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「ノート:イマヌエル・カント」の版間の差分

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X 私は「女性研究者の中ではシャトレを評価していた」ではなく「シャトレ夫人のような女性を」と書いていますので勝手な解釈変更はしないで下さい。<br/>
>論文ではシャトレ夫人に対するエピソードはあるが、一般女性に対する評価は見当たらない。<br/>
>例えば、「シャトレ夫人によるデカルト主義への批判を高く評価もしていた。」という内容があります。<br/>
>自己主張する特定の女性を他の研究者よりも認めていた」(太字は私の補記)<br/>
こういう発想が論外(太字等)<br/>

「他の研究者」と「自己主張する特定の女性」(の比較)では、「自己主張する特定の女性」を「認めていた」という言い方ではなく、「カント」が「他の研究者」よりも(自己主張する特定の女性を)「認めていた」ということが本旨です。誤解がなければいいのですが、あなたの言い方だと誤読です。ニュートンの話はそれを伝えるもので、必要です。引用も元の研究者という用語を正しく理解して下さい。あなたの誤読による独自研究の捏造は認めません。出典と別の解釈が成り立つという趣旨の主張によって、独自研究が認められることもありません。出典に書かれている内容を別の言い方で述べればいいのです。<br/>
それから、「自己主張する特定の女性」をあなたが誤解しているようです。「自己主張する特定の女性」は個人ですか。全く違います。代表はシャトレだったとします。他の人との感覚的なコネクションに従って、行動を最適化しようとするのが女性です。カントにとっては性愛の対象としても圏外でしたが、女性はそのような機会の洗礼として、自身が属するジェンダーに対する愛好を問い合わせたりします。男性はむしろその人についてのことを気にするでしょう。そのような相違について(中島義道の)カントは、女性を、「支配を遂行する性」として描写しています。それは「種の保存」にかんする「女性が訳に立つ唯一の」原理であり、それ以外は無なのです。この観点は、集団に対する愛好を前提とする「支配」としての、前述の観点とも連合します。この辺りは私の文案の評価とは、「直接的には」関係しないとも考えられますが、あなたの「個体ベースでの文案評価」は、女性に対しての通常の認識とも、私の文案のみならず、中島義道のカント理解とも相違するようです。

X Texturalさんのこの記述に限っては、記事についての知識も、ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。<br/>
その理屈だと「シャトレ夫人のような自ら研究し学会で堂々と自己主張する女性を当時の他の研究者よりも」という部分を評価する能力が(あなたには)ないことを無視してしまいます。著者はその文章の、残りの箇所すべてで、私が述べたことと同様のことを主張しているのであり、「Texturalさんのこの記述に限っては、記事についての知識も、ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。」という手抜きと横暴は、単なる勘違いです。これらの主張は、全てが既に述べられていることであり、査読の真似ごとに関する、あなたの才能の欠如が如実に伺われます。「そういう予備知識云々というのは適切なコメントではありません。」という、相手の助言を素直に聞かない姿勢が、相手の投稿を独自研究にでっち上げる口実になっています。あなたの行動は論外です。

X これは最初に私が言ったことですが、Texturalさんはどうお考えですか。<br/>
全くの論外です。中島義道著「純粋異性批判 女は理性を有するのか?」を知らない部外者の暴論に過ぎません。純粋理性批判はカントの主著であり、どうして女性には純粋理性批判が理解できないのか、純粋理性批判を女性はどう読むべきなのかという視点に、〈純異〉は貫かれています。言い換えれば、すべてあなたのことです。この辺りは単に言い方であり、全集にご興味があるのでしたら、片ったぱしから通読しアカデミー版と照応するべきだと思います。量化子を適切に扱うことは、私とカントと引用元の著者にも共通することですが、あなたには欠如している。勝手な解釈を読み込むから独自研究にしたくなるのです。あなたは「女性」と「(一部の)女性」という、あなたによる恣意的な区別を重視しましたが、そのような人は私たちにはいません。あなたの行動は中立的な観点から逸脱した風変わりな行動でしかなく、やはり、字の通り論外です。このように、本文で既に述べられていることを適切に要約した内容になるのです。これは勿論、私の文案が独自研究かどうかとは独立に評価されることです。性別をどのように決定するかは、カント学からは演繹されないのです。そして、カントの主張が基本的には正しいという理由でカント学が存立しているのですから、そのような要約も許容される余地があるのです。あなたの恣意的な言い換えは、このような理由でも不適当で、やはり予備知識は必要ということに尽きます。その最初に述べられたことが誤読であることは、独自研究かどうかとは独立に成立する上に、あなたの観点の捏造の原因でもあるということです。現代物理学は、[[ポテンシャル]]が低下することをも証言しています。最初の一言が誤読では、査読の真似は無理です。

X コメントでは字下げしていただけると追いやすくなります。<br/>
その辺りは経験に依存すると思います。理科の研究者には、和文でコンマとピリオドを使う気違いがいますが、そのような日本語は存在しません。「閾値」を「しきいち」と読む言語習慣も端的に存在しないのです。今ば2人なので、私にはこの方が見易いです。今回から若干の変更を行いましたが、そうでもないです。ご検討をお願いします。以上、あなたの風変わりなご助言以上には重要なことをお知らせいたしました。ご配慮の期待でもあります。宜しくお願いします。

要約しますと、やはりあなたの主張が知識不足により全面的に違うので、中立的な観点に則っていません。当方の文案は、本質的に独自研究ではないす。あなたの比較した2文の内容が同じ扱いになればいいのです。そうなっていれば、独自研究とは違います。主張の撤回を期待します。そして、あなたの観点についての検討を期待します。勿論私の主張はあなたの主張を踏まえてのものに過ぎず、それ故にこそ、一方的に正しいということを期待する必要も皆無です。--[[利用者:Textural|Textural]]([[利用者‐会話:Textural|会話]]) 2021年2月3日 (水) 09:24 (UTC)


