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[[1925年]](民国14年)3月、憨玉琨が国民軍の[[胡景翼]]に敗北すると、孫殿英は国民軍に降り、師長に昇進する。しかし、すぐに国民軍も離脱する。途中で略奪を働きながら東進し、[[山東省 (中華民国)|山東省]]の[[張宗昌]]配下となり、[[褚玉璞]]の下で第5師師長となった。[[昌平区|南口]]の戦いなどで、孫は国民軍を相手に勇戦した。これにより、張や褚の賞賛を受け、直魯聯軍第25師師長に任命されている。
[[1925年]](民国14年)3月、憨玉琨が国民軍の[[胡景翼]]に敗北すると、孫殿英は国民軍に降り、師長に昇進する。しかし、すぐに国民軍も離脱する。途中で略奪を働きながら東進し、[[山東省 (中華民国)|山東省]]の[[張宗昌]]配下となり、[[褚玉璞]]の下で第5師師長となった。[[昌平区|南口]]の戦いなどで、孫は国民軍を相手に勇戦した。これにより、張や褚の賞賛を受け、直魯聯軍第25師師長に任命されている。


その後[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍とも戦い、[[1927年]](民国16年)、第14軍軍長兼[[邯鄲市|大名]]鎮守使に任命された。[[1928年]](民国17年)6月、張宗昌は最終的に敗北し、孫は[[介石]]に降伏して、[[国民革命軍]]第6軍団第12軍軍長に任命された。これにより孫は[[清東陵]]近辺に駐屯した。
その後[[中国国民党]]の[[北伐 (中国国民党)|北伐]]軍とも戦い、[[1927年]](民国16年)、第14軍軍長兼[[邯鄲市|大名]]鎮守使に任命された。[[1928年]](民国17年)6月、張宗昌は最終的に敗北し、孫は[[介石]]に降伏して、[[国民革命軍]]第6軍団第12軍軍長に任命された。これにより孫は[[清東陵]]近辺に駐屯した。


その際に孫殿英は、[[西太后]]や[[乾隆帝]]の陵墓を盗掘し、大量の財宝、文物を奪い去った。この行状は当然ながら国内世論の大々的な非難、糾弾を浴びた。しかし、孫は盗掘した財宝を[[閻錫山]]ら高官たちに賄賂として送りその庇護を受け、結局は罰せられることはなかった。
その際に孫殿英は、[[西太后]]や[[乾隆帝]]の陵墓を盗掘し、大量の財宝、文物を奪い去った。この行状は当然ながら国内世論の大々的な非難、糾弾を浴びた。しかし、孫は盗掘した財宝を[[閻錫山]]ら高官たちに賄賂として送りその庇護を受け、結局は罰せられることはなかった。


=== 日本軍との激戦 ===
=== 日本軍との激戦 ===
[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、孫殿英は閻錫山に味方して戦った。しかし、同年9月に[[張学良]]が介石支援のために南下してきたため、閻は敗退した。孫はに降り、張学良配下で暫編陸軍第2師師長に任命された。[[1931年]](民国20年)11月、第41軍軍長に昇進している。
[[1930年]](民国19年)の[[中原大戦]]では、孫殿英は閻錫山に味方して戦った。しかし、同年9月に[[張学良]]が介石支援のために南下してきたため、閻は敗退した。孫はに降り、張学良配下で暫編陸軍第2師師長に任命された。[[1931年]](民国20年)11月、第41軍軍長に昇進している。


[[1933年]](民国22年)2月、東北軍の[[万福麟]]が[[熱河省|熱河]]で大敗したため、孫は軍を率いて救援に急行し、[[赤峰市|赤峰]]で日本軍と交戦している。最終的には敗れたものの、勇敢な戦いぶりであったため、世論の称賛を受けた。
[[1933年]](民国22年)2月、東北軍の[[万福麟]]が[[熱河省|熱河]]で大敗したため、孫は軍を率いて救援に急行し、[[赤峰市|赤峰]]で日本軍と交戦している。最終的には敗れたものの、勇敢な戦いぶりであったため、世論の称賛を受けた。


同年5月、介石から[[青海省 (中華民国)|青海]]西区屯墾督弁に任命され、青海・[[甘粛省 (中華民国)|甘粛]]・[[寧夏省|寧夏]]方面の統治に参加するよう指示された。なお、これは介石が孫と上記3省を統治する回族馬氏とを衝突させ、共倒れを狙おうとした罠であったとされる。結果、孫は寧夏の[[馬鴻逵]]と交戦したが、次第に劣勢となる。[[1934年]](民国23年)3月、孫は[[山西省 (中華民国)|山西省]]の閻錫山に投降して、軍権を剥奪された。5月には、何応欽から軍事委員会北平分会高等顧問に任命された。
同年5月、介石から[[青海省 (中華民国)|青海]]西区屯墾督弁に任命され、青海・[[甘粛省 (中華民国)|甘粛]]・[[寧夏省|寧夏]]方面の統治に参加するよう指示された。なお、これは介石が孫と上記3省を統治する回族馬氏とを衝突させ、共倒れを狙おうとした罠であったとされる。結果、孫は寧夏の[[馬鴻逵]]と交戦したが、次第に劣勢となる。[[1934年]](民国23年)3月、孫は[[山西省 (中華民国)|山西省]]の閻錫山に投降して、軍権を剥奪された。5月には、何応欽から軍事委員会北平分会高等顧問に任命された。


