反乱の再発とパルミラの破壊

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アントニニアヌス貨に描かれた、ソルに扮してパルミラ帝国を打ち倒すアウレリアヌス。ORIENS AVG(日の上る皇帝)という賛辞が刻まれている。

アウレリアヌスは、パルミラの街自体は残し、サンダリオンという者が率いる600人の弓兵を治安部隊として駐留させた[58]。防衛設備は破壊され、ほとんどの軍装備は没収された[59]。ゼノビアとその重臣たちはエメサに連行され、裁判にかけられた。ほとんどの高官は処刑された[60]が、ゼノビアとウァバッラトゥスのその後は不明である[61]

273年、パルミラで市民セプティミウス・アプサイオスが率いる反乱が起き[62]メソポタミア総督マルケリヌスに帝位簒奪をそそのかした。しかしマルケリヌスは、交渉を長引かせながらローマの皇帝に事の次第を通報した。しびれを切らした反乱軍は、ゼノビアの親族セプティミウス・アンティオクスを皇帝に擁立した[63]。アウレリアヌスは再びパルミラに侵攻し、元老院格のセプティミウス・ハッドゥダンを中心とする市内の支持者の協力も得てパルミラを制圧した[64][65]

アウレリアヌスはアンティオクスを助命した[65]が、パルミラの街は徹底的に破壊された[66]。価値あるモニュメントは皇帝のソル神殿の装飾のために持ち去られ[57]、建物は打ち壊され、住民は棍棒で打たれ、パルミラで最も神聖なベル神殿は略奪された[57]

評価

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ゼノビアらがローマ帝国に反抗した根本的な原因については、論争が交わされている。パルミラの台頭とゼノビアの反乱について語るとき、多くの場合歴史家たちは文化的、民族的、社会的な側面から解釈しようとしている[67]アンドレアス・アルフェルディは、この反乱は完全なるローマに対する民族的反抗であるとしている[67]イルファン・シャヒードは、ゼノビアの反乱が正統カリフ時代のアラブ人の勢力拡大に先んじた汎アラブ運動であったと考えている[67]。この意見はフランツ・アルトハイムによって紹介され[67]フィリップ・ヒッティをはじめアラブ人・シリア人学者の間でほぼ共通した見解となっている[68][69]。一方でマーク・ホウィットウは、このような民族を基にした解釈を否定し、当時のローマが弱体化し、パルミラをペルシアから防衛することができなくなっていたことに対する反応であった点を強調している[70]。ウォーウィック・ボールは、この反乱がパルミラの独立にとどまらずローマ帝位を狙ったものだったとみている[71]。ウァバッラトゥスの碑文には、ローマ皇帝のような様式がみられる。ボールは、ゼノビアとウァバッラトゥスはローマ帝位簒奪者であり、かつてシリアで力を蓄え帝位を獲得したウェスパシアヌスと似たような計画を抱いていた、としている[71][70]アンドリュー・M・スミス2世は、独立とローマ帝位簒奪の両方が目的だったと考えている[72]。パルミラの支配者たちは「諸王の王」のような東方的な称号を用いているが、これとローマの政治との関連性はなく、また彼らの征服事業はパルミラの経済的な利益のためであったとしている[72]。結局、ゼノビアとウァバッラトゥスがローマの皇帝の称号を名乗り君臨したのは、その治世末期のわずかな期間であった[72]ファーガス・ミラーは、反乱が単なる独立運動にとどまるものではなかったという説に留意しつつも、まだその反乱の真相について結論を出すのに必要な証拠は出そろっていない、と考えている[73]

20世紀、シリアのナショナリズムの出現により、パルミラ帝国の歴史はにわかに注目を集めるようになった[74]。近現代のシリアのナショナリストたちは、パルミラ帝国がシリア文明独自のものであり、レバントの人々をローマ帝国の圧政から解放しようとしたのだ、と考えている[75]。シリアではゼノビアの生涯をモデルとしたテレビ番組が製作され、元シリア防衛相ムスタファ・トラスが彼女の伝記を書いたこともある。

脚注

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注釈

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  1. ^ クラウディウス・ゴティクスは、ゼノビアがエジプト遠征をおこなう直前の270年8月に病死していた[33]
  2. ^ ダフィネはアンティオキアの南方6マイルの地に存在した庭園[49]

出典

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参考文献

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関連項目

[編集]