== 導入部への記述(2021年1月23日 (土) 17:44編集)に関して ==
== 導入部への記述(2021年1月23日 (土) 17:44編集)に関して ==
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::さらには、出典はカントの著作であり1次資料です。「(カントは)知名度が高かった」(カントは自分のことを知名度が高いと評している)、という記述があったとしても、導入部に評価として載せるのは不適当であると考えます。(「Wikipedia:独自研究は載せない」一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません)
::さらには、出典はカントの著作であり1次資料です。「(カントは)知名度が高かった」(カントは自分のことを知名度が高いと評している)、という記述があったとしても、導入部に評価として載せるのは不適当であると考えます。(「Wikipedia:独自研究は載せない」一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません)
::また、[[#導入部の記述(2021年1月25日 (月) 21:21編集)に関して]]でも述べましたが、仮にこの記述が何らかの出典が伴って改善されたとしても、導入部に記述する内容にはならないと考えます。重要ならば既に他の節で記述されているはずです。--[[利用者:みそがい|みそがい]]([[利用者‐会話:みそがい|会話]]) 2021年1月31日 (日) 14:41 (UTC)
::また、[[#導入部の記述(2021年1月25日 (月) 21:21編集)に関して]]でも述べましたが、仮にこの記述が何らかの出典が伴って改善されたとしても、導入部に記述する内容にはならないと考えます。重要ならば既に他の節で記述されているはずです。--[[利用者:みそがい|みそがい]]([[利用者‐会話:みそがい|会話]]) 2021年1月31日 (日) 14:41 (UTC)

あなたがリバートしたので、別の出典を用意した訳ですが、それが見づらくなっているのはあなたのせいです。出典が同じだと述べましたか?女性がシャトレだと言いましたか?すべたあなたの誤読・妄想であり、私の投稿とは無関係です。査読の真似事は自粛するべきでしょう。<br/>
「導入部に評価として」「考えます」という内容自体がルールの範囲外です。あなたの独自研究であり、中立的な観点とは無関係です。ルール違反なのはあなたです。<br/>
全集を読む暇があるなら、固有名詞を含めて、女性についての記述をすべて確認して投稿すればいいと思います。本文に記述があるから重要というような決まりはないので、その基準は認められません。あなたの勝手な考えにすぎません。確かに、該当記事はかなり成熟していますが、冒頭部分は私が直しました。一部は削除済みですが、それでも改善の一助にはなったと思っています。削除された内容については、時間を見て、加筆等を含めて復帰する予定です。ですから、あなたの発想で、冒頭の内容を決定することが適当とは思えません。冒頭が良くなかったので直した訳ですから、本文も私の期待とは相違します。冒頭に関するあなたのルールについての知識を教えて下さい。どこに記載されているルールですか。<br/>
繰り返しますが、アカデミー版という言い方自体がもう日本語なので、外国語の文献でも、日本語で表記する権利はどの投稿者にもあるはずです。現状のルールはそういう解釈では。あなたのために記事を書いている訳ではないので、言語は適宜選択すればいいでしょう。恣意的な要求だと思います。あなたの要求は、リンク先のルールとは違います。あなたには、中立的な観点が欠落しているのだと思います。<br/>
索引に関するあなたの直感を安易に信用しないで下さい。例えば、岩波文庫の論理哲学論考では、意図的に索引からは命題を除外しています(命題記号、命題形式、命題変項は索引にも明記)。これは落丁等とは異なり、内容についての言及であり、そのようなことについて「独自研究」だと主張されると厄介です。その全集も、それ以外の箇所でも、その人物に論及している箇所が存在するという可能性はかなり高いです。あなたの底意はまたしても不当です。内山勝利訳のソクラテス以前哲学者断片集も索引の出来はそこまでではありません。高価な書籍は安価な書籍の後で作ります。[[高階理論]]同様であり、[[確度]]に関する通俗的な発想が裏切られる機会が多いのは、そのような高価な本です。もちろん例外はあるでしょう。このようなことは書籍に関する常識の部類であり、あなたは書籍の性質を理解しているとは言い難いです。執拗に反発していますが「ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。」という発想が問題の原因であり、早急に撤回するべきだと改めて主張します。仮に出典以外の予備知識が一切不要なら、全集に依拠したあなたのシャトレについてに索引の情報が意味を持つことはないと思います。その意味ではあなたの主張は矛盾です。<br/>
要約しすと、該当記事も、外国語の出典を日本語表記で出典にしていますが、それについての説明をお願いします。これは既に問い合わせたことです。いいですか。--[[利用者:Textural|Textural]]([[利用者‐会話:Textural|会話]]) 2021年2月3日 (水) 09:24 (UTC)

2021年2月3日 (水) 09:24時点における版

Todo

この項目はウィキポータル 哲学において、2005年6月~12月までの期間「特集項目」でした。--Shinya1739 2006年1月24日 (火) 08:49 (UTC)[返信]

  • 生涯、もうちょっと詳しく。お祖父さんがスコットランド系という話
  • 思想 まずは批判期を少し詳しく。超越論的、アプリオリ、定言命法、物自体、道徳、Beweis des Daseins des Gottes この辺もっとかけるはずかと。
  • 影響史、前も後も。
  • 研究史、Kant-studien も載ってないのはやばいような気が。。
  • 参考文献 といいつつすみません生涯はうろおぼえでかきました。。DeとEnは覗いてますが翻訳はしてません。年号だけ確認。Aph.

