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「ハリコフ (駆逐艦)」の版間の差分

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===その後の活動===
===その後の活動===
7月18日まで修理が行われ、それから「ハリコフ」は巡洋艦「[[パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)|コミンテルン]]」、駆逐艦「Smyshlennyy」、「Bodry」、「Shaumyan」や多数の小型船舶と共にドナウ小艦隊の[[オデッサ]]への退却を援護した<ref name=he2/>。[[オデッサの戦い (1941年)|オデッサの戦い]]中は枢軸国陣地に対する砲撃を行い、10月にはオデッサからセヴァストポリへの撤退を行う船団を護衛した<ref>Rohwer, pp. 94, 98</ref>。[[セヴァストポリ (第二次世界大戦)|セヴァストポリ]]では「ハリコフ」は砲撃による支援やクリミア半島内で分断された兵員の退避、[[コーカサス]]からの増援部隊の運搬を行った。「ハリコフ」は12月7日から13日には第388ライフル師団の[[ノヴォロシースク]]と[[トゥアプセ]]からセヴァストポリへの輸送を、12月19-20日には第79海軍ライフル旅団<!--79th Naval Rifle Brigade-->、12月21-22日には第354ライフル師団の輸送を助け、その合間にはドイツ軍陣地を砲撃した<ref>Rohwer, pp. 112, 122, 140–141</ref>。1942年2月から7月の間は「ハリコフ」はドイツ軍に対する砲撃や、セヴァストポリへの増援部隊や補給物資の輸送、負傷者や避難民の後送に従事した。6月18日、ドイツ軍の爆撃機による至近弾で操舵装置が壊れ、「ハリコフ」は「[[タシュケント (嚮導駆逐艦)|タシュケント]]」に曳航された。<ref>Rohwer, pp. 154, 156, 161, 164, 166, 169–170, 172</ref>
7月18日まで修理が行われ、それから「ハリコフ」は巡洋艦「[[パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)|コミンテルン]]」、駆逐艦「Smyshlennyy」、「Bodry」、「Shaumyan」や多数の小型船舶と共にドナウ小艦隊の[[オデッサ]]への退却を援護した<ref name=he2/>。[[オデッサの戦い (1941年)|オデッサの戦い]]中は枢軸国陣地に対する砲撃を行い、10月にはオデッサからセヴァストポリへの撤退を行う船団を護衛した<ref>Rohwer, pp. 94, 98</ref>。[[セヴァストポリ包囲戦 (1941年-1942年)|セヴァストポリ包囲戦]]では「ハリコフ」は砲撃による支援やクリミア半島内で分断された兵員の退避、[[コーカサス]]からの増援部隊の運搬を行った。「ハリコフ」は12月7日から13日には第388ライフル師団の[[ノヴォロシースク]]と[[トゥアプセ]]からセヴァストポリへの輸送を、12月19-20日には第79海軍ライフル旅団<!--79th Naval Rifle Brigade-->、12月21-22日には第354ライフル師団の輸送を助け、その合間にはドイツ軍陣地を砲撃した<ref>Rohwer, pp. 112, 122, 140–141</ref>。1942年2月から7月の間は「ハリコフ」はドイツ軍に対する砲撃や、セヴァストポリへの増援部隊や補給物資の輸送、負傷者や避難民の後送に従事した。6月18日、ドイツ軍の爆撃機による至近弾で操舵装置が壊れ、「ハリコフ」は「[[タシュケント (嚮導駆逐艦)|タシュケント]]」に曳航された。<ref>Rohwer, pp. 154, 156, 161, 164, 166, 169–170, 172</ref>


修理後、8月2-3日に「ハリコフ」は[[フェオドシヤ]]付近の枢軸国軍陣地を砲撃し、9月1-4日にはノヴォロシースク守備隊への火力支援を行った。9月8-11日、「ハリコフ」は第137および145ライフル連隊と第3海軍ライフル旅団を[[ポティ]]からトゥアプセと[[ゲレンジーク]]へ輸送。1ヵ月後の10月20から23日には第8、第9および第10Guards Rifle Brigadの12600名をポティからトゥアプセへ輸送した。<ref>Rohwer, pp. 184, 193–194, 204</ref>11月29日、[[蛇島 (ウクライナ)|蛇島]]砲撃を行う巡洋艦「ヴォロシーロフ」を護衛。12月19から20日の夜、[[ヤルタ]]を砲撃。1943年2月4日、ソ連はドイツ軍の背後にあたるノヴォロシースクの西への上陸作戦を実行。「ハリコフ」は巡洋艦「[[クラースヌイ・カフカース (重巡洋艦)|クラースヌイ・カフカース]]」、「[[クラースヌィイ・クルィーム (軽巡洋艦)|クラスニイ・クリム]]」、駆逐艦「Besposhchadny」、「Soobrazitelnyy」とともに火力支援を行った。だが、ソ連軍は2月6日までには駆逐されてしまった。「ハリコフ」は2月21から22日夜にはノヴォロシースクを砲撃。5月13から14日よるには[[アナパ]]、5月22から23日夜にはフェオドシヤ砲撃が行われた。<ref>Rohwer, pp. 215, 219, 229, 231, 251</ref>
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2020年12月27日 (日) 05:28時点における版

