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1911年、黄海道殷栗で孫斗煥の長男として生まれる。1919年4月、父に連れられ[[上海]]に家族で移住。仁成小学校と三一公学で学んだ。上海高等汽車専科学校機械高級第一班を卒業し<ref name=ifeng/>、1928年、上海航空工廠で航空技術を学ぶ。
1911年、黄海道殷栗で孫斗煥の長男として生まれる。1919年4月、父に連れられ[[上海]]に家族で移住。仁成小学校と三一公学で学んだ。上海高等汽車専科学校機械高級第一班を卒業し<ref name=ifeng/>、1928年、上海航空工廠で航空技術を学ぶ。


1930年から南京[[国民政府]]軍政部航空署に属し、民故宮飛行場にある第1飛機修理廠(廠長:[[林福元]])<ref>{{Cite book|和書| author =中国航空工业史编修办公室 | title =中国近代航空工业史(1909-1949) |year=2013 | publisher =航空工业出版社 | page=341}}</ref>後勤部の機械師、1931年から[[崔用徳]]の推薦により1937年まで{{仮リンク|国民政府政府軍事委員会委員長侍従室|label=委員長侍従室|zh|國民政府軍事委員會委員長侍從室}}飛機管理処で介石の自家用飛行機(福特機)の機械師兼副操縦士を務めた。操縦士はアメリカ人のエドワード・スミス<ref>{{Cite web |url = https://cnac.org/eddiesmith01.htm |title = V. EDWARD SMITH (1900-1970) |publisher = CNAC |language = en |accessdate = 2020-04-18 }}</ref>であった。1932年3月、[[金鉄男]]の長女の金賢学と結婚。1935年4月、介石が侍従室第一処主任の[[晏道剛]]に対して孫の毎月の給料を40元に増やすよう電報を送っている<ref>{{Cite web |url = http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/6a/34/c4.html|title = 一般資料—手稿錄底 (二十二) |publisher = 典蔵台湾 |language = 中国語 |accessdate = 2017-06-20 }}</ref>。
1930年から南京[[国民政府]]軍政部航空署に属し、民故宮飛行場にある第1飛機修理廠(廠長:[[林福元]])<ref>{{Cite book|和書| author =中国航空工业史编修办公室 | title =中国近代航空工业史(1909-1949) |year=2013 | publisher =航空工业出版社 | page=341}}</ref>後勤部の機械師、1931年から[[崔用徳]]の推薦により1937年まで{{仮リンク|国民政府政府軍事委員会委員長侍従室|label=委員長侍従室|zh|國民政府軍事委員會委員長侍從室}}飛機管理処で介石の自家用飛行機(福特機)の機械師兼副操縦士を務めた。操縦士はアメリカ人のエドワード・スミス<ref>{{Cite web |url = https://cnac.org/eddiesmith01.htm |title = V. EDWARD SMITH (1900-1970) |publisher = CNAC |language = en |accessdate = 2020-04-18 }}</ref>であった。1932年3月、[[金鉄男]]の長女の金賢学と結婚。1935年4月、介石が侍従室第一処主任の[[晏道剛]]に対して孫の毎月の給料を40元に増やすよう電報を送っている<ref>{{Cite web |url = http://catalog.digitalarchives.tw/item/00/6a/34/c4.html|title = 一般資料—手稿錄底 (二十二) |publisher = 典蔵台湾 |language = 中国語 |accessdate = 2017-06-20 }}</ref>。


