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本紀にはまず新羅を記し、それぞれの建国神話における建国年次の順にあわせて高句麗・百済の順としている。年表は[[干支]]、中国の王朝・新羅・高句麗・百済の四者についての一覧形式を採っている。
本紀にはまず新羅を記し、それぞれの建国神話における建国年次の順にあわせて高句麗・百済の順としている。年表は[[干支]]、中国の王朝・新羅・高句麗・百済の四者についての一覧形式を採っている。


列伝の最初には新羅による三国統一の功労者である[[金ユ信|金庾信]]に三巻を費やしており、次いで高句麗の[[乙支文徳]]を配し、最終巻には[[後高句麗]]の[[弓裔]]、[[後百済]]の[[甄萱]]とするなど、時代・国についての特別な配置の整理は行なわれていない。金庾信列伝では、金庾信はの祖先は[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫とする<ref group="註釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上 :金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>。また、複数人を扱う列伝についての要約的な名付け(『[[史記]]』における儒林列伝、酷吏列伝など)は施されていない。
列伝の最初には新羅による三国統一の功労者である[[金庾信]]に三巻を費やしており、次いで高句麗の[[乙支文徳]]を配し、最終巻には[[後高句麗]]の[[弓裔]]、[[後百済]]の[[甄萱]]とするなど、時代・国についての特別な配置の整理は行なわれていない。金庾信列伝では、金庾信はの祖先は[[黄帝]]の子の[[少昊|少昊金天氏]]の子孫とする<ref group="註釈">『三國史記』列傳 第一:金庾信 上 :金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂<span style="color:#ff0000;">少昊金天氏之後</span> 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也</ref>。また、複数人を扱う列伝についての要約的な名付け(『[[史記]]』における儒林列伝、酷吏列伝など)は施されていない。


朝鮮半島の[[地名]]研究の根本史料でもある。
朝鮮半島の[[地名]]研究の根本史料でもある。

2020年9月14日 (月) 23:08時点における版

三国史記
各種表記
ハングル 삼국사기
漢字 三國史記
発音サギ
日本語読み: さんごくしき
2000年式
MR式
英語:
Samguk-sagi
Samkuk-saki
History of the Three Kingdoms
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三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾が撰した、三国時代新羅高句麗百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体歴史書朝鮮半島に現存する最古の歴史書1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

編纂の時期

地理志の地名表記(「古の○○は今の△△である」といった記述)の詳細な検討から、遅くとも1143年には編纂が始まっていること、また、『高麗史』仁宗世家23年条や同書の金富軾伝の記事から、1145年12月には撰上されたとされている。

構成

全50巻の目次は以下の通り。

  1. 本紀: 巻1~巻28
    1. 新羅本紀: 巻1~巻12
    2. 高句麗本紀: 巻13~巻22
    3. 百済本紀: 巻23~巻28
  2. 年表: 巻29~巻31
  3. 雑志: 巻32~巻40
    1. 祭祀、楽: 巻32
    2. 色服、車騎、器用、屋舎: 巻33
    3. 地理: 巻34~巻37
    4. 職官: 巻38~巻40
  4. 列伝: 巻41~巻50

本紀にはまず新羅を記し、それぞれの建国神話における建国年次の順にあわせて高句麗・百済の順としている。年表は干支、中国の王朝・新羅・高句麗・百済の四者についての一覧形式を採っている。

列伝の最初には新羅による三国統一の功労者である金庾信に三巻を費やしており、次いで高句麗の乙支文徳を配し、最終巻には後高句麗弓裔後百済甄萱とするなど、時代・国についての特別な配置の整理は行なわれていない。金庾信列伝では、金庾信はの祖先は黄帝の子の少昊金天氏の子孫とする[註釈 1]。また、複数人を扱う列伝についての要約的な名付け(『史記』における儒林列伝、酷吏列伝など)は施されていない。

