コンテンツにスキップ

「ウクライナ共和国 (1991年-1996年)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: Bot作業依頼 「各年に廃止された国家・領域」カテゴリの改名に伴う修正
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ソ連崩壊」改名に伴うリンク修正依頼 - log
34行目: 34行目:
| event2 = [[ベロヴェーシ合意]]
| event2 = [[ベロヴェーシ合意]]
| date_event2 = 1991年12月10日
| date_event2 = 1991年12月10日
| event3 = [[ソ連崩壊|独立承認]]
| event3 = [[ソビエト邦の崩壊|独立承認]]
| date_event3 = 1991年12月26日
| date_event3 = 1991年12月26日
| event_end = [[ウクライナ憲法|新憲法]]の採択
| event_end = [[ウクライナ憲法|新憲法]]の採択
72行目: 72行目:


=== ソビエト連邦崩壊 ===
=== ソビエト連邦崩壊 ===
大統領に就任したクラフチュクは[[12月8日]]、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシアSFSR]]の[[ボリス・エリツィン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]最高会議議長とベラルーシの[[ベロヴェーシの森]]で会談し、ソ連からの離脱と[[独立国家共同体]](CIS)の結成で合意した([[ベロヴェーシ合意]])。この会談の結果、[[12月25日]]に[[ソ連崩壊|ソビエト連邦は崩壊した]]。
大統領に就任したクラフチュクは[[12月8日]]、[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシアSFSR]]の[[ボリス・エリツィン]][[ロシア連邦大統領|大統領]]、[[ベラルーシ]]の[[スタニスラフ・シュシケビッチ]]最高会議議長とベラルーシの[[ベロヴェーシの森]]で会談し、ソ連からの離脱と[[独立国家共同体]](CIS)の結成で合意した([[ベロヴェーシ合意]])。この会談の結果、[[12月25日]]に[[ソビエト邦の崩壊|ソビエト連邦は崩壊した]]。


=== クリミアの危機 ===
=== クリミアの危機 ===

2020年12月26日 (土) 01:00時点における版

座標: 北緯49度 東経32度 / 北緯49度 東経32度 / 49; 32

ウクライナ共和国
Українська Республіка
Ukrayins’ka Respublika

 

1991年–1996年


独立当時の国旗(1991年–92年)
国旗(1992年–96年)
国章 (1992年–96年)
標語
Воля, злагода, добро
(ウクライナ語: 自由、調和、善良)
国歌
ウクライナは滅びず
ウクライナの位置
首都 キエフ
政府 臨時政府
大統領
 •  1991年–1994年 レオニード・クラフチュク
 •  1994年–1996年[1] レオニード・クチマ
首相
 •  1990年–1992年 ヴィトリド・フォーキン英語版
 •  1996年–1996年[2] パーヴェル・ラザレンコ
歴史
 •  主権宣言の採択 1990年7月16日
 •  独立宣言 1991年8月24日
 •  国民投票英語版ロシア語版ウクライナ語版 1991年12月1日
 •  ベロヴェーシ合意 1991年12月10日
 •  独立承認 1991年12月26日
 •  新憲法の採択 1996年6月28日
通貨 ソビエト連邦ルーブル
ロシア・ルーブル
ウクライナ・ルーブル
フリヴニャ
現在 ウクライナの旗 ウクライナ
ロシアの旗 ロシア (クリミア併合)

ウクライナ共和国(ウクライナきょうわこく)は、ソビエト連邦構成国だったウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)が1991年8月24日ソビエト連邦からの独立を宣言した後、1996年に憲法が制定されるまで存在した国家(Post-Soviet transition in Ukraine)である。

地理学

領土はウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナSSR)時代および憲法制定後のウクライナと同じ(クリミア半島を含む)で、約603,700㎞2である。

歴史

独立

元々この地域はウクライナSSRとしてソ連を構成する共和国の一つであった。

1985年ミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となり、ペレストロイカグラスノスチが施行された。ソ連的体制に代わるこれらの政策は、ヨーロッパにおいて、ベルリンの壁崩壊1989年)などといった数々の社会的変動の引き金となり、1990年から1991年にかけては、ソ連では主権を宣言し独立を表明する共和国も出てきた。

1990年7月16日にウクライナSSR最高会議(ヴェルホーヴナ・ラーダ)は「1991年8月24日には現在の領土にてウクライナとして独立宣言を行う」旨を宣言する主権宣言法令第12号[訳語疑問点])を採択した。

独立宣言が採択された後の1991年12月に行われた国民投票英語版ロシア語版ウクライナ語版では、90.1%の賛成により独立が決定した[3]。同日、レオニード・クラフチュクが独立ウクライナの初代大統領に選出英語版ロシア語版ウクライナ語版された。

ソビエト連邦崩壊

大統領に就任したクラフチュクは12月8日ロシアSFSRボリス・エリツィン大統領ベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長とベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の結成で合意した(ベロヴェーシ合意)。この会談の結果、12月25日ソビエト連邦は崩壊した

クリミアの危機

移行期間の終了

連邦崩壊後、クラフチュクは積極的なウクライナ化政策と脱ロシア化政策を推進するが、経済危機に対処できずに支持率は低迷、1994年大統領選挙英語版ロシア語版ウクライナ語版ではレオニード・クチマ首相が52%の票を獲得し、第2代大統領に就任した[3]。クチマは国際通貨基金による援助を受けられるよう経済の立て直しを始めたが、後の国会選挙では対抗勢力が多数議席を得た。

1996年6月28日に最高会議は法令第13号[訳語疑問点]と題する新憲法を採択し、即日発効した。これにより、正式国名は「ウクライナ共和国」から「ウクライナ」となった[3]

脚注

  1. ^ 実際には憲法制定後の1999年まで。同年に再選され、最終的に2004年(任期満了)まで在任する。
  2. ^ 実際には憲法制定後の1997年まで。
  3. ^ a b c Ukraine: vie politique depuis 1991(ウクライナ 1991年以降の政治)”. Larousse. 2017年2月19日閲覧。