南京陥落後は1939年ごろから[[ダグラス DC-2]] 36号(大達機、操縦士:衣復恩、副操縦士:楊辛癸)機械員{{Sfn|衣|2011|p=55}}として輸送任務に就いていたが、1941年、重慶{{仮リンク|南川飛行場|zh|南川機場}}(昆明飛行場とも)にて修理不可能だった航空機を修理したことから航空委員会に呼び戻され、飛行工程師。同年、[[重慶爆撃]](成都とも)で爆弾が防空洞を直撃し妻子が亡くなった。当時、孫は[[ヤンゴン|ラングーン]]で勤務していたが、電報を受け取ると帰国し、操縦士の衣復恩とともに金鉄男のもとを訪れて金より遺品を見せられた<ref name=ifeng/>。甥の金正平によれば、孫は遺品を見たあと無言で玄関を飛び出し、衣復恩と肩を抱きかかえて号泣していたという<ref name=wenweipo>{{Cite news | title =親人遭鬼子炸死 餘生盼一家平安 | newspaper =中国専題香港文匯報 | language = zh| date =2015-04-03 | url = http://paper.wenweipo.com/2015/04/03/CN1504030012.htm | accessdate =2020-04-18 }}</ref><ref name=ifeng>{{Cite news | title =在中国抗战的“朝鲜公子”曾为介石驾驶专机 | 止戈出品 | newspaper = 鳳凰網 | language = zh| date =2019-02-01 | url = https://feng.ifeng.com/c/7jwlfBAMO3f | accessdate =2020-04-18 }}</ref>。
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その後、大達機機械員として復帰したと思われるが、[[太平洋戦争]]勃発後の1943年1月、成都太平寺飛行場にて中国初の[[C-47 (航空機)|C-47]]「大西洋号」を受領する。大西洋号は介石専用機として使われた他、夜間に{{仮リンク|大別山|zh|大别山}}の最前線に飛来し、遊撃部隊に紙幣を投下する特別任務にも就いた{{Sfn|衣|2011|pp=90-91}}。ほどなくして担当を外れ<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=_3-4CgAAQBAJ&pg=PT162&lpg=PT162#v=onepage&q&f=false|author =史不平 |title=國共恩怨 |year=2015 |publisher=哈耶出版社 |page=162}}}</ref>、[[インド]]から[[ヒマラヤ山脈]]を越えて中国本土への物資輸送に従事。「{{仮リンク|ハンプ越え|zh|驼峰航线}}」と呼ばれるこの輸送作戦は、終戦までに594機の輸送機を墜落させる過酷なものであった。中央政府から宣威奨章を授与される。1943年、{{仮リンク|華西協合大学|zh|華西協合大學}}学生だった中国人女性の陣功正と交際を始め、翌1944年、再婚<ref name=ifeng/>。
その後、大達機機械員として復帰したと思われるが、[[太平洋戦争]]勃発後の1943年1月、成都太平寺飛行場にて中国初の[[C-47 (航空機)|C-47]]「大西洋号」を受領する。大西洋号は介石専用機として使われた他、夜間に{{仮リンク|大別山|zh|大别山}}の最前線に飛来し、遊撃部隊に紙幣を投下する特別任務にも就いた{{Sfn|衣|2011|pp=90-91}}。ほどなくして担当を外れ<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=_3-4CgAAQBAJ&pg=PT162&lpg=PT162#v=onepage&q&f=false|author =史不平 |title=國共恩怨 |year=2015 |publisher=哈耶出版社 |page=162}}}</ref>、[[インド]]から[[ヒマラヤ山脈]]を越えて中国本土への物資輸送に従事。「{{仮リンク|ハンプ越え|zh|驼峰航线}}」と呼ばれるこの輸送作戦は、終戦までに594機の輸送機を墜落させる過酷なものであった。中央政府から宣威奨章を授与される。1943年、{{仮リンク|華西協合大学|zh|華西協合大學}}学生だった中国人女性の陣功正と交際を始め、翌1944年、再婚<ref name=ifeng/>。


1945年、中国航空公司(CNAC)の副操縦士。[[ビルマ]]、インド、[[昆明]]、[[麗江]]を飛行。5月よりC-47B 219号「美齢号」(操縦士:衣復恩、副操縦士:汪正中)の機務員{{Sfn|衣|2011|p=124}}(副操縦士兼機械師とも<ref name=ifeng/>)。
1945年、中国航空公司(CNAC)の副操縦士。[[ビルマ]]、インド、[[昆明]]、[[麗江]]を飛行。5月よりC-47B 219号「美齢号」(操縦士:衣復恩、副操縦士:汪正中)の機務員{{Sfn|衣|2011|p=124}}(副操縦士兼機械師とも<ref name=ifeng/>)。
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== 出典 ==
== 出典 ==
* {{仮リンク|衣復恩|zh|衣復恩}}、{{仮リンク|ロイヤル・レオナルド|en|Royal Leonard}}:介石専用機の操縦士
* {{仮リンク|衣復恩|zh|衣復恩}}、{{仮リンク|ロイヤル・レオナルド|en|Royal Leonard}}:介石専用機の操縦士
* [[金英哉]]:同じく朝鮮出身で介石専用機の整備士。戦後は韓国空軍で勤務
* [[金英哉]]:同じく朝鮮出身で介石専用機の整備士。戦後は韓国空軍で勤務


== 出典 ==
== 出典 ==

2020年9月15日 (火) 14:42時点における版

孫基宗
生誕 1911年11月18日[1]
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮黄海道殷栗郡
死没 1991年(79 - 80歳没)
中華人民共和国の旗 中華人民共和国雲南省昆明
墓地 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮新義州
国籍 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮
中華民国の旗 中華民国
中華人民共和国の旗 中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
配偶者 金賢学、陣功正
飛行経歴
著名な実績 蔣介石専用機の整備士
空軍 中華民国空軍
戦争 日中戦争
受賞 宣威勲章
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孫 基宗(ソン・キジョン、손기종)は中華民国及び中華人民共和国飛行機副操縦士または整備士

経歴

1911年、黄海道殷栗で孫斗煥の長男として生まれる。1919年4月、父に連れられ上海に家族で移住。仁成小学校と三一公学で学んだ。上海高等汽車専科学校機械高級第一班を卒業し[1]、1928年、上海航空工廠で航空技術を学ぶ。

1930年から南京国民政府軍政部航空署に属し、民故宮飛行場にある第1飛機修理廠(廠長:林福元[2]後勤部の機械師、1931年から崔用徳の推薦により1937年まで委員長侍従室中国語版飛機管理処で蔣介石の自家用飛行機(福特機)の機械師兼副操縦士を務めた。操縦士はアメリカ人のエドワード・スミス[3]であった。1932年3月、金鉄男の長女の金賢学と結婚。1935年4月、蔣介石が侍従室第一処主任の晏道剛に対して孫の毎月の給料を40元に増やすよう電報を送っている[4]

