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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== スクループ家(第1期) ===
=== スクループ家(第1期) ===
{{仮リンク|ボルトンのスクループ男爵|label=ボルトンの第11代スクループ男爵|en|Baron Scrope of Bolton}}{{仮リンク|エマヌエル・スクループ (初代サンダーランド伯爵)|label=エマヌエル・スクループ|en|Emanuel Scrope, 1st Earl of Sunderland}}<small>(1584-1630)</small>が[[1627年]][[6月19日]]にサンダーランド伯爵に叙されたのが最初の創設である。しかし彼には男子がなかったため、彼の死とともに廃絶している(スクループ男爵位は[[停止 (爵位)#爵位の休止|休止状態]]となっている)<ref name="CPsun1">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/sunderland1627.htm|title=Sunderland, Earl of (E, 1627 - 1630)|accessdate= 2015-11-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="Lundy ES1sun">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p2536.htm#i25358|title=Emmanuel Scrope, 1st Earl of Sunderland|accessdate= 2015-11-17 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
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=== スペンサー=チャーチル家(第2期) ===
=== スペンサー=チャーチル家(第2期) ===
第2期のサンダーランド伯爵は、ウォームレイトンの第3代スペンサー男爵[[ヘンリー・スペンサー (初代サンダーランド伯)|ヘンリー・スペンサー]]<small>(1620–1643)</small>が、[[ピューリタン革命]]のさなかの[[1643年]][[6月8日]]に叙されたのに始まる<ref name="CPsun2">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/sunderland1643.htm|title=Sunderland, Earl of (E, 1643)|accessdate= 2015-11-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="Lundy 1sun">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p10528.htm#i105277|title=Henry Spencer, 1st Earl of Sunderland|accessdate= 2015-11-17 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。彼にこの爵位が与えられたのは彼が王党派に属しており、国王に多額の寄付をしていたためと思われる。しかし受爵からまもなく議会軍との戦闘で戦死している{{sfn|海保眞夫|1999|p=16-17}}。
第2期のサンダーランド伯爵は、ウォームレイトンの第3代スペンサー男爵[[ヘンリー・スペンサー (初代サンダーランド伯)|ヘンリー・スペンサー]]<small>(1620–1643)</small>が、[[ピューリタン革命]]のさなかの[[1643年]][[6月8日]]に叙されたのに始まる<ref name="CPsun2">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/sunderland1643.htm|title=Sunderland, Earl of (E, 1643)|accessdate= 2015-11-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="Lundy 1sun">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p10528.htm#i105277|title=Henry Spencer, 1st Earl of Sunderland|accessdate= 2015-11-17 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。彼にこの爵位が与えられたのは彼が王党派に属しており、国王に多額の寄付をしていたためと思われる。しかし受爵からまもなく議会軍との戦闘で戦死している{{sfn|海保眞夫|1999|p=16-17}}。


