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[[1957年]](民国46年)5月、傅秉常は[[台北市]]に向かい、[[蔣介石]]から国策顧問に任命され、さらに国民党中央評議委員に選出された。翌年6月、[[中華民国司法院|司法院]]副院長に任ぜられ、7月には公務員懲戒委員会委員長も兼ねた。 |
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2020年9月15日 (火) 14:21時点における版
傅秉常 | |
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![]() Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1896年2月16日 (清光緒22年正月初4日) |
死去: |
1965年(民国54年)7月29日![]() |
出身地: |
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職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 傅秉常 |
簡体字: | 傅秉常 |
拼音: | Fù Bǐngcháng |
ラテン字: | Fu Ping-ch'ang |
和名表記: | ふ へいじょう |
発音転記: | フー ビンチャン |
傅 秉常(ふ へいじょう)は中華民国の政治家・外交官。字は褧裳。
事跡
10歳のときに父に従って香港に移り、聖ステファン中学(St. Stephen's Boys' College)、香港大学で学んだ。1916年(民国5年)12月に大学を卒業すると、聖ステファン中学で教師となる。1918年(民国7年)、護法運動を開始した孫文(孫中山)を頼って広州に向かい、護法軍政府に加わる。このとき、伍廷芳の秘書となり、その指導下で法律・外交文書について研鑽を重ねた。
1919年(民国8年)、パリ講和会議で中国代表処秘書をつとめた。翌年、護法軍政府の財政部・外交部駐香港代表に任ぜられる。同年11月、海南島瓊海関監督に異動する。1923年(民国12年)2月、大元帥府外交部特派交渉員兼財政部粤海関監督に転じた。6月、広州大本営外交秘書を兼任した。
1927年(民国16年)9月、国民政府財政部関務署署長に任ぜられたが、翌月、外交部参事に転じている。翌年10月、立法院委員に任ぜられ、立法院外交委員会委員長に選出された。1929年(民国18年)2月、駐ベルギー公使となる。1931年(民国20年)、香港大学から名誉法学博士号を授与された。同年5月、寧粤分裂では西南派(粤派)に与し、広州国民政府外交部副部長に任ぜられている。寧粤合流後の翌年1月、外交部政務次長に任ぜられたが、同月末に辞任し、西南政務委員会委員に転じた。1933年(民国22年)からは立法委員に戻り、やはり立法院外交委員会委員長をつとめている。
1935年(民国24年)11月、中国国民党第5期中央執行委員に選出された。1941年(民国30年)7月、外交部政務次長に返り咲く。翌年12月、駐ソビエト連邦大使に任ぜられた。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央執行委員に再び選出される。1946年7月、パリ講和会議(連合国とイタリア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランド5か国との講和)に中国代表として出席した。1949年(民国38年)3月、呉鉄城の後任として外交部長に任ぜられたが、このときは海外にあり、結局実際には就任できなかった。同年中にいったん帰国したが、まもなくパリに戻り、以後しばらくここに滞在している。
1957年(民国46年)5月、傅秉常は台北市に向かい、蔣介石から国策顧問に任命され、さらに国民党中央評議委員に選出された。翌年6月、司法院副院長に任ぜられ、7月には公務員懲戒委員会委員長も兼ねた。
1965年(民国54年)7月29日、台北市にて病没。享年70(満69歳)
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 「傅秉常」南海名人データベース(華南師範大学南海校区ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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