南京陥落後は1939年ごろからダグラス DC-2 36号(大達機、操縦士:衣復恩、副操縦士:楊辛癸)機械員[5]として輸送任務に就いていたが、1941年、重慶南川飛行場中国語版(昆明飛行場とも)にて修理不可能だった航空機を修理したことから航空委員会に呼び戻され、飛行工程師。同年、重慶爆撃(成都とも)で爆弾が防空洞を直撃し妻子が亡くなった。当時、孫はラングーンで勤務していたが、電報を受け取ると帰国し、操縦士の衣復恩とともに金鉄男のもとを訪れて金より遺品を見せられた[1]。甥の金正平によれば、孫は遺品を見たあと無言で玄関を飛び出し、衣復恩と肩を抱きかかえて号泣していたという[6][1]

その後、大達機機械員として復帰したと思われるが、太平洋戦争勃発後の1943年1月、成都太平寺飛行場にて中国初のC-47「大西洋号」を受領する。大西洋号は蔣介石専用機として使われた他、夜間に大別山中国語版の最前線に飛来し、遊撃部隊に紙幣を投下する特別任務にも就いた[7]。ほどなくして担当を外れ[8]インドからヒマラヤ山脈を越えて中国本土への物資輸送に従事。「ハンプ越え中国語版」と呼ばれるこの輸送作戦は、終戦までに594機の輸送機を墜落させる過酷なものであった。中央政府から宣威奨章を授与される。1943年、華西協合大学中国語版学生だった中国人女性の陣功正と交際を始め、翌1944年、再婚[1]

1945年、中国航空公司(CNAC)の副操縦士。ビルマ、インド、昆明麗江を飛行。5月よりC-47B 219号「美齢号」(操縦士:衣復恩、副操縦士:汪正中)の機務員[9](副操縦士兼機械師とも[1])。

終戦後も中国に残り、1950年から上海民間航空[10]の副操縦士、1952年から重慶民間航空[11]の飛行工程師、1957年から1965年まで雲南民間航空の地面設備工程師を担当した。文化大革命の時は、家族に身の危険を感じた事から国務院に嘆願書を何度も送り、周恩来の特例を受けて5人の子を朝鮮国籍にした[1]。また、迫害を避けるために宣威奨章を捨てた。1979年、60年ぶりに北朝鮮に一時帰国[1]

1991年、雲南省昆明で肝硬変により死去。本人の遺言により、遺骨は北朝鮮に埋葬されることとなったが、故郷に親族がいなかったため、長男が住む新義州に埋葬された[1]

人物

  • 日本語、英語のほか、中国語(上海話広東語)を話せたという。朝鮮語は同胞と会うとき以外は家でも滅多に話す事はなかったが、晩年は死が迫るにつれ日常的に話すようになり、最期の言葉は朝鮮語で「家へ帰ろう、家へ帰ろう…」だったという[1]
  • 望郷の念は強く、自宅に金日成の肖像画を掲げ、キムチ冷麺を作ったり、朝鮮中央放送朝鮮画報で熱心に朝鮮の情報を集めていた[1]。北朝鮮に一家で移住を考えていたが、息子らから「まだ国家は発展途上で苦しいです、父さん母さんは年を取っているので自分たちが先に様子を見てきましょう」と言われていた[1]
  • 戦時中の事を家族に語る事はなかった[6]。唯一、妻子が死亡した事だけ後妻の陣功正に話したという[1]

親族

出典

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m “在中国抗战的“朝鲜公子”曾为蔣介石驾驶专机” (中国語). 鳳凰網. (2019年2月1日). https://feng.ifeng.com/c/7jwlfBAMO3f 2020年4月18日閲覧。 
  2. ^ 中国航空工业史编修办公室『中国近代航空工业史(1909-1949)』航空工业出版社、2013年、341頁。 
  3. ^ V. EDWARD SMITH (1900-1970)” (英語). CNAC. 2020年4月18日閲覧。
  4. ^ 一般資料—手稿錄底 (二十二)” (中国語). 典蔵台湾. 2017年6月20日閲覧。
  5. ^ 衣 2011, p. 55.
  6. ^ a b “親人遭鬼子炸死 餘生盼一家平安” (中国語). 中国専題香港文匯報. (2015年4月3日). http://paper.wenweipo.com/2015/04/03/CN1504030012.htm 2020年4月18日閲覧。 
  7. ^ 衣 2011, pp. 90–91.
  8. ^ 史不平 (2015). 國共恩怨. 哈耶出版社. p. 162. https://books.google.co.jp/books?id=_3-4CgAAQBAJ&pg=PT162&lpg=PT162#v=onepage&q&f=false }
  9. ^ 衣 2011, p. 124.
  10. ^ 中国民用航空局上海管理局のことか
  11. ^ 中国民用航空局成都管理局のことか

参考