項目についての質問

あの〜、「実体」というページはあるんですが、「物自体」というページはないようです。この2つはどういう関係でしょうか? 哲学よくわかんないけど、「物自体」っていうのは認識されたもの(表象?)ではなくて認識の原因となった「存在そのもの」のことかなーと思っています。そうすうると「実体」とゆうのも同じようなこと言ってると思うのですが。実体は英語でsubstanceだそうです。物自体は英語で何でしょうか。手掛りほしい。--HarpyHumming 14:49 2004年3月22日 (UTC)

単数形で thing-in-itself(独:Ding an sich)、複数形で things-in-themselves (独:Dinge an sich)だと思います。お役に立ちますかの。Setomanko 16:14 2004年3月22日 (UTC)

Ding an sich です。天野貞佑訳『純粋理性批判』(または理想社岩波書店の全集版。岩波文庫版はお勧めしない)、もっとてっとりばやくは『プロレゴーメナ』をどうぞ。ウィキの英語版のカントのページでもよいですけれど。

カントの生涯の項目において、「奥津城」という表現がありますが、ほとんどの辞書に見出しとして載っていません。またウィキペディア内でも見出し語には無く、「墓」の項目の中に墓のことを「奥津城」または「奥つ城」という(特に神道の墓のことを指すこともある)旨の記述があります。調べましたところ神道の墓、特に古墳に対して使うのが一般的な用法のようです。ここで使うのは不適当ではないでしょうか?本筋とは違いますが、あまりにも分かりにくい表現だったので指摘しておきます。--number8 2006年1月22日 (日) 18:48 (UTC)[返信]

ああ、よくわからない理由である日美文調になっていたので私も驚きました。個人の感覚なのかなと思いどなたか別の方が直されるのを待っていたのですが、そのときみたままのようですね。現在のもの、百科事典/論文の文体として適切とは思えない文飾がところどころにあるので、全体に平易に直す(というかいっそ以前のものに戻す)ほうがよいのかなと思うのですが、いかがでしょう。--Aphaia 2006年1月24日 (火) 07:54 (UTC)[返信]

適切な文体についてですが、個人的意見は削除しようと思いますがどうでしょう。実際そういう理由で削除され妥当とされた事例をみたので(空港関連ですが)ここにも適用するべきと考えました。奥津城についても「墓所」か「墓地」に直そうと思います。

賛成です。お手数かけますが、よろしくお願いします。その後あまり加筆も進んでいないので、いったん差し戻しをして普通の文体で書かれた版に戻してから、改めてその後なされた加筆を反映するのが、いっそ楽かもしれませんね。--Aphaia 2006年12月13日 (水) 20:55 (UTC)[返信]

追加事項として何処が適当か

詳細は銀河を参照してください。カントが銀河について提唱していた事実を、カントの功績として記載したいのですが、一般に哲学者として知られる彼について追記すべきか、また追記すべきだとして何処に入れるべきなのかについて判断まよいました。どなたか適時判断していただけると助かります。haco 2005年8月9日 (火) 20:25 (UTC)[返信]

すみません、何も書いてませんでしたが、思想セクションの下に前批判期というのをつくりました。時期的にもここであることは銀河の項で確認済です。前批判期の第1段落をよしなにいじってくださいませ。--Aphaia 2005年8月9日 (火) 20:51 (UTC)[返信]

カントの結婚観

カントによる結婚の定義は、「配偶者の性器の独占的使用権」というもの。

例の部分のみ、強調するような書き方しなければいいんじゃないですかね。--ケンチン 2005年10月20日 (木) 11:39 (UTC)[返信]

関係のない人となりの話ですが、人類の知的遺産シリーズで刊行された坂部恵著『カント』や、 書かないものもありますが、生涯を綴った伝記ではたまに「やはり女のストッキングは黒に限る」とあったりします。 どういうことかと言いますと、カントのパトロン(資金提供者)は女性ばかりだったのです。 金を稼ぐためではありましたが下品な話、何人もの機嫌をとるわけです。 もしそのうちの1人と恋仲、結婚になってしまうとそれ以外からは当然お金を貰えません。 あちこちで生涯不貞と書かれておりますけど、先の理由があったため結婚できなかったのです。--okeoke229 2016年8月17日 (水) 01:59 (UTC)

Fiction等

125.247.118.226さんによる、『Fiction等』という部分の編集に関してですが、そのカントは単純に英単語のCunt(女性器)であって、この項目のイマヌエル・カントとは関係ないのではないでしょうか? 私自身は『羊たちの沈黙』を読んでいないので自信を持てないのですが、どなたかお読みになった方、ご教授下さい。 Whity-82 2006年3月13日 (月) 06:41 (UTC)[返信]

人種主義、反ユダヤ主義について

レオン・ポリアコフ 『反ユダヤ主義の歴史 第III巻 ヴォルテールからヴァーグナーまで』はもはや古典です。日本では研究の遅れもあって周知されていませんが、Jon M. Mikkelsenやエゼ他カントの人種論・レイシズム研究は近年の欧米のカント研究の重要な一翼です。これらの記載を削除するためには、これらの出典が「信頼できない情報源」であることを立証してください。

他に項目を立てるとも要約欄で書かれていますが、わざわざ独立項目にする必要はないので、反対します。--27.83.145.210 2018年10月15日 (月) 12:55 (UTC)[返信]

導入部の記述(2021年1月25日 (月) 21:21編集)に関して

この編集[1]において記載された「女性を批判的に考察すると同時に、同時代の研究者以上に、女性を高く評価していた」という内容に疑問がありますので、Template:疑問点範囲を貼りました。ご説明願います。なお、出典としてあげられている文献は「ジェンダー論的カント解釈の一試論」であると思われます。

