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== 人物 ==
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[[済]]・[[胡質]]と並び、年少の頃から[[長江]]一帯で名を馳せていた朱績という人物がいたというが(「魏志胡質伝」)、この朱績と同一人物であるかどうかは明らかではない。
[[済]]・[[胡質]]と並び、年少の頃から[[長江]]一帯で名を馳せていた朱績という人物がいたというが(「魏志胡質伝」)、この朱績と同一人物であるかどうかは明らかではない。


父親が高位にあったことから、郎(宮中でさまざまな任務を担当する)に任じられ、後に建忠[[都尉]]の官を授かった。
父親が高位にあったことから、郎(宮中でさまざまな任務を担当する)に任じられ、後に建忠[[都尉]]の官を授かった。

2020年9月15日 (火) 15:29時点における版

朱績

左大司馬・都護・当陽侯
出生 不詳
揚州丹陽郡故鄣県
死去 建衡2年(270年
荊州宜都郡西陵県
拼音 Zhū Jī
公緒
別名 後名:施績
主君 孫権孫亮孫休孫晧
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朱 績(しゅ せき、生年不明 - 270年)は、中国三国時代武将に仕えた。後に名前を施績に変える。昔から中国も施績と呼ばれることが多い。公緒。父は朱然。義叔父は朱才。娘は施淑女[1]。『三国志』呉志朱然伝に付記されている。

人物

蔣済胡質と並び、年少の頃から長江一帯で名を馳せていた朱績という人物がいたというが(「魏志胡質伝」)、この朱績と同一人物であるかどうかは明らかではない。

父親が高位にあったことから、郎(宮中でさまざまな任務を担当する)に任じられ、後に建忠都尉の官を授かった。

231年、叔父が死去すると、その軍勢を受け継いだ。潘濬の下で五渓の異民族(五渓蛮)討伐に参加し、大胆さと実行力があったことで賞賛を受けた。

偏将軍府の営下督の官に昇進し、盗賊の取り締まりに当たった。法をしっかりと守って曲げることがなかったといわれる。

魯王孫覇は朱績と交友を結びたいと思い、役所に直接やってきて朱績と同座し、親しい関係を結ぼうとしたが、朱績はこれを恐れ多いとして断っている。二宮事件のときに、孫和(太子)に与した人物として、大都督になった施績(朱績)の名が挙がっている(「呉主五子伝」が引く『通語』)。

249年、父が死去するとその跡を引き継ぎ、平魏将軍・楽郷督に任じられた。

250年12月、王昶は、呉が二宮の変で弱体化したのにつけ込み、王基州泰とともに三方面から呉に攻勢を仕掛けた(魏志「王昶伝」)。王昶率いる本隊は朱績の守備する江陵を攻めてきた。朱績は迎撃したが敗れ、江陵に撤退したが、敵の追撃を受けて数百の死者を出した。さらに、王昶は撤退する振りをしつつ伏兵を設け、呉軍を挑発したため、朱績は城から出撃してしまい、待ち受けていた王昶の精鋭に敗れた。朱績は将軍の鍾離茂許旻らを殺された上で、再び城に撤退した(魏志「王昶伝」)。しかし王昶は江陵を包囲したものの、落とすことができず、呉の陸凱達が援軍に赴いて来たため撤兵した(呉志「呉主伝」)。朱績は敵の士気が衰えていると判断し、好機と見て追撃しようと思ったが、兵が少なかったため奮威将軍の諸葛融に手紙を送り、共同で敵を討ち破ろうと計画した。諸葛融がこれに同意したため、朱績は出撃して紀南の城から30里の地点で王昶に追いつき、緒戦で勝利を収めたが、諸葛融が約束を破り現れなかったため、途中で形勢が悪くなり、王昶を逃すことになってしまった。孫権はこれを聞いて朱積の活躍を喜んだ一方、諸葛融の失態を怒ったが、諸葛恪が高位の重臣であったため免官にならず済んだ。この事件があって以来、元から仲が良くなかった諸葛兄弟との仲は、さらに悪くなった。

252年、鎮東将軍に昇進した。この年の11月、魏の司馬師は孫権が崩御したことを受け、呉を併呑するために揚州豫州荊州の三都督を動員し、呉領へ三方向から進行した。朱績は荊州において、再び南下してきた王昶を迎撃したが、東興で魏軍が大敗したため、王昶も屯営を焼き払って早々に撤退した。同年、諸葛恪が合肥新城を攻撃したとき、朱績も軍を率いて協力したが、諸葛恪は朱績を半州に留め、諸葛融に朱績の担当するはずだった任務を任せた。

253年、諸葛恪が誅殺されると、命令を受けて孫壱全煕らと共に公安の諸葛融を攻め、城を包囲して自害に追い込んだ。その後、楽郷に戻って仮節を授けられた。

かつて父は、義理の祖父朱治の喪が明けたとき、元の姓に戻りたいと願い出たが、孫権はそれを許さなかった。朱績が五鳳年間(254年 - 256年)に上表し、はじめて施姓に戻ることができた。

257年驃騎将軍に昇進した。このころ中央では孫綝が政権を握り、重臣達に動揺が起こっていた。施績は、この機に乗じて魏が攻めて来るに違いないと思い、ひそかに蜀漢と連絡をとり、呉が併呑されてしまわないよう、蜀に牽制を依頼した。蜀は閻宇に五千の兵を指揮させて白帝城に送り、朱績の指示を待たせた。

258年上大将軍・都護督に昇進し、巴丘から西陵までの守備に当たった。

263年、蜀が魏に攻められた際、留平と共に軍をどの方向に出すべきか検討し、蜀を救援しようとしたが、蜀が滅んだため取りやめた。

264年、左大司馬に昇進した。魏の詔勅によると孫休崩御後の朱績は、猜疑心をもって自らあれこれ推量したため、上官に嫌悪されたという(魏志「三少帝紀」)。

270年に死去し、守備地域は陸抗が引き継ぐことになった(「陸遜伝」付「陸抗伝」)。

評価

上に挙げた魏の詔勅では、施績のことを「賊国の名臣」と述べている。

陳寿は「施績は呂拠朱異と共に軍の指揮者として有用な才を備え、よく父祖以来の仕事を受け継いだ」と評価している。

陸機は『弁亡論』にて、威信の重さで人々に知られていたと語った。また『会稽典録』には、呉の唐盛は朱績のことを知勇兼備の名将だと思っていた、と書かれている。

出典

  1. ^ 女道士として出家(『真誥』巻12・稽神枢第2)