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「フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵)」の版間の差分

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初代[[ラグラン男爵]]'''フィッツロイ・ジェイムズ・ヘンリー・サマセット'''({{lang-en|FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan}}, {{Post-nominals|post-noms=[[バス勲章|GCB]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1788年]][[9月30日]] - [[1855年]][[6月29日]])は、[[イギリス]]の陸軍軍人、政治家、貴族。
初代[[ラグラン男爵]]'''フィッツロイ・ジェイムズ・ヘンリー・サマセット'''({{lang-en|FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan}}, {{Post-nominals|post-noms=[[バス勲章|GCB]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、[[1788年]][[9月30日]] - [[1855年]][[6月29日]])は、[[イギリス]]の陸軍軍人、政治家、貴族。


[[ボーフォート公爵]]家の[[世襲貴族#「ヤンガーサン」|ヤンガーサン]]として生まれる。[[1854年]]に勃発した[[クリミア戦争]]で英軍の指揮を執ったが、[[バラクラヴァの戦い]]で彼の不明瞭な命令が原因で軽騎兵旅団指揮官の第7代[[カーディガン伯爵]][[ジェイムズ・ブルーデネル (第7代カーディガン伯爵)|ジェイムズ・ブルーデネル]]による{{仮リンク|軽騎兵旅団の突撃|en|Charge of the Light Brigade}}が起こり、大損害が発生した。また[[セヴァストポリ (クリミア戦争)|セヴァストポリ]]の作戦指導も失敗して同戦いを泥沼化させ、自身も戦病死した。最終階級は[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]。また1852年にラグラン男爵に叙されている。
[[ボーフォート公爵]]家の[[世襲貴族#「ヤンガーサン」|ヤンガーサン]]として生まれる。[[1854年]]に勃発した[[クリミア戦争]]で英軍の指揮を執ったが、[[バラクラヴァの戦い]]で彼の不明瞭な命令が原因で軽騎兵旅団指揮官の第7代[[カーディガン伯爵]][[ジェイムズ・ブルーデネル (第7代カーディガン伯爵)|ジェイムズ・ブルーデネル]]による{{仮リンク|軽騎兵旅団の突撃|en|Charge of the Light Brigade}}が起こり、大損害が発生した。また[[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ包囲戦]]の作戦指導も失敗して同戦いを泥沼化させ、自身も戦病死した。最終階級は[[陸軍元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]。また1852年にラグラン男爵に叙されている。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
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[[1852年]]10月には補給庁長官に就任するとともに[[連合王国貴族]]爵位[[ラグラン男爵]]に叙され<ref name="CP BR" />{{sfn|Heathcote|1999|p=268}}、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した<ref name="HANSARD">{{Cite web |url=http://hansard.millbanksystems.com/people/lord-fitzroy-somerset|title=Lord Fitzroy Somerset |accessdate= 2016-05-26 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [http://hansard.millbanksystems.com/index.html HANSARD 1803-2005] |language= 英語 }}</ref>。
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1854年に[[クリミア戦争]]が勃発するとクリミアに派遣されて英軍の指揮を執った{{sfn|Heathcote|1999|p=268}}。1854年6月に大将、11月に陸軍元帥に昇進した{{sfn|Heathcote|1999|p=268}}。{{仮リンク|アルマの戦い|en|Battle of Alma}}や{{仮リンク|インケルマンの戦い|en|Battle of Inkerman}}を勝利に導いたが、[[バラクラヴァの戦い]]では彼の不明瞭な命令のせいで軽騎兵旅団指揮官の第7代[[カーディガン伯爵]][[ジェイムズ・ブルーデネル (第7代カーディガン伯爵)|ジェイムズ・ブルーデネル]]少将による無謀な「{{仮リンク|軽騎兵旅団の突撃|en|Charge of the Light Brigade}}」が起こり、英軍は多大な損害を出した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=122/617}}。さらに[[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ包囲戦]]も彼の判断ミスが原因で長期化してしまった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=617}}。


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現地で[[コレラ]]を罹患し、[[1855年]][[6月28日]]に戦病死した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=617}}。爵位は次男{{仮リンク|リチャード・サマセット (第2代ラグラン男爵)|label=リチャード・サマセット|en|Richard Somerset, 2nd Baron Raglan}}が継承した(長男はすでに戦死)<ref name="thepeerage" />。

2020年12月27日 (日) 05:24時点における版

初代ラグラン男爵
フィッツロイ・サマセット
FitzRoy Somerset, 1st Baron Raglan
ラグラン卿(ウィリアム・ソルター英語版画)
生誕 1788年9月30日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 グロスタシャーバドミントン・ハウス英語版
死没 1855年6月29日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 クリミア
所属組織 イギリス陸軍
軍歴 1804年 - 1855年
最終階級 陸軍元帥
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初代ラグラン男爵フィッツロイ・ジェイムズ・ヘンリー・サマセット英語: FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan, GCB, PC1788年9月30日 - 1855年6月29日)は、イギリスの陸軍軍人、政治家、貴族。

ボーフォート公爵家のヤンガーサンとして生まれる。1854年に勃発したクリミア戦争で英軍の指揮を執ったが、バラクラヴァの戦いで彼の不明瞭な命令が原因で軽騎兵旅団指揮官の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルーデネルによる軽騎兵旅団の突撃英語版が起こり、大損害が発生した。またセヴァストポリ包囲戦の作戦指導も失敗して同戦いを泥沼化させ、自身も戦病死した。最終階級は陸軍元帥。また1852年にラグラン男爵に叙されている。