  1. 出典文献は「一試論」であって、導入部に記載するのは不適当なのではないか。(WP:WEIGHTWP:SUBSTANTIATEなど)
  2. 「同時代の研究者」とは誰を指しているのか。(Wikipedia:言葉を濁さない)(論文にはいくつかの名前は出てきますが)
  3. 「高く評価していた」とはどのような評価か。(Wikipedia:言葉を濁さない)(論文のむすびでは「カント自身の女性観を救う道はほとんどない」と書かれているが)
  4. 「女性」とはどのような女性なのか。論文ではシャトレ夫人に対するエピソードはあるが、一般女性に対する評価は見当たらない。(Wikipedia:独自研究は載せない
  5. 出典文献として、論文のすべてのページを指定しているが、上記の疑問点が生じるのでより絞った範囲を指定するべきではないか。(WP:GENREFの3.「参照すべき場所、範囲を明確に示す」)

時代的に、特異的に女性に対する批判、評価をしていたということであれば、そういう内容を節立てして詳細を記述したほうがいいのではないでしょうか。この分野には疎いのですが、一読者として疑問の多い文章になっています。改善を望みます。--みそがい会話2021年1月25日 (月) 15:16 (UTC)[返信]

引用元では(シャトレのような)女性を「当時の他の研究者よりもカントは他方で認めていた。」と述べられているので、適宜言い換えています。言葉を濁さない等の批判は、引用上の都合であり、原著者の意図を必ずしも推し量れないこと、当時の状況とは独立に文書を用意し得ること等を含めても、ご批判は自粛して頂きたいと思います。「高く評価していた」ということの内容については、引用元に照らして判断して頂ければと思います。例えば、「シャトレ夫人によるデカルト主義への批判を高く評価もしていた。」という内容があります。当方としては、本文中に挿入する読み物を用意する予定はございません。出典に関するルール違反とのご意見が不服であるが故に、貴重な時間を割いて投稿しています。--Textural会話2021年1月25日 (月) 15:57 (UTC)[返信]

コメントありがとうございます。問題点がハッキリしましたので、以下述べます。
Texturalさんがもとにした文献の箇所は、5章 p.51 の記述だと思います。そこで書かれているのは「シャトレ夫人のような研究し自己主張する特定の女性を他の研究者よりも認めていた」(太字は私の補記)ということでしかありません。それを女性すべてを対象とした文章として置き換えることは独自研究であり「Wikipedia:独自研究は載せない」に抵触します。言い換えというレベルではありません。出典文献の解釈として問題があります。
また、特定の研究者(達)を認める、ということが有るとして、それが特筆性のある内容だとは思えません。
これらの点に対してはどうお考えですか。私は文章自体に問題があると考えますし、出典文献に沿った文章に変更したとしても導入部へ記述すべき内容だとは考えられません。したがって、適切な改善がなされないのであれば削除すべきだと思います。--みそがい会話2021年1月26日 (火) 11:00 (UTC)[返信]

私の投稿を独自研究にする意志が非常にお強い様子ですが、それ以前にあなたの単純な誤読です。まずそれを説明します。その箇所は、当時の他の研究者は女性批判も潜在的だったがシャトレに対する肯定的な評価も不在だったという意味です。あなたが述べたような研究者は不要です。単に、いません。あなたの解釈が変です。カントは他方では形而上学の批判者でした。遺稿は形而上学批判ですが、他の形而上学者の見解を踏まえて、論述されいています。カントは形而上学者に否定的な評価を用意しましたが、優秀な形而上学者を吟味しています。カントは有能な学者であり、カントの女性学には、自分と関係する女性は評価したが自分とは縁がない女性を低く評価しただけでカントは単なる生き物だったという趣旨は絶無です。単に研究者を同業者として認めていたという意味ではない以上、投稿する必要があります。同時代の女性の研究者に対するカントの理解の精鋭性について述べている訳で、特筆性になります。女性の社会参画等についても、カントは有益な指標であり、そのような内容は削除すべきではありません。女性差別には興味がないのでそのような意欲があるのでしたらあなたが文案を用意して下さい。他人の執筆を要求する権利はあなたにありません。 言い換えの不満については、改善すれば良いだけのことです、「太字の補記」のような恣意的な操作・改竄を行えば、独自研究だという批判は、不適当なものになり、退けられるべきです。あなたの恣意的・独善的な解釈のみによって独自研究を理由とした削除が成り立つことはありません。あなたの寸評の姿勢が間違っていると思います。出典は明示されていて、引用元の情報にも不備がないので、あなたの主張が独自研究であり、あなたの削除がルール違反になります。

潜在的な要素をどのように評価していたのかについては、カントのみならず、通常は出典が不在であり、あなたのような立場はむしろWikipedia:中立的な観点を踏まえない観点になるでしょう。Wikipedia:中立的な観点があなたのような立場になるとは考えません。お返事をお願いします。あなた固有の観点としての[Wikipedia:中立的な観点]は相手を一方的に独自研究に追いやる個人攻撃に過ぎません。表題からはWikipedia:中立的な観点を理由とした排斥は演繹されません。あなたの見解はルールの曲解です。中立的な観点は、中間的な観点のことではありません。特定の観点のことではありません。全ての観点を平等に扱うことではありません。多数派の観点のことではありません。あなたは中立的な観点を誤解しています。あなたの解釈は単なる独自研究です。

量化子をご存知ですか。わたしは「すべての女性」とは述べていません。その解釈を押し付けることはあなたの独自研究です。ウィキペディアでは認められません。量化は取り扱いが難しく、齟齬を生じやすいことから1000年以上論理学では扱い方が定まっていませんでした。それの扱い方は論理学のエポックになりましたが、哲学の分野のことです。カントが量化の不備を犯すですしょうか。量化を悪用しますか。典拠を用意した人も同じです。学者さんですから。あなたの誤読について再検討してください。既に述べたことで、あなたは私の投稿を独自研究と決めつけていますがそれは避けられるべきことです(Wikipedia:善意にとる)。私に難癖をつける前に、フォーマルなペーパーを誤読しない冷静さと言語能力を養うべきではありませんか。以上で、あなたが今回提出した論旨が見当違いであると述べました。再検討をお願いします。文面の変更については応じたいとも思っていますが、削除については留保を希望しています。--Textural会話2021年1月27日 (水) 12:14 (UTC)[返信]