朝鮮半島の地名研究の根本史料でもある。

依拠史料

朝鮮側の資料として『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』・金大問『高僧伝』・『花郎世記』などを第一次史料として引用したことが見られるが、いずれも現存していないため、その記述の内容には史料批判が必要である。また、中国の史料と朝鮮の史料が衝突する場合には朝鮮の史料を優先している箇所もあるが、前記の史料の信用性に疑問があるため、慎重な取り扱いが必要とされる。日本では中国史料と対応する記事が認められない3世紀頃までの記事は、にわかには信じがたいとする考え方が主流である[1]。また、天変記事(ほうき星など)については中国史書と年月を同じくする記述も多い。

三国における史書としては、高句麗には『留記』・『新集』、百済には『日本書紀』にその名が確認される百済三書(『百済本記』、『百済記』、『百済新撰』)、新羅にも国史を編纂させたという記録があるが、いずれも現在は存在が確認されていない逸失書であるため、記述内容を確認できない部分も含まれている。

仁宗 (高麗王)が金富軾に命じた『三国史記』撰述の詔勅が、編者金富軾の上表文「進三国史表」に引用されており、その中で『新唐書』列伝が名指しされていることから、『三国史記』撰述にあたり『新唐書』列伝が参照されたとみて疑いない[2]。加えて詔勅では、「三国の古記は文字が乱雑かつ拙劣で、しかも事跡が欠けている」と述べて当時の史料状況を示している[2]

記述の姿勢

新羅・高句麗・百済の三国すべてを「我ら」と記録することで最大限中立的に記述したとされるが、内容面においても新羅の比重が大きく、南北時代(統一新羅時代)と高麗朝を経て新羅人たちが記録した史料に大きく依存したため、新羅への偏重がある。また、編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多い。中国の史書においてより早く登場する高句麗の建国(紀元前37年)を新羅の建国(紀元前57年)よりも後に据えるのは、その現れである。

三国以前の古朝鮮三韓、三国並立期の伽耶東濊沃沮、新羅統一後の渤海などの記述がなされていないが、これは『三国史記』がすでに存在していた勅撰の『旧三国史』をより簡潔にまとめた形式をとっているためとも考えられている。しかしながら『旧三国史』に古朝鮮などの記事があったかどうかは、『旧三国史』が現存しないために確認は不可能である。そもそも、成立から100年近く後の高麗の大文人の李奎報が「東明王篇」の序文で訝しんでいるように、勅撰の『旧三国史』のあったところに重撰となる『三国史記』の編纂が必要とされた理由については、歴史の改ざんも含め諸説あるが未だ定説は無い。

テキスト

版本では、李氏朝鮮の太祖(李成桂)2年(1394年)の慶州刊本を中宗正徳7年(1512年)に重刊したいわゆる正徳本が最良とされている。これを昭和6年(1931年)に古典刊行会が景印したものが、学習院大学東洋文化研究所に学東叢書本として収められている。

活字本では、正徳本を元に今西龍らが校訂したものが昭和3年(1928年)に朝鮮史学会本として刊行されており、後に末松保和の校訂による第三版(1941年)が最良のものであるとされている。

『三国遺事』

『三国史記』に次ぐ朝鮮古代の歴史書として、13世紀末に僧・一然による私撰の『三国遺事』がある。書名の「遺事」は『三国史記』にもれた事項を収録したとする意味が込められており、逸話や伝説の類が広く収められている。朝鮮史において『三国史記』と『三国遺事』は日本史における『古事記』と『日本書紀』のような、古代史研究の基本文献とされている[3]

脚註

  1. ^ 日韓歴史共同研究委員会の報告書[1]
  2. ^ a b 横田健一編『日本書紀研究 第二十三冊』塙書房、2000年、253、254頁。
  3. ^ 高 2007, p. 6

註釈

  1. ^ 『三國史記』列傳 第一:金庾信 上 :金庾信 王京人也 十二世祖首露 不知何許人也 以後漢建武十八年壬寅 登龜峯 望駕洛九村 遂至其地 開國 號曰加耶 後改爲金官國 其子孫相承 至九世孫仇亥 或云仇次休 於庾信爲曾祖 羅人自謂少昊金天氏之後 故姓金 庾信碑亦云 軒轅之裔 少昊之胤 則南加耶始祖首露 與新羅同姓也

参考文献

関連項目