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「耿精忠」の版間の差分

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耿精忠は[[ホーゲ|粛親王豪格]]の娘と結婚し、和碩額駙に封じられた。王位継承後、耿精忠の側近は「天下分身火耳」の謡という[[讖緯]]があるとしたので、耿精忠は部下の将兵に変事が起きるのを待たせるようにした。[[1673年]]、[[尚可喜]]が平南王の継承を許されず藩が廃止され、遼東に帰還することになったので、耿精忠と[[呉三桂]]とともに清朝朝廷の態度を探るべく、藩の撤廃を具申したところ、康熙帝はそれを許可した。そのため、呉三桂と耿精忠はともに挙兵し、耿精忠は総統兵馬代将軍と自称し、[[辮髪]]をやめ、衣冠を変更した。[[福州市|福州]]において、閩浙[[総督]]の范承謨([[:zh:范承谟|zh]])をとその幕僚50余人を殺害、呉三桂とともに[[江西省|江西]]に進出し、[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏台湾]]の[[鄭経]]も沿岸部を攻撃したことから、一時的ではあるが反乱の勢いは盛んだった。
耿精忠は[[ホーゲ|粛親王豪格]]の娘と結婚し、和碩額駙に封じられた。王位継承後、耿精忠の側近は「天下分身火耳」の謡という[[讖緯]]があるとしたので、耿精忠は部下の将兵に変事が起きるのを待たせるようにした。[[1673年]]、[[尚可喜]]が平南王の継承を許されず藩が廃止され、遼東に帰還することになったので、耿精忠と[[呉三桂]]とともに清朝朝廷の態度を探るべく、藩の撤廃を具申したところ、康熙帝はそれを許可した。そのため、呉三桂と耿精忠はともに挙兵し、耿精忠は総統兵馬代将軍と自称し、[[辮髪]]をやめ、衣冠を変更した。[[福州市|福州]]において、閩浙[[総督]]の范承謨([[:zh:范承谟|zh]])をとその幕僚50余人を殺害、呉三桂とともに[[江西省|江西]]に進出し、[[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏台湾]]の[[鄭経]]も沿岸部を攻撃したことから、一時的ではあるが反乱の勢いは盛んだった。


康熙帝は康親王傑書([[:zh:愛新覺羅·傑書|zh]])と頼塔([[:zh:赖塔|zh]])将軍に、[[浙江省|浙江]]、[[衢州]]で耿精忠を討つよう命令した。鄭経は耿精忠との約定を果たせず、[[ショウ州市|漳州]]、[[泉州市|泉州]]の二州が陥落したので、耿精忠は清朝に降伏した。[[1680年]]には鄭経は台湾に退却した。耿精忠は康熙帝に拝謁することを頼んだものの、康熙帝は却下し、耿精忠を監獄に拘禁した。[[1681年]]に呉三桂の孫の[[呉世ハン|呉世璠]]が自殺し、三藩の乱が収束すると、翌1682年には耿精忠は[[凌遅刑]]に処された。
康熙帝は康親王傑書([[:zh:愛新覺羅·傑書|zh]])と頼塔([[:zh:赖塔|zh]])将軍に、[[浙江省|浙江]]、[[衢州]]で耿精忠を討つよう命令した。鄭経は耿精忠との約定を果たせず、[[州市|漳州]]、[[泉州市|泉州]]の二州が陥落したので、耿精忠は清朝に降伏した。[[1680年]]には鄭経は台湾に退却した。耿精忠は康熙帝に拝謁することを頼んだものの、康熙帝は却下し、耿精忠を監獄に拘禁した。[[1681年]]に呉三桂の孫の[[呉世ハン|呉世璠]]が自殺し、三藩の乱が収束すると、翌1682年には耿精忠は[[凌遅刑]]に処された。


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2020年9月11日 (金) 21:26時点における版

耿精忠

耿 精忠(こう せいちゅう、? - 康熙21年1月20日1682年2月26日))は、清朝軍人、靖南王。三藩の乱の参加者の1人。耿仲明の孫、耿継茂の長男、耿昭忠、耿聚忠、耿氏(尚之信の妻)の兄。

概要

耿家の先祖は代々山東に住んでいたが、遼東の蓋州衛に移った。祖父・耿仲明は毛文龍の配下の将として参加した。後に、毛文龍が袁崇煥に殺されると、孫元化(zh)の配下に身を投じた。孫元化が明朝に殺されると、ヌルハチに降った。順治帝ドルゴンとともに、北京に入ると、耿仲明は1649年靖南王に封じられた。耿仲明死後、息子の耿継茂が藩王位を継ぎ、1671年に耿継茂が没すると耿精忠が藩王位を継いだ。

耿精忠は粛親王豪格の娘と結婚し、和碩額駙に封じられた。王位継承後、耿精忠の側近は「天下分身火耳」の謡という讖緯があるとしたので、耿精忠は部下の将兵に変事が起きるのを待たせるようにした。1673年尚可喜が平南王の継承を許されず藩が廃止され、遼東に帰還することになったので、耿精忠と呉三桂とともに清朝朝廷の態度を探るべく、藩の撤廃を具申したところ、康熙帝はそれを許可した。そのため、呉三桂と耿精忠はともに挙兵し、耿精忠は総統兵馬代将軍と自称し、辮髪をやめ、衣冠を変更した。福州において、閩浙総督の范承謨(zh)をとその幕僚50余人を殺害、呉三桂とともに江西に進出し、鄭氏台湾鄭経も沿岸部を攻撃したことから、一時的ではあるが反乱の勢いは盛んだった。

康熙帝は康親王傑書(zh)と頼塔(zh)将軍に、浙江衢州で耿精忠を討つよう命令した。鄭経は耿精忠との約定を果たせず、漳州泉州の二州が陥落したので、耿精忠は清朝に降伏した。1680年には鄭経は台湾に退却した。耿精忠は康熙帝に拝謁することを頼んだものの、康熙帝は却下し、耿精忠を監獄に拘禁した。1681年に呉三桂の孫の呉世璠が自殺し、三藩の乱が収束すると、翌1682年には耿精忠は凌遅刑に処された。