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「台湾光復節」の版間の差分

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== 1945年10月25日までの経緯 ==
== 1945年10月25日までの経緯 ==
[[第二次世界大戦]]末期の[[1943年]][[12月1日]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]米国大統領、[[ウィンストン・チャーチル]]英国首相そして[[中華民国]]の[[介石]]は、「[[カイロ宣言]]」を発表した。そこには、日本が「[[満州]]、台湾、[[澎湖島]]のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する。」ことが述べられていた<ref name="wu222">呉密察監修、横澤泰夫日本語版編訳「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)中国書店(福岡)222ページ「カイロ宣言」の項</ref><ref group = "注釈">このように同宣言は、日本敗戦後の台湾の主権の帰属について明確な主張をしている。日本は、カイロ宣言の発表後も投降しなかったので、同盟国は早期に戦争を終結させるため再度「ポツダム宣言」を発表し、カイロ宣言の主張を繰り返した。このため中華民国、中華人民共和国の双方が、カイロ宣言を根拠として「台湾の主権を有している」と主張している(後掲「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項)。</ref>。それまで[[中国共産党]]は戦後の台湾の帰属について態度を明確でなかったが、このカイロ宣言にて英米が対日戦勝利後の台湾の帰属について意思を明確にしたことにより、中国共産党も態度を明確にした。これにより中国主要政治勢力が台湾を中国の一部とするとようやく決まった。ここに台湾は「光復」されるべき土地となった<ref name="wakabayashi62">[[若林正丈]]「台湾-変容し躊躇するアイデンティティ」(1999年)ちくま新書</ref>(「光復とは中国語の古い言葉で固有のものを回復すること、とりわけ失われた国土の回復を指す<ref name="zhou197">周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社</ref>)。[[7月26日]]、米、英、ソ三国指導者が発表した[[ポツダム宣言]]には、日本が前記「カイロ宣言」を誠実に履行することを求めていた。
[[第二次世界大戦]]末期の[[1943年]][[12月1日]]、[[フランクリン・ルーズベルト]]米国大統領、[[ウィンストン・チャーチル]]英国首相そして[[中華民国]]の[[介石]]は、「[[カイロ宣言]]」を発表した。そこには、日本が「[[満州]]、台湾、[[澎湖島]]のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する。」ことが述べられていた<ref name="wu222">呉密察監修、横澤泰夫日本語版編訳「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)中国書店(福岡)222ページ「カイロ宣言」の項</ref><ref group = "注釈">このように同宣言は、日本敗戦後の台湾の主権の帰属について明確な主張をしている。日本は、カイロ宣言の発表後も投降しなかったので、同盟国は早期に戦争を終結させるため再度「ポツダム宣言」を発表し、カイロ宣言の主張を繰り返した。このため中華民国、中華人民共和国の双方が、カイロ宣言を根拠として「台湾の主権を有している」と主張している(後掲「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項)。</ref>。それまで[[中国共産党]]は戦後の台湾の帰属について態度を明確でなかったが、このカイロ宣言にて英米が対日戦勝利後の台湾の帰属について意思を明確にしたことにより、中国共産党も態度を明確にした。これにより中国主要政治勢力が台湾を中国の一部とするとようやく決まった。ここに台湾は「光復」されるべき土地となった<ref name="wakabayashi62">[[若林正丈]]「台湾-変容し躊躇するアイデンティティ」(1999年)ちくま新書</ref>(「光復とは中国語の古い言葉で固有のものを回復すること、とりわけ失われた国土の回復を指す<ref name="zhou197">周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社</ref>)。[[7月26日]]、米、英、ソ三国指導者が発表した[[ポツダム宣言]]には、日本が前記「カイロ宣言」を誠実に履行することを求めていた。


やがて8月に日本がポツダム宣言を受諾すると、[[連合国]]最高司令官[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は、「[[SCAPIN|対日一般司令]]」[[一般命令第一号|第1号]](SCAPIN-1)の中で、中国大陸と台湾に居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官介石への降伏を命じた。介石は、[[陳儀]]を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。陳儀は重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接受の中核組織を編成した。10月17日国軍第70軍と長官公署官員が台湾に到着した。遅れて10月24日陳儀自身が台湾に到着した。翌10月25日に[[台北市]]で台湾における降服を受諾する式典を行った<ref name="wakabayashi62" />。
やがて8月に日本がポツダム宣言を受諾すると、[[連合国]]最高司令官[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]は、「[[SCAPIN|対日一般司令]]」[[一般命令第一号|第1号]](SCAPIN-1)の中で、中国大陸と台湾に居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官介石への降伏を命じた。介石は、[[陳儀]]を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。陳儀は重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接受の中核組織を編成した。10月17日国軍第70軍と長官公署官員が台湾に到着した。遅れて10月24日陳儀自身が台湾に到着した。翌10月25日に[[台北市]]で台湾における降服を受諾する式典を行った<ref name="wakabayashi62" />。