ハリコフ (Харьков) はソ連海軍駆逐艦レニングラード級。艦名はウクライナ・ソビエト社会主義共和国の暫定的な首都であった都市にちなむ[1]

艦歴

1932年10月19日、ニコラエフの第198造船所で起工[2]。1934年9月9日進水セヴァストポリの第201造船所へと曳航される。[3]1938年11月19日に就役し、黒海艦隊に編入[4]

1941年6月22日にドイツ軍のソ連侵攻(バルバロッサ作戦)が開始されると、セヴァストポリ沖に防御用の機雷原を設置するため6月23日朝に艦隊は出撃した[5]。翌日、コンスタンツァからルーマニアの駆逐艦が出撃したとの報告を受けて「ハリコフ」と駆逐艦「Smyshlennyy」、「Besposhchadny」はドナウ小艦隊の河用砲艦支援のためドナウ川河口へと向かった。蛇島のルーマニア兵砲撃や水陸両用作戦の支援、機雷の敷設や掃海を行い、6月25日にセヴァストポリに帰投した。ルーマニアの水上部隊との交戦は発生しなかった。[6][7]

コンスタンツァ襲撃

戦争の最初の週、黒海艦隊はコンスタンツァやそこの石油タンクを攻撃して枢軸国側の補給線を遮断する任務に投入された。砲撃の開始時刻は事前に空襲が行われた後の6月26日5時に設定された。「ハリコフ」と駆逐艦「Smyshlennyy」、「ソオブラジーテリヌイ」が砲撃を行い、巡洋艦「ヴォロシーロフ」と駆逐艦「モスクワ」がそれを援護する予定であった。空襲を受けないよう部隊は6月25日の夜18時に出撃を開始した。だが、海軍人民委員ニコライ・クズネツォフ中将が2隻の嚮導艦は砲撃を行い他は支援に回るよう計画を変更したため、湾を出る前に港へ戻らされた。「モスクワ」と「ハリコフ」は21時にセヴァストポリ湾から出撃し、まずは1時間ほどオデッサへ向かうように見せてから本来の目的地へと向かった。支援部隊もそれに続いた。[8]

空襲は実施されなかったが、6月26日朝「ハリコフ」と「モスクワ」はコンスタンツァを砲撃した。2隻はおよそ20kmの距離から石油タンクや鉄道の駅に対して砲弾350発を発射、弾薬輸送列車が爆発し大きな被害を生じさせた。10分間の砲撃を終え4時16分にはその場から離れようとしていたところ、ドイツ軍の沿岸砲台やルーマニアの駆逐艦「レジーナ・マリーア」、「マラシュティ」から距離11,000 - 16,000 m (12,000 - 17,000 yd)で攻撃を受けた。次いで「モスクワ」が触雷し沈没したf[9]。その日の朝遅く、「ハリコフ」はドイツの爆撃機の攻撃による至近弾で一時的に操舵装置が使えなくなった[10]。また、6時43分にソ連の潜水艦「Shch-206」が「ハリコフ」に対して魚雷1本を発射、7時には「Soobrazitelnyy」に対して2本を発射したが共に外れた[11]

その後の活動

7月18日まで修理が行われ、それから「ハリコフ」は巡洋艦「コミンテルン」、駆逐艦「Smyshlennyy」、「Bodry」、「Shaumyan」や多数の小型船舶と共にドナウ小艦隊のオデッサへの退却を援護した[6]オデッサの戦い中は枢軸国陣地に対する砲撃を行い、10月にはオデッサからセヴァストポリへの撤退を行う船団を護衛した[12]セヴァストポリ包囲戦では「ハリコフ」は砲撃による支援やクリミア半島内で分断された兵員の退避、コーカサスからの増援部隊の運搬を行った。「ハリコフ」は12月7日から13日には第388ライフル師団のノヴォロシースクトゥアプセからセヴァストポリへの輸送を、12月19-20日には第79海軍ライフル旅団、12月21-22日には第354ライフル師団の輸送を助け、その合間にはドイツ軍陣地を砲撃した[13]。1942年2月から7月の間は「ハリコフ」はドイツ軍に対する砲撃や、セヴァストポリへの増援部隊や補給物資の輸送、負傷者や避難民の後送に従事した。6月18日、ドイツ軍の爆撃機による至近弾で操舵装置が壊れ、「ハリコフ」は「タシュケント」に曳航された。[14]