[[1936年]](民国25年)6月、[[冀察政務委員会]]委員長の[[宋哲元]]から、孫は察北保安司令に任命される。翌年、[[日中戦争]]が勃発すると、冀北民軍司令として日本軍への抗戦に従事する。[[1938年]](民国27年)、河南省林県(現在の[[安陽市]]林州市)に駐屯して日本軍と戦い、新編第5軍軍長に昇進した。この時の孫の戦績は良好であり、また、[[八路軍]]や日本の傀儡政権など、様々な勢力と密かに連携していた。
[[1936年]](民国25年)6月、[[冀察政務委員会]]委員長の[[宋哲元]]から、孫は察北保安司令に任命される。翌年、[[日中戦争]]が勃発すると、冀北民軍司令として日本軍への抗戦に従事する。[[1938年]](民国27年)、河南省林県(現在の[[安陽市]]林州市)に駐屯して日本軍と戦い、新編第5軍軍長に昇進した。この時の孫の戦績は良好であり、また、[[八路軍]]や日本の傀儡政権など、様々な勢力と密かに連携していた。


=== 巧妙な立ち回りの果て ===
=== 巧妙な立ち回りの果て ===
[[1943年]](民国32年)、林県で孫殿英は日本軍に敗北して捕虜とされ、これに降伏する。その後、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]の新5軍軍長に任命され、さらに第4方面軍の指揮官や豫北保安司令も兼任している。孫は職権を利用してアヘンを販売し、暴利を貪る一方、密かに介石とも連携をとっていた<ref>以上は、熊尚厚・邢漢三「孫殿英」による。一方、来新夏ほか『北洋軍閥史』によれば、孫殿英は[[1941年]](民国30年)に南京国民政府に「加入した」、としている。</ref>。
[[1943年]](民国32年)、林県で孫殿英は日本軍に敗北して捕虜とされ、これに降伏する。その後、[[汪兆銘政権|南京国民政府]]の新5軍軍長に任命され、さらに第4方面軍の指揮官や豫北保安司令も兼任している。孫は職権を利用してアヘンを販売し、暴利を貪る一方、密かに介石とも連携をとっていた<ref>以上は、熊尚厚・邢漢三「孫殿英」による。一方、来新夏ほか『北洋軍閥史』によれば、孫殿英は[[1941年]](民国30年)に南京国民政府に「加入した」、としている。</ref>。


[[1945年]](民国34年)8月の日中戦争終結後、孫殿英は介石への帰順が認められ、新編第4路軍総指揮に任命された。この時の孫は、華北で南京国民政府が残した公有財産を収奪している。[[1946年]](民国35年)7月、[[国共内戦]]の全面的開始に伴い、孫は第3縦隊司令官に任命された。[[1947年]](民国36年)4月、[[人民解放軍]]と河南省[[安陽市|湯陰]]で激しく戦ったが、5月2日に敗北して捕虜とされた。
[[1945年]](民国34年)8月の日中戦争終結後、孫殿英は介石への帰順が認められ、新編第4路軍総指揮に任命された。この時の孫は、華北で南京国民政府が残した公有財産を収奪している。[[1946年]](民国35年)7月、[[国共内戦]]の全面的開始に伴い、孫は第3縦隊司令官に任命された。[[1947年]](民国36年)4月、[[人民解放軍]]と河南省[[安陽市|湯陰]]で激しく戦ったが、5月2日に敗北して捕虜とされた。


この年の冬に、孫殿英は獄中でアヘンの中毒症状により死去した<ref>徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。なお、周志明「孫殿英」によると、憂鬱によるストレス(原文「抑郁」)で死去した、としている。</ref>。享年59。
この年の冬に、孫殿英は獄中でアヘンの中毒症状により死去した<ref>徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。なお、周志明「孫殿英」によると、憂鬱によるストレス(原文「抑郁」)で死去した、としている。</ref>。享年59。

2020年9月15日 (火) 13:57時点における版

孫殿英
プロフィール
出生: 1889年光緒15年)
死去: 1947年民国36年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 河南省帰徳府永城県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 孫殿英
簡体字 孙殿英
拼音 Sūn Diànyīng
ラテン字 Sun Tien-ying
和名表記: そん でんえい
発音転記: スン ティエンイン
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孫 殿英(そん でんえい)は中華民国の軍人。初め北京政府直隷派国民軍奉天派直魯聯軍に、後に国民政府国民革命軍)に属した。魁元