経歴

1788年9月30日に第5代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットとその妻エリザベス(エドワード・ボスコーエンの娘)の間の8男としてグロスタシャーバドミントン・ハウス英語版に生まれる[1][2][3]

ウェストミンスター・スクールを卒業した後、1804年6月に第4軽竜騎兵連隊英語版に入隊した[1][4]。1805年6月に少尉に昇進[5]。1808年5月には第43歩兵連隊英語版の大尉となり、ついで同年7月にはサー・アーサー・ウェルズリー(のちの初代ウェリントン公爵)の副官となり、半島戦争に従軍し、様々な戦闘に参加した[1][6]。そのさなかの1811年6月に名誉少佐(brevet major)、1812年4月に名誉中佐に昇進した[1]

1814年のナポレオンの最初の失脚でウェリントン公が駐フランス大使に就任した際にもウェリントン公の副官に留まり、同年8月にはウェリントン公の姪にあたるエミリーと結婚した[7]

ナポレオンの百日天下の際にもウェリントン公に従ってフランス軍と戦い、1815年6月のワーテルローの戦いでは片手を失う戦傷を負った[6][7]。同年8月には陸軍大佐に昇進[6][7]

ナポレオン敗退後もウェリントン公の副官として1816年までフランス占領軍に勤務した。その後ウェリントン公が本国に帰国して補給庁長官英語版となると彼も補給委員会のメンバーとなる。ウェリントン公とともに1827年まで務めた[7]

またその間の1818年から1820年までと1826年から1829年にかけてトゥルーロ選挙区英語版から選出されてトーリー党庶民院議員を務めた[3]

1825年5月には少将に昇進[7]。1827年にウェリントン公が陸軍最高司令官英語版に就任すると軍事長官英語版に就任した。ウェリントン公が死去する1852年まで務めた[7]。1830年6月には中将に昇進[7]

1852年10月には補給庁長官に就任するとともに連合王国貴族爵位ラグラン男爵に叙され[2][7]貴族院議員に列した[8]

1854年にクリミア戦争が勃発するとクリミアに派遣されて英軍の指揮を執った[7]。1854年6月に大将、11月に陸軍元帥に昇進した[7]アルマの戦い英語版インケルマンの戦い英語版を勝利に導いたが、バラクラヴァの戦いでは彼の不明瞭な命令のせいで軽騎兵旅団指揮官の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルーデネル少将による無謀な「軽騎兵旅団の突撃英語版」が起こり、英軍は多大な損害を出した[9]。さらにセヴァストポリ包囲戦も彼の判断ミスが原因で長期化してしまった[6]

現地でコレラを罹患し、1855年6月28日に戦病死した[6]。爵位は次男リチャード・サマセット英語版が継承した(長男はすでに戦死)[3]

栄典

爵位

1852年10月20日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]

勲章

家族

1814年に第3代モーニントン伯爵ウィリアム・ウェルズリー=ポール英語版(初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの兄)の娘エミリーと結婚。彼女との間に以下の2男3女を儲けた[3]

  • 第1子(長女)シャーロット・キャロライン・エリザベス・サマセット (1815-1906) 結婚せず
  • 第2子(長男)アーサー・ウィリアム・フィッツロイ・サマセット (1816-1845) 陸軍少佐。フェローズシャーの戦い英語版で戦死
  • 第3子(次男)リチャード・ヘンリー・フィッツロイ・サマセット英語版 (1817-1884) 政治家。第2代ラグラン男爵位を継承
  • 第4子(三男)フレデリック・ジョン・フィッツロイ・サマセット (1821-1824) 早世
  • 第5子(次女)キャサリン・アン・エミリー・セシリア・サマセット (1824-1915) 結婚せず

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d Heathcote 1999, p. 267.
  2. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Raglan, Baron (UK, 1852)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年5月24日閲覧。
  3. ^ a b c d e f Lundy, Darryl. “Field Marshal FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan” (英語). thepeerage.com. 2016年5月24日閲覧。
  4. ^ "No. 15710". The London Gazette (英語). 12 June 1804. p. 726. 2014年2月9日閲覧
  5. ^ "No. 15811". The London Gazette (英語). 28 May 1805. p. 718. 2014年2月9日閲覧
  6. ^ a b c d e 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 617.
  7. ^ a b c d e f g h i j Heathcote 1999, p. 268.
  8. ^ UK Parliament. “Lord Fitzroy Somerset” (英語). HANSARD 1803-2005. 2016年5月26日閲覧。
  9. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 122/617.

参考文献

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
第4代準男爵ジョージ・ワレンダー英語版
ジョージ・ダッシュウッド
トゥルーロ選挙区英語版選出庶民院議員
1818年 – 1820年
同一選挙区同時当選者
ウィリアム・トムライン英語版
次代
ハシー・ヴィヴィアン英語版
ウィリアム・ゴセット
先代
ハシー・ヴィヴィアン英語版
ウィリアム・ゴセット
トゥルーロ選挙区選出庶民院議員
1826年 – 1829年
同一選挙区同時当選者
ウィリアム・トムライン英語版
次代
エンクーム子爵英語版
ナサニエル・ピーチ
軍職
先代
サー・ハーバート・タイラー英語版
軍事長官英語版
1827年 – 1852年
次代
リチャード・エイリー英語版
先代
初代アングルシー侯爵
王立近衛騎馬連隊英語版名誉連隊長
1854年 – 1855年
次代
初代ゴフ子爵
公職
先代
初代ハーディング子爵
補給庁長官英語版
1852年1855年
廃止
イギリスの爵位
爵位創設 初代ラグラン男爵
1852年 – 1855年
次代
リチャード・サマセット英語版