その息子である第2代サンダーランド伯爵[[ロバート・スペンサー (第2代サンダーランド伯)|ロバート・スペンサー]]<small>(1640–1702)</small>は[[イングランド王政復古|王政復古]]後の政界で活躍した。[[カトリック]]の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]が即位すると彼に合わせてカトリックに改宗したが、ジェームズ2世の旗色が悪くなるや見限って[[オランダ]]へ亡命し、オラニエ公ウィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])の側近となり、プロテスタントに回心、[[名誉革命]]後もウィリアム3世に側近として重用され続けた。こうした経歴のため無節操と批判されることが多い人物である{{sfn|海保眞夫|1999|p=17-18}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=728}}。
その息子である第2代サンダーランド伯爵[[ロバート・スペンサー (第2代サンダーランド伯)|ロバート・スペンサー]]<small>(1640–1702)</small>は[[イングランド王政復古|王政復古]]後の政界で活躍した。[[カトリック]]の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]が即位すると彼に合わせてカトリックに改宗したが、ジェームズ2世の旗色が悪くなるや見限って[[オランダ]]へ亡命し、オラニエ公ウィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]])の側近となり、プロテスタントに回心、[[名誉革命]]後もウィリアム3世に側近として重用され続けた。こうした経歴のため無節操と批判されることが多い人物である{{sfn|海保眞夫|1999|p=17-18}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=728}}。
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その息子である第3代サンダーランド伯爵[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|チャールズ・スペンサー]]<small>(1675–1722)</small>は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]幹部[[ジャントー (イギリス)|ジャントー]]の一人として[[18世紀]]初頭の政界で中枢として活躍した。[[1721年]]の[[南海泡沫事件]]で失脚するまで様々な閣僚職を歴任した{{sfn|海保眞夫|1999|p=18}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=728-729}}。彼は初代マールバラ公爵[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]の娘アンと結婚し、その間に第4代サンダーランド伯[[ロバート・スペンサー (第4代サンダーランド伯)|ロバート・スペンサー]]<small>(1701–1729)</small>と第5代サンダーランド伯[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|チャールズ・スペンサー]]<small>(1706–1758)</small>を儲けた<ref name="CPsun2" />。
その息子である第3代サンダーランド伯爵[[チャールズ・スペンサー (第3代サンダーランド伯)|チャールズ・スペンサー]]<small>(1675–1722)</small>は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]幹部[[ジャントー (イギリス)|ジャントー]]の一人として[[18世紀]]初頭の政界で中枢として活躍した。[[1721年]]の[[南海泡沫事件]]で失脚するまで様々な閣僚職を歴任した{{sfn|海保眞夫|1999|p=18}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=728-729}}。彼は初代マールバラ公爵[[ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]の娘アンと結婚し、その間に第4代サンダーランド伯[[ロバート・スペンサー (第4代サンダーランド伯)|ロバート・スペンサー]]<small>(1701–1729)</small>と第5代サンダーランド伯[[チャールズ・スペンサー (第3代マールバラ公)|チャールズ・スペンサー]]<small>(1706–1758)</small>を儲けた<ref name="CPsun2" />。


この血縁関係から第5代サンダーランド伯爵チャールズは、[[1733年]][[10月24日]]に伯母の第2代マールバラ公爵[[ヘンリエッタ・チャーチル (第2代マールバラ公)|ヘンリエッタ・チャーチル]]から第3代マールバラ公爵位を継承した。以降サンダーランド伯爵位はマールバラ公爵位の従属爵位の一つとして続いていく。[[2015年]]現在のサンダーランド伯爵位保持者は第12代マールバラ公爵[[チャールズ・スペンサー=チャーチル (第12代マールバラ公)|チャールズ・スペンサー=チャーチル]]<small>(1955-)</small>である<ref name="CPmar">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/marlborough1702.htm|title=Marlborough, Duke of (E, 1702)|accessdate= 2015-11-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
この血縁関係から第5代サンダーランド伯爵チャールズは、[[1733年]][[10月24日]]に伯母の第2代マールバラ公爵[[ヘンリエッタ・チャーチル (第2代マールバラ公)|ヘンリエッタ・チャーチル]]から第3代マールバラ公爵位を継承した。以降サンダーランド伯爵位はマールバラ公爵位の従属爵位の一つとして続いていく。[[2015年]]現在のサンダーランド伯爵位保持者は第12代マールバラ公爵[[チャールズ・スペンサー=チャーチル (第12代マールバラ公)|チャールズ・スペンサー=チャーチル]]<small>(1955-)</small>である<ref name="CPmar">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/marlborough1702.htm|title=Marlborough, Duke of (E, 1702)|accessdate= 2015-11-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


マールバラ公爵家の法定推定相続人はブランドフォード侯爵の[[儀礼称号]]を使用し、さらにその法定推定相続人はサンダーランド伯爵の儀礼称号を使用する。
マールバラ公爵家の法定推定相続人はブランドフォード侯爵の[[儀礼称号]]を使用し、さらにその法定推定相続人はサンダーランド伯爵の儀礼称号を使用する。

2020年12月4日 (金) 05:14時点における版

サンダーランド伯爵
スペンサー家の紋章
Quarterly argent and gules in the second and third quarters a fret or overall on a bend sable three escallops argent.
創設時期1643年6月8日
創設者チャールズ1世
貴族イングランド貴族
初代3代スペンサー男爵ヘンリー・スペンサー
現所有者12代マールバラ公爵チャールズ・スペンサー=チャーチル
相続人ブランドフォード侯爵ジョージ・スペンサー=チャーチル英語版
相続資格初代伯爵の嫡出の男系男子
付随称号ウォームレイトンのスペンサー男爵

