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「善珠」の版間の差分

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'''善珠'''(ぜんしゅ・ぜんじゅ、[[養老]]7年([[723年]]) - [[延暦]]16年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[797年]][[5月25日]]))は、[[奈良時代]]から[[平安時代]]前期にかけての[[僧]]。俗姓は[[阿刀氏]]で、[[玄ボウ|玄昉]]の子とする史書もある<ref> 『[[扶桑略記]]』延暦16年4月丙子条</ref>が、善珠の生まれた723年当時玄昉は[[遣唐使]]として唐に滞在している最中である。[[大和国]]の出身。[[秋篠寺]]の開基とされている。法相六祖の1人。
'''善珠'''(ぜんしゅ・ぜんじゅ、[[養老]]7年([[723年]]) - [[延暦]]16年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]([[797年]][[5月25日]]))は、[[奈良時代]]から[[平安時代]]前期にかけての[[僧]]。俗姓は[[阿刀氏]]で、[[玄昉]]の子とする史書もある<ref> 『[[扶桑略記]]』延暦16年4月丙子条</ref>が、善珠の生まれた723年当時玄昉は[[遣唐使]]として唐に滞在している最中である。[[大和国]]の出身。[[秋篠寺]]の開基とされている。法相六祖の1人。


玄昉に師事して[[法相宗|法相]]・[[因明]]に通じた。[[793年]](延暦12年)[[比叡山]]文殊堂[[供養]]の堂達を、翌[[794年]](延暦13年)には[[延暦寺]][[延暦寺根本中堂|根本中堂]][[落慶]]の導師をつとめた。[[796年]](延暦15年)には[[桓武天皇]]の命により故[[物部古麻呂]]のための法華経供養の導師をつとめた。[[797年]](延暦16年)には皇太子安殿親王(後の[[平城天皇]])の病気平癒祈願の功により僧正に任じられている。その後間もなくして75歳で没。[[奈良仏教]]の歴史の上で有数の著述家で、『唯識義燈増明記』・『唯識分量決』など20余りの著作が残る。
玄昉に師事して[[法相宗|法相]]・[[因明]]に通じた。[[793年]](延暦12年)[[比叡山]]文殊堂[[供養]]の堂達を、翌[[794年]](延暦13年)には[[延暦寺]][[延暦寺根本中堂|根本中堂]][[落慶]]の導師をつとめた。[[796年]](延暦15年)には[[桓武天皇]]の命により故[[物部古麻呂]]のための法華経供養の導師をつとめた。[[797年]](延暦16年)には皇太子安殿親王(後の[[平城天皇]])の病気平癒祈願の功により僧正に任じられている。その後間もなくして75歳で没。[[奈良仏教]]の歴史の上で有数の著述家で、『唯識義燈増明記』・『唯識分量決』など20余りの著作が残る。

2020年9月11日 (金) 22:05時点における版

善珠(ぜんしゅ・ぜんじゅ、養老7年(723年) - 延暦16年4月21日797年5月25日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての。俗姓は阿刀氏で、玄昉の子とする史書もある[1]が、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。

玄昉に師事して法相因明に通じた。793年(延暦12年)比叡山文殊堂供養の堂達を、翌794年(延暦13年)には延暦寺根本中堂落慶の導師をつとめた。796年(延暦15年)には桓武天皇の命により故物部古麻呂のための法華経供養の導師をつとめた。797年(延暦16年)には皇太子安殿親王(後の平城天皇)の病気平癒祈願の功により僧正に任じられている。その後間もなくして75歳で没。奈良仏教の歴史の上で有数の著述家で、『唯識義燈増明記』・『唯識分量決』など20余りの著作が残る。

脚注

  1. ^ 扶桑略記』延暦16年4月丙子条