== 降服受諾式典 ==
== 降服受諾式典 ==

2020年9月15日 (火) 13:40時点における版

台湾光復節
各種表記
繁体字 臺灣光復節
簡体字 台湾光复节
拼音 Táiwān Guāngfùjié
注音符号 ㄊㄞˊ ㄨㄢ ㄍㄨㄤ ㄈㄨˋ ㄐㄧㄝˊ
発音: タイワン グアンフージエ
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台湾光復節

台湾光復節(たいわんこうふくせつ)は、毎年10月25日に定められた中華民国の記念日で、台湾における日本の統治が終わったことを記念する日である。

1945年10月25日までの経緯

第二次世界大戦末期の1943年12月1日フランクリン・ルーズベルト米国大統領、ウィンストン・チャーチル英国首相そして中華民国蔣介石は、「カイロ宣言」を発表した。そこには、日本が「満州、台湾、澎湖島のごとき日本国が中国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する。」ことが述べられていた[2][注釈 1]。それまで中国共産党は戦後の台湾の帰属について態度を明確でなかったが、このカイロ宣言にて英米が対日戦勝利後の台湾の帰属について意思を明確にしたことにより、中国共産党も態度を明確にした。これにより中国主要政治勢力が台湾を中国の一部とするとようやく決まった。ここに台湾は「光復」されるべき土地となった[3](「光復とは中国語の古い言葉で固有のものを回復すること、とりわけ失われた国土の回復を指す[4])。7月26日、米、英、ソ三国指導者が発表したポツダム宣言には、日本が前記「カイロ宣言」を誠実に履行することを求めていた。

やがて8月に日本がポツダム宣言を受諾すると、連合国最高司令官マッカーサーは、「対日一般司令第1号(SCAPIN-1)の中で、中国大陸と台湾に居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官蔣介石への降伏を命じた。蔣介石は、陳儀を台湾省行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。陳儀は重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接受の中核組織を編成した。10月17日国軍第70軍と長官公署官員が台湾に到着した。遅れて10月24日陳儀自身が台湾に到着した。翌10月25日に台北市で台湾における降服を受諾する式典を行った[3]

降服受諾式典

10月25日午前11時、「中国戦区台湾省降服受諾式典」が台北公会堂 (現在の中山記念堂)において実施された。降服側は日本の台湾総督府であり、陳儀を代表とする中国戦区(総軍)に権限が委譲された。同日、台湾省行政長官公署が正式運用を開始し、旧台北市役所(現在の行政院跡)に設けられた。

主な臨席者は以下のとおりである。

「光復節」の制定

この日を記念し、翌1946年8月台湾省行政長官公署の命令により、「中国戦区台湾省降服受諾式典」が行なわれた10月25日を「台湾光復節」と定めた。2001年の週休二日制の導入後は、光復節は休暇を伴わない記念日となっている。1995年、台湾光復50周年を記念した10元記念硬貨や記念切手が発行された。また、2010年10月25日から11月21日まで、台湾省政府は台湾光復65周年特別展を開催した。

脚注

注釈
  1. ^ このように同宣言は、日本敗戦後の台湾の主権の帰属について明確な主張をしている。日本は、カイロ宣言の発表後も投降しなかったので、同盟国は早期に戦争を終結させるため再度「ポツダム宣言」を発表し、カイロ宣言の主張を繰り返した。このため中華民国、中華人民共和国の双方が、カイロ宣言を根拠として「台湾の主権を有している」と主張している(後掲「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)222ページ「カイロ宣言」の項)。
出典
  1. ^ 伊藤潔「台湾-四百年の歴史と展望」(1993年)中公新書138ページ
  2. ^ 呉密察監修、横澤泰夫日本語版編訳「増補改訂版台湾史小辞典」(2010年)中国書店(福岡)222ページ「カイロ宣言」の項
  3. ^ a b 若林正丈「台湾-変容し躊躇するアイデンティティ」(1999年)ちくま新書
  4. ^ 周婉窈著・濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」(2013年)平凡社

関連項目