サンダーランド伯爵: Earl of Sunderland)は、イギリス伯爵位。イングランド貴族

過去に2度創設されており、現存する2期目のサンダーランド伯爵位は、ウォームレイトンの第3代スペンサー男爵ヘンリー・スペンサー1643年に叙されたことに始まる。第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの代の1733年マールバラ公爵位を継承したため、それ以降はマールバラ公爵位の従属爵位の一つとなっている。2015年現在のサンダーランド伯爵位保持者は第12代マールバラ公爵チャールズ・スペンサー=チャーチルである。

歴史

スクループ家(第1期)

ボルトンの第11代スクループ男爵英語版エマヌエル・スクループ英語版(1584-1630)1627年6月19日にサンダーランド伯爵に叙されたのが最初の創設である。しかし彼には男子がなかったため、彼の死とともに廃絶している(スクループ男爵位は休止状態となっている)[1][2]

スペンサー=チャーチル家(第2期)

第2期のサンダーランド伯爵は、ウォームレイトンの第3代スペンサー男爵ヘンリー・スペンサー(1620–1643)が、ピューリタン革命のさなかの1643年6月8日に叙されたのに始まる[3][4]。彼にこの爵位が与えられたのは彼が王党派に属しており、国王に多額の寄付をしていたためと思われる。しかし受爵からまもなく議会軍との戦闘で戦死している[5]

その息子である第2代サンダーランド伯爵ロバート・スペンサー(1640–1702)王政復古後の政界で活躍した。カトリックジェームズ2世が即位すると彼に合わせてカトリックに改宗したが、ジェームズ2世の旗色が悪くなるや見限ってオランダへ亡命し、オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)の側近となり、プロテスタントに回心、名誉革命後もウィリアム3世に側近として重用され続けた。こうした経歴のため無節操と批判されることが多い人物である[6][7]

その息子である第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサー(1675–1722)は、ホイッグ党幹部ジャントーの一人として18世紀初頭の政界で中枢として活躍した。1721年南海泡沫事件で失脚するまで様々な閣僚職を歴任した[8][9]。彼は初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの娘アンと結婚し、その間に第4代サンダーランド伯ロバート・スペンサー(1701–1729)と第5代サンダーランド伯チャールズ・スペンサー(1706–1758)を儲けた[3]

この血縁関係から第5代サンダーランド伯爵チャールズは、1733年10月24日に伯母の第2代マールバラ公爵ヘンリエッタ・チャーチルから第3代マールバラ公爵位を継承した。以降サンダーランド伯爵位はマールバラ公爵位の従属爵位の一つとして続いていく。2015年現在のサンダーランド伯爵位保持者は第12代マールバラ公爵チャールズ・スペンサー=チャーチル(1955-)である[10]

マールバラ公爵家の法定推定相続人はブランドフォード侯爵の儀礼称号を使用し、さらにその法定推定相続人はサンダーランド伯爵の儀礼称号を使用する。

一覧

サンダーランド伯 第一期 (1627年)

ウォームレイトンのスペンサー男爵 (1603年)

サンダーランド伯 第2期 (1643年)

脚注

注釈

出典

  1. ^ Heraldic Media Limited. “Sunderland, Earl of (E, 1627 - 1630)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年11月17日閲覧。
  2. ^ Lundy, Darryl. “Emmanuel Scrope, 1st Earl of Sunderland” (英語). thepeerage.com. 2015年11月17日閲覧。
  3. ^ a b Heraldic Media Limited. “Sunderland, Earl of (E, 1643)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年11月17日閲覧。
  4. ^ Lundy, Darryl. “Henry Spencer, 1st Earl of Sunderland” (英語). thepeerage.com. 2015年11月17日閲覧。
  5. ^ 海保眞夫 1999, p. 16-17.
  6. ^ 海保眞夫 1999, p. 17-18.
  7. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 728.
  8. ^ 海保眞夫 1999, p. 18.
  9. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 728-729.
  10. ^ Heraldic Media Limited. “Marlborough, Duke of (E, 1702)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2015年11月17日閲覧。

参考文献

  • 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年。ISBN 978-4582850208 
  • 松村赳富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478 

関連項目