余計なことは書かず、必要な部分のみ返答します。
Texturalさんは「引用元では(シャトレのような)女性を「当時の他の研究者よりもカントは他方で認めていた。」と述べられているので、適宜言い換えています」と書かれました。
単純に解釈すれば、「シャトレ夫人のような女性は認めていた」となります。シャトレ夫人のような女性がいる一方で、シャトレ夫人のようではない女性がいるわけです。「女性を認めていた」と書かれていれば、この「女性」とは女性全体を指すのが普通の解釈ではないですか? したがって、単に「女性」としてしまうと認める対象を広くとりすぎていて出典文献の意図から外れている、と言っているのです。シャトレ夫人は女性ですが、女性すべてがシャトレ夫人(と同じような立場)なのではありません。これは誤読ですか? Texturalさんは「「すべての女性」とは述べていません」と書かれましたが、だとしたら文章の中で「(すべての女性ではない)特定の女性である旨」の説明する文言があってしかるべきです。
あるいは、シャトレ夫人以外の女性もカントが認めていた、とする部分が出典文献にあるということなのでしょうか。出典文献には「シャトレ夫人の「デカルト主義への批判」を高く評価した」という記述はありますが、女性全体を高く評価したと書かれている部分は見当たりません。これは誤読ですか?
このように、出典文献に書かれていないこと(解釈)を記述することが独自研究であると言っているのであって、「中立的な観点」や「個人攻撃」とは関係ありません。「言語能力を養え」とおっしゃる方こそが「個人攻撃」だと思いますが。
なお、私は哲学的な話はしていません。記述と出典文献の対応についての話をしています。よろしくお願いたします--みそがい会話2021年1月27日 (水) 13:46 (UTC)[返信]

再度、引用元に誤読についてお聞きします。あなたは独善的に「哲学的な話」と言って切り捨てますが、記事についての知識です。削除する予定の記事を用意した相手に際限なく好都合な説明を要求することは不適当です。敬称の主体的な省略と補記は一回目ということもあり敢えて看過します。私の投稿に「出典文献に書かれていないこと」を読み込むあなたの姿勢は、恣意的な解釈であり、「中立的な観点」からは逸脱します。「中立的な観点」を悪用した「個人攻撃」は可能であり関係します。(著作権切れを除けば)単なる引用が50%を超えることは違法行為に繋がることから避けるべきであり、当然文言の微細な相違は許容されるべきです。相手の行動を承知の上で、硬性過ぎる典拠の利用は個人攻撃の方法になり得ます。投稿側の配慮もありますが、あなたの底意(善意)と独自の解釈はルール違反(独自研究)です。

ニュートンたちの、現在の物理学の先人に相当する研究者は、シャトレの数式を認めませんでした。それがなぜなのかを説明できますか?予備知識が必要なのです。引用元は、カントの感受性を前提として許容する解釈であり、あなたの読解は明確な誤謬です。女性研究者の中ではシャトレを評価していたというような荒唐無稽な解釈は撤回して下さい。これは重要なことです。あなたは「「言語能力を養え」とおっしゃる方こそが「個人攻撃」だ」とおっしゃいますがこの討議については要請です。シャトレの数式では、結局自然科学の可能性を早期に限定し過ぎる為に、棄却されたのです。単に未来の物理学を真似ただけのシャトレは正当に評価されませんでした。それは哲学と科学の相違でもあります。研究者という単語一つを取っても、あなたの知識不足と惰性は、致命的な打撃になるのです。ウィキペディアには、シャトレの翻訳が現在でも正しいとは書かれていません。フランス物理学の現在を考慮すれば、自然科学の研究者のみならず、典拠の用語を借用すれば「研究者」になりますが、研究者全般が理解することです。予備知識は必要であり、あなたの無際限の要求姿勢は全く不適切です。典拠には存在しない用語を「敢えて」追加する観点も、独自研究に相当し得ます。あなたの女性に関する粗末な多重量化を強要するその解釈を認めることはあり得ません。文案について検討の余地は要請ですが、その範囲内の存在は、独自研究の存在を必ず含意することはありません。あなたの言い方は個人攻撃に相当します。善意に取る姿勢が不足していることも、問題のある編集姿勢です。これらは繰り返しです。--Textural会話2021年1月29日 (金) 10:25 (UTC)[返信]

Texturalさんは、私の指摘している疑問に対して「「出典文献に書かれていないこと」を読み込むあなたの姿勢」と書き込まれていますが、出典文献に書かれていないことを導入部に記述しているのはあなたです。
引用元とされる文章と、Texturalさんの記述を比較してみます。
引用元はTexturalさんが2021年1月25日にコメントされた部分です。二つの文章を比べれば、同じことを「別の言葉で」言い換えている、とは言えないことが分かります。(出典文献の他の部分とを合わせているのかもしれませんが、であれば具体的にどの部分を考慮してこのような記述になっているのか示して下さい。そうしていただけるといわゆる私の誤読なるものが何に由来するのかはっきりします)
繰り返しますが、引用元では、シャトレ夫人のような女性に限定した表現なのに、Texturalさんの記述では単に「女性」という広い表現に変わっています。女性全般に対する批判・評価という文章である、と私は解釈します。なので、出典文献の著者の意図から外れていて独自研究にあたるのです。哲学的な話では全くなく、文献に書かれている文章をどのように表現し直すか、ということです。言葉を削ることによって意図から外れるのであれば、それは削れない言葉なのです。Texturalさんのこの記述に限っては、記事についての知識も、ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。出典文献に対する私の解釈のどこが誤読なのかと聞いているのですが、そういう予備知識云々というのは適切なコメントではありません。また、私は「女性研究者の中ではシャトレを評価していた」ではなく「シャトレ夫人のような女性を」と書いていますので勝手な解釈変更はしないで下さい。
もうひとつ、導入部へ記述すべき内容なのか、という点があります。
Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#導入文」に「その記事が取り扱う最も重要な点を簡潔に述べる」とあります。果たして、この記述は最も重要な点に入るのでしょうか。カントがその時代としては女性研究者を評価した、という内容は生涯節や思想節にも書かれていません。つまり、現状では記事には全く書かれていない内容です。したがって、そもそも導入部で記述すべきではなく、他の節において先ずは記述するのが妥当だと考えます。これは最初に私が言ったことですが、Texturalさんはどうお考えですか。
再度申し上げます。出典文献に書かれていないこと(解釈)を記述することが独自研究であると言っているのであって、「中立的な観点」や「個人攻撃」とは関係ありません。独自研究と考えられる記述を指摘すると、中立的な観点や個人攻撃になるんですか? 心外です。今一度、上記に示した私の指摘に対して冷静にコメントいただけるようお願いします。
あと、「Help:ページの編集#字下げ」にありますように、コメントでは字下げしていただけると追いやすくなります。(こちらで今までの分を字下げ編集しても構いませんので、その場合はお知らせ下さい)
以上、よろしくお願いします。--みそがい会話2021年1月31日 (日) 12:55 (UTC)[返信]

