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'''田中 禄春'''(たなか ろくしゅん、- [[2017年]][[11月]])は、[[日本]]の[[ヤクザ]]、[[実業家]]。三代目[[山口組]][[富士会]]初代会長。[[一心会]]顧問。[[富士観光]]社長<ref>出典は、[[溝口敦]]『山口組ドキュメント 血と抗争』[[三一書房]]、1985年、ISBN 4-380-85236-9 のP.289</ref>。[[在日本大韓民国民団]]中央本部常任顧問。在日本大韓民国民団大阪本部顧問。[[大韓民国|韓国]][[江原道 (南)|江原道]][[高城郡 ()|高城郡]]出身。[[在日韓国人]]。本名は'''韓禄春'''(ハン・ロクチュン、한록춘)。
'''田中 禄春'''(たなか ろくしゅん、- [[2017年]][[11月]])は、[[日本]]の[[ヤクザ]]、[[実業家]]。三代目[[山口組]][[富士会]]初代会長。[[一心会]]顧問。[[富士観光]]社長<ref>出典は、[[溝口敦]]『山口組ドキュメント 血と抗争』[[三一書房]]、1985年、ISBN 4-380-85236-9 のP.289</ref>。[[在日本大韓民国民団]]中央本部常任顧問。在日本大韓民国民団大阪本部顧問。[[大韓民国|韓国]][[江原道 (南)|江原道]][[高城郡 (江原道)#大韓民国政府統治範囲|高城郡]]出身。[[在日韓国人]]。本名は'''韓禄春'''(ハン・ロクチュン、한록춘)。


==来歴==
==来歴==
[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国領朝鮮]][[江原道 (日本統治時代)|江原道]][[高城郡 (江原道)|高城郡]](現・[[大韓民国|韓国]][[江原道 (南)|江原道]][[高城郡 ()|高城郡]])で生まれる。14歳の時に単身で来日し、[[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]の[[バー (酒場)|バー]]「黒猫」で、ボーイ兼皿洗いをして働いた。終戦直後は[[うどん]]屋の闇商売を始め、昭和23年([[1948年]])、大阪[[ミナミ]]に小料理屋「新宿」を出店。その後、[[曽根崎警察署]]の裏に、[[キャバレー]]「ヴィーナス」をオープンさせた。2017年11月死去。
[[日本統治時代の朝鮮|大日本帝国領朝鮮]][[江原道 (日本統治時代)|江原道]][[高城郡 (江原道)|高城郡]](現・[[大韓民国|韓国]][[江原道 (南)|江原道]][[高城郡 (江原道)#大韓民国政府統治範囲|高城郡]])で生まれる。14歳の時に単身で来日し、[[大阪府]][[大阪市]][[港区 (大阪市)|港区]]の[[バー (酒場)|バー]]「黒猫」で、ボーイ兼皿洗いをして働いた。終戦直後は[[うどん]]屋の闇商売を始め、昭和23年([[1948年]])、大阪[[ミナミ]]に小料理屋「新宿」を出店。その後、[[曽根崎警察署]]の裏に、[[キャバレー]]「ヴィーナス」をオープンさせた。2017年11月死去。


===山口組の舎弟として===
===山口組の舎弟として===

2020年11月24日 (火) 01:03時点における版

田中 禄春(たなか ろくしゅん、- 2017年11月)は、日本ヤクザ実業家。三代目山口組富士会初代会長。一心会顧問。富士観光社長[1]在日本大韓民国民団中央本部常任顧問。在日本大韓民国民団大阪本部顧問。韓国江原道高城郡出身。在日韓国人。本名は韓禄春(ハン・ロクチュン、한록춘)。

来歴

大日本帝国領朝鮮江原道高城郡(現・韓国江原道高城郡)で生まれる。14歳の時に単身で来日し、大阪府大阪市港区バー「黒猫」で、ボーイ兼皿洗いをして働いた。終戦直後はうどん屋の闇商売を始め、昭和23年(1948年)、大阪ミナミに小料理屋「新宿」を出店。その後、曽根崎警察署の裏に、キャバレー「ヴィーナス」をオープンさせた。2017年11月死去。

山口組の舎弟として

昭和28年(1953年)には、大阪ミナミの宗右衛門町にマンモスキャバレー「富士」をオープン。しかし、地元の愚連隊春日会西宮市諏訪組柏木組からみかじめ料などを要求され、自ら諏訪組の舎弟となって事業を守ろうとしたものの断られる。その後、大阪市淀川区十三中川組中川猪三郎組長の紹介で、昭和32年(1957年)10月に持参金を持って、三代目山口組田岡一雄組長の盃を受ける。田中は田岡の若衆となり富士会を結成、更に大野組組員だった桂木正夫(後の四代目山口組若頭補佐、五代目山口組舎弟頭補佐)を若衆とした。昭和35年(1960年)8月5日にはマンモスキャバレー「キング」を開店し、開店祝いでは田端義夫が出演すると共に田岡組長が来店。その後の打ち上げでのトラブルが明友会事件の発端となっている。

だが、第一次頂上作戦で山口組の主だった傘下組織が摘発・解散の憂き目に遭い、田中も新たに起こした山口組一心会を昭和41年(1966年)8月23日[2]に解散し、ヤクザから引退する。

民団幹部として

昭和40年(1965年)に日韓基本条約が締結されると、近畿2府4県の在日本大韓民国民団関係者と実業家を糾合して「駐大阪総領事館建設期成会」を発足。田中は会長となって、御堂筋駐大阪総領事館を竣工させた。

その後も近畿地方の韓国系実業家の有力者として活動し、平成2年(1990年)の国際花と緑の博覧会では資金を提供している。民団でも2003年に民団大阪本部顧問となり、2006年には民団中央本部常任顧問となっている。

出身地の大韓民国江原道への援助も多く、平成11年(1999年)9月の江原国際観光博覧会には資金面で援助し、この貢献により江原道名誉道民に選ばれている。平成14年(2002年)の台風15号の来襲時には2000万ウォンを寄付した。また平成15年(2003年)の大邱地下鉄惨事にあたっても民団中央本部に義援金1000万ウォンを提供、同年の台風14号でも義援金として500万円を民団中央本部・金宰淑団長に渡している。

脚注

  1. ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9 のP.289
  2. ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9 のP.289

参考文献