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[[1989年]]、ソビエト連邦[[人民代議員大会]]の議員に当選。[[地域間代議員グループ]]に所属して事故の真相と責任を追及、被害者救済のために活動した。
[[1989年]]、ソビエト連邦[[人民代議員大会]]の議員に当選。[[地域間代議員グループ]]に所属して事故の真相と責任を追及、被害者救済のために活動した。


[[1991年]]の[[ソ連崩壊]]後に公表された秘密文書を入手し、[[1992年]]に''«Чернобыль. Совершенно секретно»''(『チェルノブイリ極秘―隠された事故報告』[[和田あき子]]訳、[[平凡社]]、1994年4月)を出版、住民の苦難の実相とこれをもたらした背景、政府の意思決定の秘密、政治家・[[学者]]の無責任さを明らかにした。<ref>[http://www.1000peacewomen.org/eng/friedensfrauen_biographien_gefunden.php?WomenID=815 1000 Peace Women "Alla Yaroshinskaya"]</ref>
[[1991年]]の[[ソビエト邦の崩壊]]後に公表された秘密文書を入手し、[[1992年]]に''«Чернобыль. Совершенно секретно»''(『チェルノブイリ極秘―隠された事故報告』[[和田あき子]]訳、[[平凡社]]、1994年4月)を出版、住民の苦難の実相とこれをもたらした背景、政府の意思決定の秘密、政治家・[[学者]]の無責任さを明らかにした。<ref>[http://www.1000peacewomen.org/eng/friedensfrauen_biographien_gefunden.php?WomenID=815 1000 Peace Women "Alla Yaroshinskaya"]</ref>


[[イズベスチア]]、[[コムソモリスカヤ・プラウダ]]、[[ノーヴァヤ・ガゼータ]]、[[ニューズウィーク]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]などに記事を書いているほか、著書・論文多数。
[[イズベスチア]]、[[コムソモリスカヤ・プラウダ]]、[[ノーヴァヤ・ガゼータ]]、[[ニューズウィーク]]、[[ニューヨーク・タイムズ]]などに記事を書いているほか、著書・論文多数。

2020年12月26日 (土) 00:40時点における版

アラ・ヤロシンスカヤウクライナ語: Ярошинська Алла Олександрівна1953年2月14日-)は、ウクライナジャーナリスト政治家

ウクライナ西部のジトーミルに生まれた。キエフ大学卒業後、13年間地方紙の記者。1986年チェルノブイリ原子力発電所事故ののち、情報統制の枠を破って取材を重ね、ソビエト連邦政府の事故対応の問題点を糾弾し続けた。

1989年、ソビエト連邦人民代議員大会の議員に当選。地域間代議員グループに所属して事故の真相と責任を追及、被害者救済のために活動した。

1991年ソビエト連邦の崩壊後に公表された秘密文書を入手し、1992年«Чернобыль. Совершенно секретно»(『チェルノブイリ極秘―隠された事故報告』和田あき子訳、平凡社、1994年4月)を出版、住民の苦難の実相とこれをもたらした背景、政府の意思決定の秘密、政治家・学者の無責任さを明らかにした。[1]

イズベスチアコムソモリスカヤ・プラウダノーヴァヤ・ガゼータニューズウィークニューヨーク・タイムズなどに記事を書いているほか、著書・論文多数。

1992年10月28日日本記者クラブで会見に応じた[2]

同年、アメリカ合衆国医学者ジョン・ゴフマンとともにライト・ライブリフッド賞を受賞。2005年1000人のピースウーマンの一人に選ばれた。

脚注

外部リンク