X 私は「女性研究者の中ではシャトレを評価していた」ではなく「シャトレ夫人のような女性を」と書いていますので勝手な解釈変更はしないで下さい。
>論文ではシャトレ夫人に対するエピソードはあるが、一般女性に対する評価は見当たらない。
>例えば、「シャトレ夫人によるデカルト主義への批判を高く評価もしていた。」という内容があります。
>自己主張する特定の女性を他の研究者よりも認めていた」(太字は私の補記)
こういう発想が論外(太字等)

「他の研究者」と「自己主張する特定の女性」(の比較)では、「自己主張する特定の女性」を「認めていた」という言い方ではなく、「カント」が「他の研究者」よりも(自己主張する特定の女性を)「認めていた」ということが本旨です。誤解がなければいいのですが、あなたの言い方だと誤読です。ニュートンの話はそれを伝えるもので、必要です。引用も元の研究者という用語を正しく理解して下さい。あなたの誤読による独自研究の捏造は認めません。出典と別の解釈が成り立つという趣旨の主張によって、独自研究が認められることもありません。出典に書かれている内容を別の言い方で述べればいいのです。
それから、「自己主張する特定の女性」をあなたが誤解しているようです。「自己主張する特定の女性」は個人ですか。全く違います。代表はシャトレだったとします。他の人との感覚的なコネクションに従って、行動を最適化しようとするのが女性です。カントにとっては性愛の対象としても圏外でしたが、女性はそのような機会の洗礼として、自身が属するジェンダーに対する愛好を問い合わせたりします。男性はむしろその人についてのことを気にするでしょう。そのような相違について(中島義道の)カントは、女性を、「支配を遂行する性」として描写しています。それは「種の保存」にかんする「女性が訳に立つ唯一の」原理であり、それ以外は無なのです。この観点は、集団に対する愛好を前提とする「支配」としての、前述の観点とも連合します。この辺りは私の文案の評価とは、「直接的には」関係しないとも考えられますが、あなたの「個体ベースでの文案評価」は、女性に対しての通常の認識とも、私の文案のみならず、中島義道のカント理解とも相違するようです。

X Texturalさんのこの記述に限っては、記事についての知識も、ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。
その理屈だと「シャトレ夫人のような自ら研究し学会で堂々と自己主張する女性を当時の他の研究者よりも」という部分を評価する能力が(あなたには)ないことを無視してしまいます。著者はその文章の、残りの箇所すべてで、私が述べたことと同様のことを主張しているのであり、「Texturalさんのこの記述に限っては、記事についての知識も、ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。」という手抜きと横暴は、単なる勘違いです。これらの主張は、全てが既に述べられていることであり、査読の真似ごとに関する、あなたの才能の欠如が如実に伺われます。「そういう予備知識云々というのは適切なコメントではありません。」という、相手の助言を素直に聞かない姿勢が、相手の投稿を独自研究にでっち上げる口実になっています。あなたの行動は論外です。

X これは最初に私が言ったことですが、Texturalさんはどうお考えですか。
全くの論外です。中島義道著「純粋異性批判 女は理性を有するのか?」を知らない部外者の暴論に過ぎません。純粋理性批判はカントの主著であり、どうして女性には純粋理性批判が理解できないのか、純粋理性批判を女性はどう読むべきなのかという視点に、〈純異〉は貫かれています。言い換えれば、すべてあなたのことです。この辺りは単に言い方であり、全集にご興味があるのでしたら、片ったぱしから通読しアカデミー版と照応するべきだと思います。量化子を適切に扱うことは、私とカントと引用元の著者にも共通することですが、あなたには欠如している。勝手な解釈を読み込むから独自研究にしたくなるのです。あなたは「女性」と「(一部の)女性」という、あなたによる恣意的な区別を重視しましたが、そのような人は私たちにはいません。あなたの行動は中立的な観点から逸脱した風変わりな行動でしかなく、やはり、字の通り論外です。このように、本文で既に述べられていることを適切に要約した内容になるのです。これは勿論、私の文案が独自研究かどうかとは独立に評価されることです。性別をどのように決定するかは、カント学からは演繹されないのです。そして、カントの主張が基本的には正しいという理由でカント学が存立しているのですから、そのような要約も許容される余地があるのです。あなたの恣意的な言い換えは、このような理由でも不適当で、やはり予備知識は必要ということに尽きます。その最初に述べられたことが誤読であることは、独自研究かどうかとは独立に成立する上に、あなたの観点の捏造の原因でもあるということです。現代物理学は、ポテンシャルが低下することをも証言しています。最初の一言が誤読では、査読の真似は無理です。

