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中華民国が成立した[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)より、馮玉祥の兵営に入隊し、軍歴を開始する。以後、馮率いる第16混成旅で昇進を重ねた。[[1917年]](民国6年)、一時失脚していた馮の復帰を他の軍官と共に支持し、[[張勲 (清末民初)|張勲]]討伐に従事している。[[1924年]](民国13年)2月、陸軍第11師歩兵第22旅第44団団長に昇進する。同年9月、陸軍少将に昇進した。翌[[1925年]](民国14年)3月、暫編陸軍第1師歩兵第2旅旅長となり、7月には陸軍中将に昇進している。[[1926年]](民国15年)、護路司令となり、その翌年には国民革命軍第2集団軍軍官教導団団長に任ぜられた。<ref name=Xu>徐主編(2007)、1668頁。</ref><ref name=Liu>劉主編(2005)、594頁。</ref>
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== 注 ==
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2020年9月15日 (火) 14:22時点における版

過之綱
プロフィール
出生: 1890年光緒15年)
死去: 1957年3月
出身地: 清の旗 安徽省潁州府蒙城県
各種表記
繁体字 過之綱
簡体字 过之纲
拼音 Guò Zhīgāng
ラテン字 Kuo Chi-kang
和名表記: か しこう
発音転記: グオ ヂーガン
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過 之綱(か しこう)は中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)に属した。馮玉祥配下の「十三太保[1]の1人としても知られる。羨五

事績

中華民国が成立した1912年民国元年)より、馮玉祥の兵営に入隊し、軍歴を開始する。以後、馮率いる第16混成旅で昇進を重ねた。1917年(民国6年)、一時失脚していた馮の復帰を他の軍官と共に支持し、張勲討伐に従事している。1924年(民国13年)2月、陸軍第11師歩兵第22旅第44団団長に昇進する。同年9月、陸軍少将に昇進した。翌1925年(民国14年)3月、暫編陸軍第1師歩兵第2旅旅長となり、7月には陸軍中将に昇進している。1926年(民国15年)、護路司令となり、その翌年には国民革命軍第2集団軍軍官教導団団長に任ぜられた。[2][3]

北伐終了後の1928年(民国17年)8月、陸軍大学特別班第1期で学ぶ。翌年10月、国民革命軍第15軍軍長となる。その後、馮玉祥に従って反蔣介石戦争に加わり、中原大戦などを戦う。しかし、馮敗北後の国民革命軍再編によりポストを喪失し、過之綱は失意の余り北平に引退した。後に陸軍大学に復学し、1931年(民国20年)10月に卒業したが、冷遇は変わらなかった。韓復榘により一時は山東省政府顧問に招聘されたものの、結局1937年(民国26年)以降は天津や北平に隠居している。1957年3月、病没。享年68。[2][3]

  1. ^ 過之綱に加え、孫良誠韓復榘石友三張維璽劉汝明聞承烈佟麟閣孫連仲韓多峰程希賢葛金章趙席聘の13人を指す。
  2. ^ a b 徐主編(2007)、1668頁。
  3. ^ a b 劉主編(2005)、594頁。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0