事跡

清陵墓の盗掘

はじめは塾で学問を習った。しかし同学との喧嘩を教師に咎められた腹いせに、塾の校舎を放火で焼き払ったため、追放された。以後、孫殿英は博徒やアヘン売人として青年時代を送った。

1922年民国11年)に直隷派の軍に加わった。1924年(民国13年)の第2次奉直戦争で直隷派が敗北すると、孫は自立し、陝西省河南省で略奪狼藉をしながら軍を維持していた。まもなく、劉鎮華率いる鎮嵩軍の憨玉琨配下に加わる。

1925年(民国14年)3月、憨玉琨が国民軍の胡景翼に敗北すると、孫殿英は国民軍に降り、師長に昇進する。しかし、すぐに国民軍も離脱する。途中で略奪を働きながら東進し、山東省張宗昌配下となり、褚玉璞の下で第5師師長となった。南口の戦いなどで、孫は国民軍を相手に勇戦した。これにより、張や褚の賞賛を受け、直魯聯軍第25師師長に任命されている。

その後中国国民党北伐軍とも戦い、1927年(民国16年)、第14軍軍長兼大名鎮守使に任命された。1928年(民国17年)6月、張宗昌は最終的に敗北し、孫は蔣介石に降伏して、国民革命軍第6軍団第12軍軍長に任命された。これにより孫は清東陵近辺に駐屯した。

その際に孫殿英は、西太后乾隆帝の陵墓を盗掘し、大量の財宝、文物を奪い去った。この行状は当然ながら国内世論の大々的な非難、糾弾を浴びた。しかし、孫は盗掘した財宝を閻錫山ら高官たちに賄賂として送りその庇護を受け、結局は罰せられることはなかった。

日本軍との激戦

1930年(民国19年)の中原大戦では、孫殿英は閻錫山に味方して戦った。しかし、同年9月に張学良が蔣介石支援のために南下してきたため、閻は敗退した。孫は蔣に降り、張学良配下で暫編陸軍第2師師長に任命された。1931年(民国20年)11月、第41軍軍長に昇進している。

1933年(民国22年)2月、東北軍の万福麟熱河で大敗したため、孫は軍を率いて救援に急行し、赤峰で日本軍と交戦している。最終的には敗れたものの、勇敢な戦いぶりであったため、世論の称賛を受けた。

同年5月、蔣介石から青海西区屯墾督弁に任命され、青海・甘粛寧夏方面の統治に参加するよう指示された。なお、これは蔣介石が孫と上記3省を統治する回族馬氏とを衝突させ、共倒れを狙おうとした罠であったとされる。結果、孫は寧夏の馬鴻逵と交戦したが、次第に劣勢となる。1934年(民国23年)3月、孫は山西省の閻錫山に投降して、軍権を剥奪された。5月には、何応欽から軍事委員会北平分会高等顧問に任命された。

1936年(民国25年)6月、冀察政務委員会委員長の宋哲元から、孫は察北保安司令に任命される。翌年、日中戦争が勃発すると、冀北民軍司令として日本軍への抗戦に従事する。1938年(民国27年)、河南省林県(現在の安陽市林州市)に駐屯して日本軍と戦い、新編第5軍軍長に昇進した。この時の孫の戦績は良好であり、また、八路軍や日本の傀儡政権など、様々な勢力と密かに連携していた。

巧妙な立ち回りの果て

1943年(民国32年)、林県で孫殿英は日本軍に敗北して捕虜とされ、これに降伏する。その後、南京国民政府の新5軍軍長に任命され、さらに第4方面軍の指揮官や豫北保安司令も兼任している。孫は職権を利用してアヘンを販売し、暴利を貪る一方、密かに蔣介石とも連携をとっていた[1]

1945年(民国34年)8月の日中戦争終結後、孫殿英は蔣介石への帰順が認められ、新編第4路軍総指揮に任命された。この時の孫は、華北で南京国民政府が残した公有財産を収奪している。1946年(民国35年)7月、国共内戦の全面的開始に伴い、孫は第3縦隊司令官に任命された。1947年(民国36年)4月、人民解放軍と河南省湯陰で激しく戦ったが、5月2日に敗北して捕虜とされた。

この年の冬に、孫殿英は獄中でアヘンの中毒症状により死去した[2]。享年59。

  1. ^ 以上は、熊尚厚・邢漢三「孫殿英」による。一方、来新夏ほか『北洋軍閥史』によれば、孫殿英は1941年(民国30年)に南京国民政府に「加入した」、としている。
  2. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。なお、周志明「孫殿英」によると、憂鬱によるストレス(原文「抑郁」)で死去した、としている。

参考文献

  • 熊尚厚・邢漢三「孫殿英」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2 
  • 周志明「孫殿英」『民国高級将領列伝 2』解放軍出版社、1999年。ISBN 7-5065-0682-3 
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1