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1895年(明治28年)10月10日、東京芝に生まれる<ref>小川とわ 1964 pp=27-36<!--「残された若夫婦」--></ref>。1912年(明治45年)、17歳で、小川春之助に嫁ぐ<ref name="Seirei"/><ref name="Seirei19-26">小川とわ 1964 pp=19-26<!--「鉛筆一家に結ばれる」--></ref>。夫の父小川作太郎は鉛筆を作る職人で自前の鉛筆工場を持っていた時期もあり、親族にも鉛筆業者が多かった<ref name="Seirei19-26"/><ref name="Tombow100">{{Cite web|title=トンボ鉛筆100年史 {{!}} ebook5|url=https://my.ebook5.net/tombow/tL6UMg/|website=my.ebook5.net|accessdate=2020-09-26|language=ja}}</ref>。[[1913年]]([[大正]]2年)夫、春之助が[[浅草]]瓦町(現東京都台東区柳橋)に「小川春之助商店」を開業<ref name="Seirei37-44">小川とわ 1964 pp=37-44<!--「柳橋の門出」--></ref><ref>トンボ鉛筆100年史 p=10</ref>。当初は文房具類一式を扱っていたが、次第に鉛筆の製造販売に注力していく<ref name="Seirei37-44"/><ref name="Seirei45-53">小川とわ 1964 pp=45-53<!--「輸出景気の波に乗る」--></ref>。とわは家事育児の傍ら、会社の計理を担当すると共に、トンボ鉛筆黎明期には店の評判を工夫する、販売促進や宣伝も熱心に担当した<ref name="Seirei54-62">小川とわ 1964 pp=54-62<!--「湧き出るアイディア」--></ref><ref name="Seirei70-80">小川とわ 1964 pp=70-80<!--「初荷」--></ref>。 |
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夫の死後、執筆した著書『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』 |
夫の死後、執筆した著書『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』では、本人の人生と不可分だったトンボ鉛筆創成期からの50年の歴史を知ることができる<ref name="Seirei">{{Cite book|title=蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー|date=|year=1964|publisher=朝日書院|author=小川とわ}} {{NDLJP|2503676}}</ref>。本を書き上げた後、刊行直前の1964年5月25日に死去。従六位勲五等瑞宝章を追贈された<ref name="Tombow100" />。 |
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== 家族・親族 == |
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== 参考文献 == |
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* 『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』朝日書院 1964年 |
* 小川とわ『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』朝日書院 1964年 |
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* 『トンボ鉛筆100年史』トンボ鉛筆 2013年 |
* 『トンボ鉛筆100年史』トンボ鉛筆 2013年 |
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2020年9月29日 (火) 09:02時点における版
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おがわ とわ 小川 とわ | |
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生誕 |
1895年10月10日 東京府東京市 |
死没 | 1964年5月25日(68歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 小川春之助(夫) |
子供 |
小川八郎(長男) 小川浩平(二男) 小川隆司(三男) |
親戚 |
小川作太郎(義父) 小川洋平(孫) 小川晃弘(孫) |
小川 とわ(1895年10月10日 - 1964年5月25日)は、日本の実業家。位階は従六位。勲等は勲五等。
株式会社トンボ鉛筆製作所会長(第2代)などを歴任した。
概要
トンボ鉛筆創立者である小川春之助の妻で、夫の事業を支え続け、夫の死後はトンボ鉛筆の会長を務めた。
生涯
1895年(明治28年)10月10日、東京芝に生まれる[1]。1912年(明治45年)、17歳で、小川春之助に嫁ぐ[2][3]。夫の父小川作太郎は鉛筆を作る職人で自前の鉛筆工場を持っていた時期もあり、親族にも鉛筆業者が多かった[3][4]。1913年(大正2年)夫、春之助が浅草瓦町(現東京都台東区柳橋)に「小川春之助商店」を開業[5][6]。当初は文房具類一式を扱っていたが、次第に鉛筆の製造販売に注力していく[5][7]。とわは家事育児の傍ら、会社の計理を担当すると共に、トンボ鉛筆黎明期には店の評判を工夫する、販売促進や宣伝も熱心に担当した[8][9]。
夫の死後、執筆した著書『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』では、本人の人生と不可分だったトンボ鉛筆創成期からの50年の歴史を知ることができる[2]。本を書き上げた後、刊行直前の1964年5月25日に死去。従六位勲五等瑞宝章を追贈された[4]。
家族・親族
夫との間に3男4女をもうけた[10]。息子たちは家業を支え、長男 小川八郎、次男 小川浩平、三男 小川隆司は順に社長を務めた[4]。その結果、小川家は歴代社長を輩出し続け、長年にわたって同族経営が続いた。とわの孫の代になっても、小川洋平や小川晃弘が社長に就任しているが、洋平が複数回にわたって逮捕され役職を辞任するなど不祥事が続いた[11][12][13]。
脚注
- ^ 小川とわ 1964 pp=27-36
- ^ a b 小川とわ (1964). 蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー. 朝日書院 NDLJP:2503676
- ^ a b 小川とわ 1964 pp=19-26
- ^ a b c “トンボ鉛筆100年史 | ebook5”. my.ebook5.net. 2020年9月26日閲覧。
- ^ a b 小川とわ 1964 pp=37-44
- ^ トンボ鉛筆100年史 p=10
- ^ 小川とわ 1964 pp=45-53
- ^ 小川とわ 1964 pp=54-62
- ^ 小川とわ 1964 pp=70-80
- ^ 『蜻蛉日記』156ページ、『トンボ鉛筆100年史』35、39、58ページ
- ^ “トンボ鉛筆会長が覚せい剤所持 | 全国ニュース | 四国新聞社”. SHIKOKU NEWS. 四国新聞社 (2007年8月14日). 2020年9月28日閲覧。
- ^ “トンボ会長が辞任 覚せい剤で逮捕受け: J-CAST ニュース”. J-CASTニュース. ジェイ・キャスト (2007年8月16日). 2020年9月28日閲覧。
- ^ “NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで”. NIKKEI NET. 日本経済新聞社 (2008年6月16日). 2008年6月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月28日閲覧。
参考文献
- 小川とわ『蜻蛉日記(せいれいにっき)ーえんぴつと共に五十年ー』朝日書院 1964年
- 『トンボ鉛筆100年史』トンボ鉛筆 2013年
外部リンク
ビジネス | ||
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先代 小川作太郎 |
株式会社トンボ鉛筆製作所会長 第2代:1957年 - 1964年 |
次代 (廃止) |