修理後、8月2-3日に「ハリコフ」はフェオドシヤ付近の枢軸国軍陣地を砲撃し、9月1-4日にはノヴォロシースク守備隊への火力支援を行った。9月8-11日、「ハリコフ」は第137および145ライフル連隊と第3海軍ライフル旅団をポティからトゥアプセとゲレンジークへ輸送。1ヵ月後の10月20から23日には第8、第9および第10Guards Rifle Brigadの12600名をポティからトゥアプセへ輸送した。[15]11月29日、蛇島砲撃を行う巡洋艦「ヴォロシーロフ」を護衛。12月19から20日の夜、ヤルタを砲撃。1943年2月4日、ソ連はドイツ軍の背後にあたるノヴォロシースクの西への上陸作戦を実行。「ハリコフ」は巡洋艦「クラースヌイ・カフカース」、「クラスニイ・クリム」、駆逐艦「Besposhchadny」、「Soobrazitelnyy」とともに火力支援を行った。だが、ソ連軍は2月6日までには駆逐されてしまった。「ハリコフ」は2月21から22日夜にはノヴォロシースクを砲撃。5月13から14日よるにはアナパ、5月22から23日夜にはフェオドシヤ砲撃が行われた。[16]

1943年10月6日から6日の夜、「ハリコフ」と駆逐艦「Besposhchadny」、「Sposobny」はヤルタ、アルシタ、フェオドシヤを砲撃し、帰路ドイツ軍第2急降下爆撃航空団第3飛行隊 (III./StG 3) のJu 87急降下爆撃機の攻撃を受けた。「ハリコフ」は最初の攻撃で損傷し、「Sposobny」に曳航された。2度目の攻撃では3隻とも被害を受け、「Sposobny」は「Besposhchadny」も曳航した。その次の攻撃で「ハリコフ」と「Besposhchadny」は沈み、4度目の攻撃で「Sposobny」も撃沈された。この出来事の後、スターリンは彼の明確な許可なしに駆逐艦以上の艦艇を使用することを禁じた。[17]

脚注

  1. ^ Hill, p. 26
  2. ^ Rohwer & Monakov, p. 232
  3. ^ Kachur, p. 23
  4. ^ Breyer, p. 216
  5. ^ Rohwer, p. 82
  6. ^ a b Hervieux, p. 72
  7. ^ Kachur, pp. 73–74, 78
  8. ^ Kachur, pp. 73–75
  9. ^ Hervieux, pp. 70–71
  10. ^ Rohwer, p. 83
  11. ^ Hervieux, p. 71
  12. ^ Rohwer, pp. 94, 98
  13. ^ Rohwer, pp. 112, 122, 140–141
  14. ^ Rohwer, pp. 154, 156, 161, 164, 166, 169–170, 172
  15. ^ Rohwer, pp. 184, 193–194, 204
  16. ^ Rohwer, pp. 215, 219, 229, 231, 251
  17. ^ Rohwer, p. 280

参考文献

  • Breyer, Siegfried (1992). Soviet Warship Development: Volume 1: 1917-1937. London: Conway Maritime Press. ISBN 0-85177-604-3 
  • Hervieux, Pierre (2001). “The Romanian Navy at War, 1941–1945”. In Preston, Antony. Warship 2001–2002. London: Conway Maritime Press. pp. 70–88. ISBN 0-85177-901-8 
  • Hill, Alexander (2018). Soviet Destroyers of World War II. New Vanguard. 256. Oxford, UK: Osprey Publishing. ISBN 978-1-4728-2256-7 
  • Kachur, Pavel (2008) (Russian). "Гончие псы" Красного флота. "Ташкент", "Баку", "Ленинград" [Hounds of the Red Fleet: Tashkent, Baku, Leningrad]. Moscow: Yauza/Eksmo. ISBN 978-5-699-31614-4 
  • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939-1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2 
  • Rohwer, Jürgen; Monakov, Mikhail S. (2001). Stalin's Ocean-Going Fleet. London: Frank Cass. ISBN 0-7146-4895-7 


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