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*[[戸田懐生]]
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2021年1月7日 (木) 21:01時点における版

若林 弘泰
東海大学菅生高等学校硬式野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県茅ヶ崎市
生年月日 (1966-04-22) 1966年4月22日(58歳)
身長
体重
185 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 1995年5月13日
最終出場 1995年8月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

若林 弘泰(わかばやし ひろやす 、1966年4月22日 - )は神奈川県出身の元プロ野球選手(投手)、高校野球指導者。右投右打。 東海大学菅生高校社会科教諭、硬式野球部監督。

来歴・人物

プロ入り前

小学3年生の時に野球を始める[1]。当時東海大相模高の中心選手として活躍していた原辰徳に憧れ、そのまま東海大相模高に進学[1]、大学は東海大に進学。大学2年生当時の1986年、首都春季リーグにて防御率0.00で最優秀投手獲得[1]。しかしこの後肘を手術し、大学3年生の時は活躍出来なかった[1]首都大学リーグ通算30試合登板し14勝4敗、防御率1.78[2]日立製作所を経て、1991年ドラフト4位で中日に指名され入団[1]

プロ入り後

プロ入り後、大学生時代に肘の手術を受けた影響で右肩痛に悩まされ最初の3年間を棒に振る[1]1995年に中継ぎ投手として17試合に登板したが防御率8点台と打ち込まれ、さらに故障が癒えた時は既に30歳だったことから若手への世代交代が進み出番は無くなっていた。1997年、現役を引退[1]

現役引退後

引退後、中日時代の指揮官だった星野仙一の助言も受ける形で[1]、5年間佐川急便などに勤務。その後、同じ地元の先輩が岐阜県の高校野球部の監督をしていることを知り、以前思っていたアマチュア指導者の思いを再び意識するようになる[1]。37歳の時、2年間名城大学に在学して教員免許を取得し、2007年東海大学菅生高校社会科教諭として着任、2009年4月に同校の野球部監督に就任。2015年春の選抜大会は勝俣翔貴らを擁し、監督就任後初の甲子園大会出場となった。2015年に秋季東京都高等学校野球大会で監督就任後初優勝。西東京地区は日大三高早稲田実業八王子学園八王子高校など全国レベルの強豪校が多数立地しているため、2014年夏から3年連続で西東京大会準優勝が続いたが[3][4]、2017年夏に清宮幸太郎擁する早稲田実業を決勝で下し17年ぶりに西東京大会優勝を果たした[5]。その後の甲子園大会では同校史上最高となるベスト4に導き、秋の愛媛国体にも出場した。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1995 中日 17 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 106 20.1 32 3 13 0 2 9 1 0 22 20 8.85 2.21
通算:1年 17 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 106 20.1 32 3 13 0 2 9 1 0 22 20 8.85 2.21

記録

背番号

  • 35 (1992年 - 1996年)
  • 59 (1997年)

著名な教え子

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i プロ野球引退読本(英和出版社 2016年1月20日刊)p.154 - 161
  2. ^ プロ野球人名事典2003(日外アソシエーツ)p.643
  3. ^ [1]
  4. ^ 「東海大菅生 元中日投手の監督 “教え子”1年生劇打に感激」 スポーツニッポン 2013年7月19日
  5. ^ 【西東京】4度目の正直の東海大菅生 若林監督「最後まで分からなかった」 スポーツニッポン 2017年7月30日

関連項目

外部リンク