X コメントでは字下げしていただけると追いやすくなります。
その辺りは経験に依存すると思います。理科の研究者には、和文でコンマとピリオドを使う気違いがいますが、そのような日本語は存在しません。「閾値」を「しきいち」と読む言語習慣も端的に存在しないのです。今ば2人なので、私にはこの方が見易いです。今回から若干の変更を行いましたが、そうでもないです。ご検討をお願いします。以上、あなたの風変わりなご助言以上には重要なことをお知らせいたしました。ご配慮の期待でもあります。宜しくお願いします。

要約しますと、やはりあなたの主張が知識不足により全面的に違うので、中立的な観点に則っていません。当方の文案は、本質的に独自研究ではないす。あなたの比較した2文の内容が同じ扱いになればいいのです。そうなっていれば、独自研究とは違います。主張の撤回を期待します。そして、あなたの観点についての検討を期待します。勿論私の主張はあなたの主張を踏まえてのものに過ぎず、それ故にこそ、一方的に正しいということを期待する必要も皆無です。--Textural会話2021年2月3日 (水) 09:24 (UTC)[返信]

導入部への記述(2021年1月23日 (土) 17:44編集)に関して

この編集[2]において、「本人の文壇における性差の克服もあり、同時代の女性学修者の知名度が高かった」という記述に出典が提示されました。この記述、および出典に対して疑問があったため編集者に確認したところ、さらに疑問が深まったため、ここであらためて問題点として提示します。

疑問点としては、大きく分けて2つあり、「記述そのものの妥当性」「出典の記述方法」です。

編集者に対しては既に以下の質問をしました。(抜粋)(実際のやりとりについてはこちらこちらを参照)

  1. 誰による評価なのか
  2. 女性学修者とは誰を指しているのか
  3. 出典文献の正確な情報は無いのか

これに対して以下の返答がありました。

  1. カント自身の著作の中で記述されていた
  2. 調べれば分かるはず
  3. 相当する書籍はあるが発行年は不明(洋書 注:書名は編集者が訳したものらしいが該当する書籍の書名はない)

さらに、やりとりの中から分かったことは、「女性学修者」とは特定の人物らしく、その女性について述べている、ということのようです。

つまり、カントの自著(1次資料)において、特定人物に対する記述であるにもかかわらず、女性学修者と敷衍した語にした上で、しかも評価の方向が逆の(主客転倒している)文章になっている、と思われます。これは「Wikipedia:独自研究は載せない」に抵触する記述であると考えられます。1次資料であることは別にしても、特定人物に対する論評に記述を修正したところで、そもそも導入部に記述する内容ではありません。削除するのが妥当であると考えます。なお、出典文献情報についてはおいおい詳細が確定するとは思いますが、独自研究となる記述はいただけません。--みそがい会話2021年1月27日 (水) 10:45 (UTC)[返信]

単に独自研究にならないようにすればいいのだと思います。主客の転倒についてですが、客観化するとそうなります。相互主体性についてご検討をお願いします。--Textural会話2021年1月27日 (水) 12:14 (UTC)[返信]
Texturalさんは私へのコメントで「(カントの)著書(の中で)で女性について述べている」(かっこ内は私の補記)としています。つまり、カントによる女性の評価とみるのが妥当であって、それを客観化すると主客が転倒するというのは独自研究にあたります。
「AはBについて述べる」という事項を客観化して「BはAについて述べる」となるのは、明らかに「Wikipedia:独自研究は載せない#何が除外されるか」における「新しい未発表の理論や解決法」「オリジナルのアイデア」に相当します。編集者が行えることは「信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです」(「独自研究は載せない」導入部より)。仮に、他の文献に、女性側からカントに関して何らかの言及があり、知名度云々など関係性があるのだということなのであれば、その文献を出典として用意すればいいのです。
独自研究にならないようにすればいい、とおっしゃいますが、それは当該記述が独自研究になっているという認識であるということですか? 「Wikipedia:検証可能性#方針」にもあるように、加筆する側には出典が要求され、出典に基づく内容の記述しか認められません。
(私の会話ページへのコメントで「出典文献の刊行年月日は省略可能である」というご意見に対しては「ウェブページでは省略可能だが、書物では月日のみ省略可」なのであって、刊行年は必要である(Wikipedia:出典を明記する#刊行年月日)ということです。また、外国文献ならば、外国文献の書式にしたがって記述すべきです。わざわざ書名を和訳する必要もないです。これらの点から言えば出典の書き方としては不備です)
--みそがい会話2021年1月27日 (水) 15:19 (UTC)[返信]

刊行年については当方の誤認があったようです。それについては認めます。翻訳についてはアカデミー版全集が日本語表記であり言い過ぎではありませんか。お答えをお願いします。「その」際限なく出典を要求する姿勢は中立的な観点に反します。現在の出典で投稿可能という主張であり、「カントが認めた相手がいて、その人物は女性であり、シャトレを含む複数の女性である」というような内容の典拠です。難癖は不要です。この意味で、「その」際限なく出典を要求する姿勢は中立的な観点に反します。あなたの解釈に不備があるという指摘ですから、その出典は当方には用意し得ません。この論点を無視して、「出典を用意しろ」、「女性についての記事を用意しろ」とは見当違いも甚だしいと言う以外にありません。それはいいですか。

文案について検討の余地は要請ですが、その範囲内の存在は、独自研究の存在を必ず含意することはありません。こちらは独自研究ではないと主張しているのですから、二重にあなたの言い方は個人攻撃に相当します。底意もないのに二重に独自研究になるでしょうか。あなたの態度に関しての不満は既に述べています。善意に取る姿勢が不足していることも、問題のある編集姿勢です。これらは繰り返しです。独自研究だという指摘が過剰であれば中立的な観点を超えた独自研究です。その辺りは当然程度問題でもあり、編集者相互の合意形成の過渡的な段階での齟齬(後に削除・加筆等)に過ぎないということもあるでしょう。ウィキペディアの方針が不適当で、記事の出来が今ひとつという結果なら、閲覧現象と閉鎖にもなる訳です。--Textural会話2021年1月29日 (金) 10:25 (UTC)[返信]

