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[[建興 (蜀)|建興]]元年([[223年]])、[[丞相]][[諸葛亮]]に抜擢されて西曹掾となった。
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[[廖立]]が[[琬]]と李邵の前で重臣に対して苛烈な批判を行ったため、二人は事細かに諸葛亮に報告し、結果廖立は失脚することとなった。
[[廖立]]が[[琬]]と李邵の前で重臣に対して苛烈な批判を行ったため、二人は事細かに諸葛亮に報告し、結果廖立は失脚することとなった。


建興3年(225年)、諸葛亮が南征した際、治中従事として留守を命じられたが、この年なくなった。
建興3年(225年)、諸葛亮が南征した際、治中従事として留守を命じられたが、この年なくなった。

2020年9月15日 (火) 15:53時点における版

李 邵(り しょう、生年不詳 - 225年)は、後漢末期から三国時代蜀漢政治家永南益州広漢郡郪県の人。

概要

劉備が益州を平定した後、州の書佐部従事となった。

建興元年(223年)、丞相諸葛亮に抜擢されて西曹掾となった。

廖立蔣琬と李邵の前で重臣に対して苛烈な批判を行ったため、二人は事細かに諸葛亮に報告し、結果廖立は失脚することとなった。

建興3年(225年)、諸葛亮が南征した際、治中従事として留守を命じられたが、この年なくなった。

陳寿の書いた『益部耆旧雑記』によると、李邵と兄の李朝、それに若死にした弟はそれぞれ才能と名声があり、当時の蜀漢の人々によって李氏の三龍と呼ばれていた。

また、諸葛亮が姜維を賞賛したとき、比較対照として馬良と共に李邵の名を上げている。

蜀の名臣を讃える楊戯の『季漢輔臣賛』では、李邵の思慮深さを評価している。

参考文献

正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7