出典文献について。
今までのところ、Texturalさんから出典自体の正確な情報が出されていません。早急に記載していただくようお願いします。なお、Texturalさんの用いている出典文献が外国文献なのであれば、日本語に訳さずそのまま記して下さい。(「カント、『人間学』、ズーアカンプ、262頁」ではなく、Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(外国語文献)Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の実例(外国語文献)を参照して下さい) 少なくとも、Texturalさんが私の会話ページで紹介してくれた文献一覧ページには、ズーアカンプ版書籍に(日本語に訳したとしても)同名あるいは類似名のものはありませんでした。1冊の中に複数の著作が含まれることがありますので、書名と論文名が異なることがあります。それが出典の提示に対する私の答えであり、それは既に「出典に明記する」に記述されている内容です。
ところで、岩波書店版カント全集でシャトレ夫人が索引に登場しているのは「活力測定考」「美と崇高の感情にかんする観察」しかありませんでした。Texturalさんが出典として用いているのはこの2つの著作にありますか? これ以外ですか?
私は日本語文献しか当たれないので、できれば文献の著作名や、その章、節まで示していただけると助かります。
記述について。
「カントが認めた相手がいて、その人物は女性であり、シャトレを含む複数の女性である」と出典の内容をTexturalさんが示されましたが、それが「本人の文壇における性差の克服もあり、同時代の女性学修者の知名度が高かった」という記述になるのであれば、単純に言って異なる内容の文章ですから、その出典を示すのが加筆しようとする編集者の責任です(Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側に)。出典を示せ、というのはWikipediaの要請であり「方針」です。
また、Texturalさんのいうところの「客観化」「相互主体性」が盛り込まれた結果であるならば、独自研究であるといわざるを得ません。独自研究を排除するのもWikipediaの「方針」です。
さらには、出典はカントの著作であり1次資料です。「(カントは)知名度が高かった」(カントは自分のことを知名度が高いと評している)、という記述があったとしても、導入部に評価として載せるのは不適当であると考えます。(「Wikipedia:独自研究は載せない」一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません)
また、#導入部の記述(2021年1月25日 (月) 21:21編集)に関してでも述べましたが、仮にこの記述が何らかの出典が伴って改善されたとしても、導入部に記述する内容にはならないと考えます。重要ならば既に他の節で記述されているはずです。--みそがい会話2021年1月31日 (日) 14:41 (UTC)[返信]

あなたがリバートしたので、別の出典を用意した訳ですが、それが見づらくなっているのはあなたのせいです。出典が同じだと述べましたか?女性がシャトレだと言いましたか?すべたあなたの誤読・妄想であり、私の投稿とは無関係です。査読の真似事は自粛するべきでしょう。
「導入部に評価として」「考えます」という内容自体がルールの範囲外です。あなたの独自研究であり、中立的な観点とは無関係です。ルール違反なのはあなたです。
全集を読む暇があるなら、固有名詞を含めて、女性についての記述をすべて確認して投稿すればいいと思います。本文に記述があるから重要というような決まりはないので、その基準は認められません。あなたの勝手な考えにすぎません。確かに、該当記事はかなり成熟していますが、冒頭部分は私が直しました。一部は削除済みですが、それでも改善の一助にはなったと思っています。削除された内容については、時間を見て、加筆等を含めて復帰する予定です。ですから、あなたの発想で、冒頭の内容を決定することが適当とは思えません。冒頭が良くなかったので直した訳ですから、本文も私の期待とは相違します。冒頭に関するあなたのルールについての知識を教えて下さい。どこに記載されているルールですか。
繰り返しますが、アカデミー版という言い方自体がもう日本語なので、外国語の文献でも、日本語で表記する権利はどの投稿者にもあるはずです。現状のルールはそういう解釈では。あなたのために記事を書いている訳ではないので、言語は適宜選択すればいいでしょう。恣意的な要求だと思います。あなたの要求は、リンク先のルールとは違います。あなたには、中立的な観点が欠落しているのだと思います。
索引に関するあなたの直感を安易に信用しないで下さい。例えば、岩波文庫の論理哲学論考では、意図的に索引からは命題を除外しています(命題記号、命題形式、命題変項は索引にも明記)。これは落丁等とは異なり、内容についての言及であり、そのようなことについて「独自研究」だと主張されると厄介です。その全集も、それ以外の箇所でも、その人物に論及している箇所が存在するという可能性はかなり高いです。あなたの底意はまたしても不当です。内山勝利訳のソクラテス以前哲学者断片集も索引の出来はそこまでではありません。高価な書籍は安価な書籍の後で作ります。高階理論同様であり、確度に関する通俗的な発想が裏切られる機会が多いのは、そのような高価な本です。もちろん例外はあるでしょう。このようなことは書籍に関する常識の部類であり、あなたは書籍の性質を理解しているとは言い難いです。執拗に反発していますが「ニュートンなどの先人の研究者の予備知識も不要です。」という発想が問題の原因であり、早急に撤回するべきだと改めて主張します。仮に出典以外の予備知識が一切不要なら、全集に依拠したあなたのシャトレについてに索引の情報が意味を持つことはないと思います。その意味ではあなたの主張は矛盾です。
要約しすと、該当記事も、外国語の出典を日本語表記で出典にしていますが、それについての説明をお願いします。これは既に問い合わせたことです。いいですか。--Textural会話2021年2月3日 (水) 09:24 (UTC)[返信]